神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
<口語訳>
神無月の頃、栗栖野という所を通り過ぎてある山里にたずね入る事がありましたが、遥かな苔の細道を踏み分け、ひっそりと住みなしている庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の他には、少しも音をたてるものはなし。閼伽棚に菊や紅葉などが折り散らしてある、さすがに住む人があるからなのだろう。
これでもいられるんだなと、あはれと見ているうちに、むこうの庭におおきな蜜柑の木が、枝もたわむほどになっているが、周りをきびしく囲っており、少し興ざめして、この木がないほうがましかもと思えた。
<意訳>
神無月の頃、とある山里を訪れた。その途中で栗栖野というところを通りかかると、長い苔の細道が踏み分けられ、その奥にひっそりとした佇まいの庵があるのを見つけた。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の音以外には何の音もしない。仏に供物をささげる閼伽棚には菊や紅葉が切り取られ供えられている、だれか住む人のある様子だ。
このような暮らしも、なかなか悪くない。もののあはれを感じられると見ていたら、むこうの庭に、枝もたわわに実る蜜柑の木があり、その周りに蜜柑を盗られまいとして柵をめぐらしていた。こんな人里離れたところの蜜柑なんか誰が盗るというのだ。こんな木はない方がましだなと思った。
<感想>
この第十一段は、前の十段と関連した話しであるようだ。この段だけで独立した話しではなく、住まいは住む人の品格を現すという昨日の話しの続きのようである。
しかし、十一段を読み解いていて、あまりのわけの分からない文章ぶりにあきれてしまった。語順がぐちゃぐちゃで文章のつながりがものすごく変なのだ。詩なら湧き出るイメージそのままに、湧き出た順番で書き連ねんのもありだけど。これは随筆だろ、もう少し他人が読んで分かるように書けよ。
しかし兼好法師も、この俺にだけはこんな事を言われたくなかっただろうね。
「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり」
これが十一段の出だしだ。なんとなく、意味はわかる。しかし、ちゃんと分かろうとすればするほど良くわからなくなる。
「10月頃、栗栖野を通り山里をたずね、遥かなる苔の細道を踏み分け、ひっそりと誰かが住んでる庵がある」
結局、この庵はどこにあるのか? 山里なのか? それとも栗栖野か?
苔の細道を踏み分けたのは誰か? 兼好法師か? それとも庵の主か?
その後もまずい。「さすがに、住む人のあればなるべし」ってなんだよ。さっき「住みなしたる庵あり」って書いたばかりだろ。すでに、人が住んでいる庵があると書いているんだから、人が住んでいる事にふたたび感動し直すなよ。わけわからん。
「かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ」
これも意味はなんとなくわかるが、語順がパラレルで頭がジャングルな文章だ。
「むこうの庭に、大きなミカンの木の、枝もたわわになっているが、まわりをきびしく囲っており」
きびしく囲っているのはどこなんだよ? 庭なのか? ミカンの木のまわりなのか?
大きなミカンの木が先にきて、その後に枝がたわわになっていると続く順番も、なにやら下手な翻訳の文章を読まされているようで、脳みそがかゆくなってくる。
この第十一段、名文として教科書なんかにも紹介されているらしいが、どうなのと思ってしまう。しかし、なんとなく意味だけは通じたんだから、もしかしたらこれで良いものなのかもしれない。
原作 兼好法師
現代語訳 protozoa
参考図書
「徒然草」吉澤貞人 中道館
「絵本徒然草」橋本治 河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
<口語訳>
神無月の頃、栗栖野という所を通り過ぎてある山里にたずね入る事がありましたが、遥かな苔の細道を踏み分け、ひっそりと住みなしている庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の他には、少しも音をたてるものはなし。閼伽棚に菊や紅葉などが折り散らしてある、さすがに住む人があるからなのだろう。
これでもいられるんだなと、あはれと見ているうちに、むこうの庭におおきな蜜柑の木が、枝もたわむほどになっているが、周りをきびしく囲っており、少し興ざめして、この木がないほうがましかもと思えた。
<意訳>
神無月の頃、とある山里を訪れた。その途中で栗栖野というところを通りかかると、長い苔の細道が踏み分けられ、その奥にひっそりとした佇まいの庵があるのを見つけた。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の音以外には何の音もしない。仏に供物をささげる閼伽棚には菊や紅葉が切り取られ供えられている、だれか住む人のある様子だ。
このような暮らしも、なかなか悪くない。もののあはれを感じられると見ていたら、むこうの庭に、枝もたわわに実る蜜柑の木があり、その周りに蜜柑を盗られまいとして柵をめぐらしていた。こんな人里離れたところの蜜柑なんか誰が盗るというのだ。こんな木はない方がましだなと思った。
<感想>
この第十一段は、前の十段と関連した話しであるようだ。この段だけで独立した話しではなく、住まいは住む人の品格を現すという昨日の話しの続きのようである。
しかし、十一段を読み解いていて、あまりのわけの分からない文章ぶりにあきれてしまった。語順がぐちゃぐちゃで文章のつながりがものすごく変なのだ。詩なら湧き出るイメージそのままに、湧き出た順番で書き連ねんのもありだけど。これは随筆だろ、もう少し他人が読んで分かるように書けよ。
しかし兼好法師も、この俺にだけはこんな事を言われたくなかっただろうね。
「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり」
これが十一段の出だしだ。なんとなく、意味はわかる。しかし、ちゃんと分かろうとすればするほど良くわからなくなる。
「10月頃、栗栖野を通り山里をたずね、遥かなる苔の細道を踏み分け、ひっそりと誰かが住んでる庵がある」
結局、この庵はどこにあるのか? 山里なのか? それとも栗栖野か?
苔の細道を踏み分けたのは誰か? 兼好法師か? それとも庵の主か?
その後もまずい。「さすがに、住む人のあればなるべし」ってなんだよ。さっき「住みなしたる庵あり」って書いたばかりだろ。すでに、人が住んでいる庵があると書いているんだから、人が住んでいる事にふたたび感動し直すなよ。わけわからん。
「かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ」
これも意味はなんとなくわかるが、語順がパラレルで頭がジャングルな文章だ。
「むこうの庭に、大きなミカンの木の、枝もたわわになっているが、まわりをきびしく囲っており」
きびしく囲っているのはどこなんだよ? 庭なのか? ミカンの木のまわりなのか?
大きなミカンの木が先にきて、その後に枝がたわわになっていると続く順番も、なにやら下手な翻訳の文章を読まされているようで、脳みそがかゆくなってくる。
この第十一段、名文として教科書なんかにも紹介されているらしいが、どうなのと思ってしまう。しかし、なんとなく意味だけは通じたんだから、もしかしたらこれで良いものなのかもしれない。
原作 兼好法師
現代語訳 protozoa
参考図書
「徒然草」吉澤貞人 中道館
「絵本徒然草」橋本治 河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫
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