墨汁日記

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徒然草 第二百四十一段

2006-03-12 12:01:06 | 徒然草

 望月の円かなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様の見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、まだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
 所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄信迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、触りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。

<口語訳>
 望月の円かな事は、しばらくもとどまらなく、やがて欠ける。心とめない人は、一夜のうちにそれまで変る様子が見えないにあるまいか。病の重さも、とどまる隙なくて、死期すでに近い。されども、まだ病い急ならない、死に赴かない程は、常住平生の念に習って、生の中に多くの事を成した後、閑かに道を修めようと思ううちに、病を受けて死門に臨む時、願い一事も成せてない。言う甲斐なくて、年月の懈怠を悔いて、この度、もし立ち直って命を全うすれば、夜を日に継いで、この事、あの事、怠りなく成したいと願いを起こすけど、やがて重くなれば、我にもなく取り乱して果てる。この類いのみこそあろう。この事、まず、人々、急ぎ心に置くべき。
 願いを成して後、暇あって道に向かおうとすれば、願い尽きるはずない。幻のごとき生の中に、何事をか成せる。すべて、願いみな妄想である。願いこころに来たらば、妄信 迷乱すると知って、一事をも成すべきでない。すぐに万事を放下して道に向う時、障害なく、する事なくて、心身永く閑かである。

<意訳>
 満月の丸さは少しもとどまらなくて、やがて欠ける。
 月に心とめない人には、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているのに、見えてないのだろう。

 病いの重さも、とどまる隙なく死期はすぐ。
 けれども、まだ病気も重くなくて死なない程度のうちは、誰しも「ずっと平穏人生」の心だ。

 もっと一杯いろんな事をした後、老後にでも静かに仏道を修めようかなとか思っていると、病いを受けて死に臨む時。

 願いなんか一つも成せてない!

 語るもむなしく、年月の怠惰を悔やみ、

「この度、もし病いが治って命を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行います!」

 とか願うけど、やがて病気は重くなり、我をなくし取り乱して果てる。
 こんな例ばかりだ。この事をまず人々は急いで心に刻むべき。

 俗世での願いを果たした後に、暇があったら出家したいじゃ、願いが尽きるはずもない。
 幻のごとき人生に、何が成せるか。すべての願いは、みな妄想である。
 願いが心に浮かんだら、それは妄信を生み、心を惑わすものだと知って、なにもするべきでない。
 すぐに全てを放りだして仏道に向えば、なんの障害もなくて、する事もないから、身も心も末永く静かである。

<感想>
 もうすぐ『徒然草』は終わる。兼好は総まとめに入ったようだ。

 この段は、いますぐ俗世を捨てて仏門に入る事をすすめる文章で、今まで何度も『徒然草』の中で繰り返された話であるが、最終まとめとして、また少し論点を変えて切り出している。
 この段では、仏門の僧として、兼好ではなく兼好法師として語っている。

 まぁ、兼好としては、「自讃の事」の238段から、すでに『徒然草』のまとめに入っていたようにも読める。

原作 兼好法師


徒然草 第二百四十段

2006-03-11 21:15:24 | 徒然草

 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
 世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑ははしきにつきて、「誘ふ水あらば」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分け来し葉山の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
 すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくく、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、ただ、色好まざらんには如かじ。

<口語訳>
 しのぶの浦の海人の見る目も所塞ぐ、くらぶの山も守る人多かろうに、わりなく通わない心の色こそ、浅からず、哀れと思う、節々の忘れにくい事も多かろう、親・同腹から許されて、ひたすらに迎え据えたり、とてもまばゆくないはず。
 世にあぶれる女が、似あわない老法師、あやしい吾妻人なりを、賑わしいについて、「誘う水あれば」など言うのを、仲人、双方とも心にくい様子に言いなして、知られない、知らない人を迎えもつ来たら相なさよ。何事だか打ち出す言葉にせよ。年月のつらさをも、「分けて来た葉山の」などをもたがい語らうのこそ、尽きぬ言葉でもあろう。
 すべて、よその人の取りまかなった、いたって心づかない事、多かろうはず。よい女だろうにつけても、品下り、みにくく、年もたかかろう男は、こんなあやしい身のために、あたら身をいたずらになすのはと、人も心劣りさせられ、我が身は、向い居るも、影恥かしく覚える。ひどくこそ相なかろうよ。
 梅の花こうばしい夜のおぼろ月にたたずみ、垣が原の露分け出よう有明の空も、我が身(の)様に偲ばれるはずもなかろう人は、ただ、色 好まなかろうには如かない。

<意訳>
 恋する男と、嫁いだ女ほど哀れな生き物はない。

 しのぶ浦へ、愛する人に会いに行けば、海人が見ている。
 くらぶ山にも、山守りが多い。

 わりにもあわない、通いもしない心こそ深く哀れだと思うが、たまにゃ忘れられない事もある。

 親、兄弟から許されて、ひたすらに婿を迎えたりするのは、どうも輝かしくない。
 あぶれた女が、自分の年齢に似つかわしくない老人や、あやしい関東人なんかを、経歴が賑っているからと、「誘う水あれば」などと言えば、仲人は双方ともに良い様子に言いまとめる。

 知らない人を迎える。来たら相性あうのか?
 何にせよ、語る言葉にせよ、年月のつらさを「分けて来た葉山の」などと互いに語りあえるのこそ、尽きない言葉である。
 すべて、よその人のまかせれば、いたって気にくわかない事も多いはずだ。よい女だろうとしても、品格は下り、みにくい。
 年上の結婚相手は、こんなあやしい身のために、やたらと身をいたずらにするのはなぜかと思い。他人からも心劣りされて、我が身に向かうも、鏡に映る影すら恥ずかしく思える。
 これこそひどくあいなかろうよ。

 梅の花がこうばしく薫る夜。
 あの人の家の垣根、おぼろ月にたたずみ。有明の空の下、露を分けて帰る。
 これを我が身の様に思えない人に、恋心は分かるまい。

原作 兼好法師


徒然草 第二百三十九段

2006-03-10 20:39:47 | 徒然草

 八月十五日・九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶに良夜とす。

<口語訳>
 八月十五日・九月十三日は、婁宿だ。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とする。

<意訳>
 八月の十五夜と、九月の十三夜は、婁宿の日だ。
 この婁宿の日、月は清く明るい。
 月を見るのに良い夜とする。

<感想>
「中国古代の天文学において、黄道に沿って、それに近い二十八の星座をもって、天球上の日・月の位置を示す基準とした。これを二十八宿(宿は星座の意)といい、「婁宿」はその一。当時行われていた宣明暦では、二十八宿のうち、牛宿を除く二十七宿をもって、一年中の日をこの二十七宿に配当しているが、それによると、八月十五日・九月十三日は婁宿の日に当たる。」(新訂 徒然草・岩波書店)

 俺は「サソリ座」の男なんだが、「婁宿(ろうしゅく)」は「婁座」とでも考えれば良い。
 古代中国の天文学では、黄道に沿って見える星座を月日の基準とした。
 これは二十八宿(宿は星座の意味)に分けられた。「婁宿」はそのひとつだ。
 兼好が生きていた時代に使われていた「宣明暦」という暦では、二十八宿のうち「牛宿」を除いた二十七宿で、一年を毎日、日替わりで二十七宿に分けていて。それによれば、旧暦の8月15日と9月13日は、婁宿の日となる。

 ようするに、西洋占星術では星座の巡りはひと月交代だが、中国占星術では毎日、日替わりでその日の星座が交代したのだ。

 ところで、この段の原文
『八月十五日・九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶに良夜とす。』
を素直に解釈すると、
「八月十五日、九月十三日は婁宿である。この婁宿は清く明るい故に、月を見るのに良い夜とする。」
となる。
 これでも意味は通るけど、これではあまりに座りが悪い。星の清く明るい様子と月になんの関係があるのだろうか?
 たぶん、兼好はかなり省略して書いているはずだ。

 それで、俺はこう解釈してみた。
「八月十五日と九月十三日は、婁宿(の日)である。この婁宿(の日の)、(月が)清く明るいが故に、月を見るのに良い夜とする。」

原作 兼好法師


徒然草 第二百三十八段<意訳>

2006-03-10 03:18:33 | 徒然草

 御随身の近友が「自讃」だといって、自分の自慢話を七つ書き止めた事がある。
 内容は、みな馬術がらみの他愛もない内容であるが、その例を真似て、自讃の事が七つある。

 一、
 大勢で連れだって花見に行くと、最勝光院のあたりで、男が馬を走らせている。
 それを見て、
「今一度、馬を馳せれば、馬倒れて、落ちるはず。しばし見ていたまえ」
 と言って、皆を立ち止まらせた。
 男は、また馬を馳せる。案の定、馬は止まる直前に引き倒れて乗る人は泥土の中に転がり込んだ。
 言った通りになったので、人はみな感心した。

 二、
 後醍醐天皇が、まだ皇太子でおられました頃。万里小路殿が皇太子の御所でありました。
 堀川の大納言様に用があり、御所に伺候なされている大納言様の部屋に参りますと、大納言様は『論語』の、四・五・六巻を広げておられます。
「今、皇太子に、『紫の、朱 奪うことをにくむ』という文を御覧になりたいと希望されて、『論語』から原文を捜しているのだが、見つからないのだ。『なおよく引いて見よ』と、仰せの事なので、さらに捜している」
 そう言われますので、
「それは、九巻のそこそこのあたりです」
 と、お教えしたらば、
「あら嬉しい」
 とか言って、九巻を持って行かれた。

 こんな程度の事は子供でも知っている事だけれども、昔の人は些細な事でもすごく自讃したのだ。
 後鳥羽院が、「袖」と「袂」を、一首の歌の中に入れたら悪いだろうか? と、藤原定家に尋ねたところ、『古今集』に「秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん」という歌がありますから、問題はございませんと答えたという事が、『時を狙って歌を記憶しておくのも、歌人の冥加であり、これは幸運であった』などと、ことことしく書き残されております。
 九条相国の伊通公の款状にも、さしたる事ない題目を書き載せて、自讃されています。

 三、
 常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿が下書きした。
 行房の朝臣が清書して、鋳型に模そうとする前に、奉行をしていた入道がその草書を取り出して見せてくれた。
「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」
 という句が草書にある。
「陽唐の韻に見えるが韻をふんでいない。百里は誤りではないだろうか?」
 と言うと、
「よくぞ見つけられた。これは私の手柄にさせてもらいますよ!」
 と言って、筆者のもとへ奉行の入道が知らせれば、
「誤りでございました。百里は数行と直されませ」
 と返事あった。

 しかし数行もいかがなものか。もしや数歩の心か。おぼつかない。
 数行なお不審。数は四五である。鐘四五歩では幾ばくもない。
 ただ、遠く聞こえる心である。

 四、
 大勢で比叡山の三塔を巡礼しました。
 横川の「常行堂」の中には『滝華院』と書かれた古い額があります。
「この額の作者は、佐理であるか行成であるか、今では分からないと言い伝えらえております」
なんて、案内の僧がもったいぶっていうものだから、つい、
「行成なら裏書きがあるはず。佐理なら裏書きがあるはずない」
なんて言ってみたりしたら、額の裏は塵がつもり、虫の巣で良くわかんなくなってるのを、はらって拭いて見ますと、行成の位署や名字、年号まで、さだかに裏書きが見え、みんなに感心された。

 五、
 那蘭陀寺で、道眼の聖が講義した。
 『八災』を忘れて、
「誰かこれを覚えておらぬか」
 と尋ねたが、弟子はみな覚えてなかったのに、奥から、
「これこれでは」
 と言い出したら、すごく感心された。

 六、
 賢助の僧正にお供して「加持香水」を見ました。
 まだ行事も終わらないないうちに、僧正は帰りだします。
 ところが、一緒に来ていたはず僧都の姿がどこにも見えません。
 僧正は、弟子達を戻されて僧都をさがし求めさせたが、
「同じ様な格好の法師が多くて、僧都は見つかりません!」
 なんて言いながら、かなり時間がたってからノコノコ戻ってきたので、
「あーわびしいな。あなたが捜してこられよ」
 と言われたので、行って、すぐに僧都を連れてきた。

 七、
 二月十五日、月が明るい夜。深夜、一人で千本寺に詣でた。
 後ろから入って、顔を隠し聴聞していると、姿や匂いが際だった粋な女が分け入ってきて、いきなり膝に寄りかかってきた。
 その匂いも移るばかりで、こりゃ都合がわるいぞと逃げ出すと、女は尚も寄ってきて同じ有様なので、退散した。

 その後、ある御所の近所の古い女房が、世間話ついでに、
「あなたは、ある女に色を知らないと見下させられてますよ。情けないと恨んでいる女がいます」
 と言われて、
「それは心得ませんでした」
 とか言って話を止めにした。

 この後に聞いたところ。
 どうやら、この夜、御局の内より人が見ていて、その人に仕えている女房の一人をかざり立てて、
「上手くやって、奴に言葉などかけるのだぞ。その有様は帰ってから申せ。面白かろう」
 そう言って、たばかろうとした人がいたんだそうだ。

原作 兼好法師

<感想>
 こうして連続で読むと、「自讃」というよりは、過去の思い出話に近い。
 自慢話という程の、特にたいした自慢ではない。「自讃の事」とは言っているが、兼好は「自讃」ということにして昔の思い出話を書き並べてみたようだ。
 ほとんど自分の事を書かない兼好にしては珍しい段である。


徒然草 第二百三十八段<口語訳>

2006-03-08 23:16:17 | 徒然草

 御随身近友が自讃と言って、七箇条書き止めた事ある。皆、馬芸、さしたることない事どもである。その例を思って、自讃の事七つある。

ひとつ、
 人あまた連れて花見あったに、最勝光院の辺で、男が、馬を走らせるのを見て、「今一度 馬を馳せるものならば、馬倒れて、落ちるはず。しばし見給え」と言って立ち止ったに、また、馬を馳せる。止まる所で、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。そのことばの誤りない事を人みな感ずる。

ひとつ、
 当今が まだ東宮坊でおられました頃、万里小路殿 御所であるに、堀川の大納言殿 伺候なされ御曹子へ用あって参られたに、『論語』の四・五・六の巻をくりひろげなされて、
「ただ今、御所で、『紫の、朱 奪うことをにくむ』という文を御覧なさりたき事あって、御本を御覧すれども、御覧せぬのである。『なおよく引き見よ』と仰せの事で、求めるのである」
 と仰られるに、
「九の巻のそこそこの程にです」
 と申したりしたらば、
「あら嬉しい」
 と言って、もって参らせた。これほどの事は、こどもでも常の事なれども、昔の人はいささかの事をもすごく自讃したのだ。後鳥羽院が、御歌に、
「袖と袂と、一首の中に悪いか」
 と、藤原定家に尋ね言われたに、
「『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』と ありませば、何事かございますべき」
 と申された事も、
「時に当って本歌を覚悟する。道の冥加である、高運である」
 など、ことことしく記し置かれますのである。九条相国伊通公の款状にも、殊なる事ない題目をも書き載せて、自讃されてる。

ひとつ、
 常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草書である。行房朝臣 清書して、鋳型に模そうとするに、奉行の入道、その草書を取り出して見せましたに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と云う句ある。
「陽唐の韻と見えるに、百里 誤りか」
 と言うと、
「よくぞ見つけられた。己れの高名である」
 と言って、筆者のもとへ言いやったに、
「誤りでございました。(百里を)数行と直されませ」
 と返事あり。数行もいかがか。もしや数歩の心か。おぼつかない。
 数行なお不審。数は四五である。鐘四五歩 幾ばくもない。ただ、遠く聞こえる心である。

ひとつ、
 人あまた伴って、三塔巡礼がございましたに、横川の常行堂の中、『滝華院』と書かれる、古い額ある。
「佐理か行成のあいだ 疑いあって、まだ決まらないと言い伝える」
と、堂僧ものものしく申しますを、
「行成ならば、裏書あるはずだ。佐理ならば、裏書あるはずない」
と言ったりするに、裏は塵つもり、虫の巣でいぶかしげなのを、よく掃き拭いて、各々見ますに、行成位署・名字・年号、さだかに見えませば、人みな興にはいる。

ひとつ、
 那蘭陀寺で、道眼聖 談義するに、『八災』という事を忘れて、
「これを覚えてられるか」
 と言ったを、弟子みな覚えてなかったのに、局のうちより、
「これこれでは」
 と言い出したらば、すごく感心された。

ひとつ、
 賢助僧正に伴って、加持香水を見ましたに、まだ終わらないないうちに、僧正 帰り出しますに、陣の外まで僧都 見えない。法師どもをひき返させて求めさせるに、 「同じ様な大衆多くて、求め逢えない」
 と言って、とても久しくして出てきたのを、
「あれ きびしい。おまえ、求めてござれよ」
 と言われたに、もどり入って、すぐ連れてきた。

ひとつ、
 二月十五日、月明るい夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後ろより入って、ひとり顔深く隠して聴聞しましたに、優な女の、姿・匂い、人より際なるのが、分け入って、膝に居かかれば、匂いなども移るばかりならば、都合わるいと思って、すり退いたに、なお居寄って、同じ様子ならば、(席を)立った。その後、ある御所あたりの古い女房が、そぞろごと言われたついでに、
「無下に色ない人にございますと、(あなたが)見下させられる事なんてあった。情ないと恨みます人なんている」
 と言われ出したのに、
「それこそさらに心得ません」
 と言って止めた。この事、後に聞きましたは、この聴聞の夜、御局の内より、人が御覧して(私を)知って、ひかえる女房を作り立てて出されて、
「都合よくば、言葉などかけるものだぞ。その有様 帰って申せ。興あろう」
 と言って、謀られたんだと。

原作 兼好法師

 すまないとは思っていない。眠いから、今日はもうこれ以上は無理。<意訳>は、また明日。

 ちゅーか、この段は以外に手間どるんだ。
 ただ長いだけでなく、なんだか短い段章を七つぐらいまとめて相手にしているような感じだ。これなら、一つの話題がダラダラ長く続いたほうが、まだ楽だ。