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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

足りないもの、それは気合い!

2008-02-15 21:30:16 | 駄目
 最近、どうも気合いが足りない。
 
 いや、足りないのは気合いだけじゃないんだけど、
(他にも、足りないものは、カルシウムからビタミンに頭のネジまでいくらでもあるのだけれども)
 とりあえずはまず気合いが足りないような気がする。

 具体例をあげるなら、数えきれない。

 例えば、昨夜はビールをキーボードに大量にこぼして、キーボードをご臨終させてしまった。
 なんだが、ビールをこぼした事を俺は全く記憶していない。

 どうも、昨夜はマイコンピュータをねぶっているうちに寝てしまい、グニャリと寝た拍子にこぼしたビールでキーボードを壊したらしい。

 これは推測なんだが、どうもそうらしいのである。

 俺がしたのでないでのないなら、誰か他の他人が、俺が寝ているうちに、キーボードにビールをこぼした事になるのだ。
 が、その推測は怖いのでやめておこう。
 俺が寝ているうちにキーボードにビールをこぼす「他者」の存在は「妖怪」並みに怖い。
 俺がこぼしたのだ。
 俺以外に、ビールをこぼす人間はこの部屋にはいないはずだ。

 と俺は思う。

『梅は咲いたぁかぁ』


080215

「桜ぁまだかいなぁ。ヒック」


無駄なおどし

2008-02-13 19:28:32 | 駄目
 誰でも、生きながらに必ずいらなくなる時が来る人もいる。
 また、可哀想なんだけども、生まれながらにして必要とされない人間もいる。

 足手まといとなる人間は必ずいつでもいる。

 それが、未来への投資である「子供」ならば、それは絶対に社会的に守らねばならない「未来への資産」なんであるし、いずれは使える時もくるという計算もはたらくので、育てるのだが、老いて死に逝く者や、生まれながらの不遇者は、本音を言うならば、世話をする身になるならば、世話など無意味で本当はいらない。

 いる。

 いらない。

 ってのは、
 世間的な評価であって、いらないとされる本人には全く関係ないこと。

 だが、長く生きていると、足手まといな、いなくても良い、とっとと早く死んで欲しいような人間との関係は必ずいつか発生する可能性のほうが高い。
 だいたい、自分だって、いずれは足手まといになる可能性がかなり高い。

 ぶっちゃけ、恩義なんか関係ない。

 受けた恩を返す必要なんかないし、返さねばならないような恩なんてあり得ないと思う。

 この世は「戦場」だ!

 戦い続け、弾を補充し続けねば、誰も生きてはいけない。

 どんなに心優しくとも、敵陣の中、足手まといの老兵や負傷兵を背負っての行軍は出来ない。無理なのだ。
 口先だけのヒューマニズムでは老いた母さえ救えないし、それに、やがては、己も老いて死にかけるはずだ。
 戦場では、戦力にモノを言わせた第三者からの労働力の搾取が無いかぎり、いらない人間は救えない。ならば、誰の労働力を搾取するのか?

 あなたが、
 あなたには救えるのだろうか?
 この戦場で、
 いらなくなりつつある戦友を!

 そして尽くして愛した家族から、死ぬなら早く死んでくれよと願われつつも、自殺するだけの体力もなく、腐り行くだけの我が身体。老いは死は必ずくる。


オナニーのプロ

2008-02-09 20:48:45 | 駄目
 まぁ作文ってのはやはりどうもだいたいが気取りであって、どうしても「ええかっしい」の呪縛からは逃れられない。
 もはや取り繕うナニモノもビタひとつ無いようなこんなみじめな俺であってさえも、人からかっこよく思われたいという心は捨てきれない。

 作文だけではない。
 嘘に化粧に思想に演劇。
 歌謡から芸術。
 さらには農作物や生産物。
 ありとあらゆる人間の営みの半分以上は、他人から良く思われたいと言う「ええかっこしい」の心が根本にあるような気がする。

 ええかっこしいに対立するのは、純粋にしたいからするっていう自己の欲望であろう。

 この観点から、人間の行動を簡単に分類すれば、
 
1、他人から良く思われたい。

2、したいからする。

 の2つに分類できるが、だからなんなんだか、こんな分類をしたから何がどうなるんだよってかんじの分類であり、分ける意味も必要性もない。
 あえて言うなら、俺がこの今した分類は、したいからするって方に含まれるなと思った。分けてみたかったのだろう。

 ところで、文章、いや、タイピングは指の流れでもって思ってもいない方向性に向かいやすいが、ほとんどのタイピングはええかっこしいをしたいが為のウソ八百で塗り固めた装飾に偏りやすい。
 これは、作文だけでなく、ありとあらゆる表現はその危険性をはらみ、そして、ソレは、誰にでも理解され、かつ誰からも喜ばれる、ようするにみんなから凄いと誉められるような表現方法へ傾く。てか、そういうのが良いとされる。
 表現においては、したいからしたって表現は、たいてい周囲から「センズリ」とか「オナニー」とか、そんなの自己満足にすぎないと貶められる。

 そんでもって、誰もが喜ぶような表現手段(技術)を極めた人間が「プロ」と呼ばれて尊ばれるのだが、それについてはそれで別に良いのだろう。
 まずいパンを作りたかったから作ってみました、なんてパン屋は、やりたいならどうぞとは思うけど、そんなパンは商品にならない。俺は買わない。

 そんなで、今夜は東京には珍しく凄い雪で、明日の通勤が不安なので、今夜はもう寝ます。雪があんまり積もらない事を祈りつつ、皆様おやすみなさい。

(ちなみに、ヘンリー・ダーガーはオナニーのプロ)


ひとり静か

2008-02-08 19:13:13 | 駄目
 まぁ、あっちゅう間に何もないままに気がついたら2月だ。
 で、年月の流れは砂時計の砂のようにサラリとしていながらも、俺の手からドボドボとただただスルーしていく。
 その様子はまるでとどまることをしらず、ただ肉体のみ衰え年老いていく。

 俺はこのまま何も成し得ず死んでいくのだろうな。
 俺は誰の記憶にも残らないだろう。
 俺の葬式には何人がきてくれるのだろうか。
 俺が死んだ時に泣いてくれる人などいるのだろうか?

 なんか無縁仏として人知れず共同埋葬されるのがオチのような気がする。

 それが良い。

 それは望ましい死に方なのだ。

 生きている間にずいぶん人に迷惑をかけた。
 何も死ぬ時まで他人に迷惑をかけることはない。
 香典も線香も葬式もいらないから、出来る事なら誰にも迷惑をかけずに死にたい。誰にも知られずひっそりと1人息絶え土に帰れたなら、それは理想の死に方だろう。