望月の円かなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様の見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、まだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄信迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、触りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。
<口語訳>
望月の円かな事は、しばらくもとどまらなく、やがて欠ける。心とめない人は、一夜のうちにそれまで変る様子が見えないにあるまいか。病の重さも、とどまる隙なくて、死期すでに近い。されども、まだ病い急ならない、死に赴かない程は、常住平生の念に習って、生の中に多くの事を成した後、閑かに道を修めようと思ううちに、病を受けて死門に臨む時、願い一事も成せてない。言う甲斐なくて、年月の懈怠を悔いて、この度、もし立ち直って命を全うすれば、夜を日に継いで、この事、あの事、怠りなく成したいと願いを起こすけど、やがて重くなれば、我にもなく取り乱して果てる。この類いのみこそあろう。この事、まず、人々、急ぎ心に置くべき。
願いを成して後、暇あって道に向かおうとすれば、願い尽きるはずない。幻のごとき生の中に、何事をか成せる。すべて、願いみな妄想である。願いこころに来たらば、妄信 迷乱すると知って、一事をも成すべきでない。すぐに万事を放下して道に向う時、障害なく、する事なくて、心身永く閑かである。
<意訳>
満月の丸さは少しもとどまらなくて、やがて欠ける。
月に心とめない人には、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているのに、見えてないのだろう。
病いの重さも、とどまる隙なく死期はすぐ。
けれども、まだ病気も重くなくて死なない程度のうちは、誰しも「ずっと平穏人生」の心だ。
もっと一杯いろんな事をした後、老後にでも静かに仏道を修めようかなとか思っていると、病いを受けて死に臨む時。
願いなんか一つも成せてない!
語るもむなしく、年月の怠惰を悔やみ、
「この度、もし病いが治って命を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行います!」
とか願うけど、やがて病気は重くなり、我をなくし取り乱して果てる。
こんな例ばかりだ。この事をまず人々は急いで心に刻むべき。
俗世での願いを果たした後に、暇があったら出家したいじゃ、願いが尽きるはずもない。
幻のごとき人生に、何が成せるか。すべての願いは、みな妄想である。
願いが心に浮かんだら、それは妄信を生み、心を惑わすものだと知って、なにもするべきでない。
すぐに全てを放りだして仏道に向えば、なんの障害もなくて、する事もないから、身も心も末永く静かである。
<感想>
もうすぐ『徒然草』は終わる。兼好は総まとめに入ったようだ。
この段は、いますぐ俗世を捨てて仏門に入る事をすすめる文章で、今まで何度も『徒然草』の中で繰り返された話であるが、最終まとめとして、また少し論点を変えて切り出している。
この段では、仏門の僧として、兼好ではなく兼好法師として語っている。
まぁ、兼好としては、「自讃の事」の238段から、すでに『徒然草』のまとめに入っていたようにも読める。
原作 兼好法師