ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

うちわ、観劇会。

2014年10月21日 | 少し昔のお話
昔は、デパートから、上得意に、一流画家の絵を描いた高級なうちわが、お中元に贈られてきた。
昔は(今も)高級呉服店が、上得意に観劇のご招待があった。
人形町の甘酒横丁を、和服姿で、「明治座」を、行きかえりぞろぞろととおる。
まー、こんなことは、商いの販売促進であって、普段から、デパートや、呉服店で高額なお買いものする人たちへの、見返である。

いまどきのうちわのように、プラスチックの骨や、厚紙で出来たものではない。ネットで高値ででているが。
有権者を、観劇会に誘ったり、団扇であおったりして、票がパラパラと舞い込むマジックだ。
政治家やめて、魔術師に成ったらどうか。女性のマジッシャン二人、受けるで。

昭和12年、7月盧溝橋事件勃発。

2014年07月03日 | 少し昔のお話

吉天の生まれた昭和12年は、しかも生まれ月の7月に、盧溝橋事件が勃発、戦火は華北から華中に広がり、日中戦争は全面化したのである。

政府は、「挙国一致」「尽忠報国」「兼任時給」  「堅忍持久」のスローガンを掲げ、国民精神総動員が大々的に展開された。

日中戦争(支那事変)から、(大東亜戦争)に続く第二次世界大戦と世界を敵に回して戦い、原爆、の洗礼を受け、敗戦。

政府と言うのは、軍の独裁で、閣議決定で戦争はじめ、言論弾圧に至るまで進められてきたのだ。

多大の犠牲を払い、得たものは、憲法九条である。

アメリカや、連合国に、破れてもう戦争はしませんと言ったのに、そのアメリカが、また戦争にかりだそうとしている。

昔の兵器とわけが違う、三八式歩兵銃を担いで戦えない。

大量殺りく兵器は、どこにいても殺される。後方支援と言っても、死ぬのは覚悟しなければならない。

だいたい、銃規制の無いアメリカは、好戦的だ。

いつでも銃に手をかける。そう言えば、アメリカ独立記念日は、やはり因縁の七月だ。

銃で独立を勝ち得た国だ。

昔、研修でロサンジェルスへ、行った時だ。宝石店の前に、何気に立っていたら、警備員が、「ウォッタ」と言って、腰の拳銃に手をやったので、大いにビビった事がある。

何かと因縁をつけて、戦争を仕掛ける大国の、腰ぎんちゃくになって、鉄砲玉になって、死んでもいいのかい。ねー安部さんよ。


元祖 食品偽装

2013年11月10日 | 少し昔のお話

子供のころだった。

親戚の叔父さんが,、竹の皮に包んだ、お肉を牛肉だからと届けてくれた。

普段は、けちんぼの叔父さんが、たまにはおいしいものくれるんだと、よろこんでその日の夜、家族ですき焼きにして、いただいた。

少し、柔らかくて、おいしいが、牛肉などめったに食べないころだったので、こんなものかと思ってすっかり、皆で平らげた。

翌日、やってきた時「どうやった、うまかったか。」

「おいしく頂きましたよ」。

じつは、田圃へ行った時、稲と稲の間に、けだものが、横たわっていた。

山で、猟師に鉄砲で撃たれ、崖下の田圃に転がり落ちて、倒れていた。

撃った猟師は、見失いあきらめて帰ったらしい。

叔父さんが触ってみると、まだ温かいので、家に持ち帰って、さばいて肉と皮に。

食べた肉は、たぬきの肉だった。

さすが、たぬきだけに、上手くだましおったわ。


龍が、天上する。

2013年09月03日 | 少し昔のお話

祖母は、竜巻は自然現象でなく、龍(たつ)が天上に舞い上ると思っていたらしい。

龍は、架空の動物でなく、田畑の稲をなぎ倒し天に昇ったあとの荒れようだったのだ。

ある時、琵琶湖の湖面で竜巻が起きて、魚が巻き込まれ山を越えて、大雨とともに、フナやコイが降ってきたそうだ。

何キロも、走って舞いあがる様は、龍そのもの見えたのでは、いずれにしても恐ろしいことだったのだ。


三連休、明日は体育の日。

2012年10月07日 | 少し昔のお話
小、中、高と、学校での成績で、体育は、いつも最低だった。
運動神経が劣っていたのか、走り、球技、跳び箱、鉄棒そのほか何でも、体育の時間は、休みたいくらい苦手だった。
国民学校一年の時、男の先生は皆、戦争で兵役に、残ったのは女性教師ばかり、その女の先生が、きつかった。
体育の時間、生徒全員をパンツ一つの裸にして、運動能力のない者は、背中を平手打ちされた。
銃後の守りは、女性も強くなくてはならなかったからだ。
戦争が終わって、民主教育になっても、低学年の時の体育が、トラウマになって、ずううと苦手意識は消えなかった。
運動能力が伸びないまま、就職を迎えた時、先生が言った、おまえなんか、東京や、大阪に就職しても、三年保たずに帰ってくることになるぞ。
3年後、帰郷して、学校にでて、先生3年保ちました。元気ですと告げました。
その後も、大きな病気もしないで、丈夫で働いてこられたのは、体育とは無関係だったのか。
少し昔の話。


かわトンボ

2012年07月23日 | 少し昔のお話

子供のころ、藪の中の清流には、黒い羽根の「かわトンボ」がたくさん飛んでいた。

藪の中の小道をつっきって行くと、こんこんと湧き水があふれる小川があった。

家から300メートルほど、畦道を通って藪の道にはいる。

母や、祖母は、この小川で洗濯をしたので、ついて行った。

夏は冷たく、冬は暖かい、恵みの湧水であった。

かならず夏は「かわトンボ」が羽を、ゆらゆらさせて、迎えてくれた。

桃太郎の時代から続いた、「川に洗濯」である。

この藪影の道を、中学生の時、水彩でスケッチしたのがあるので、紹介しよう。

この小川は、つぶされてないが、田舎に帰ると神社の脇の川で、今も「かわトンボ」が見られる。

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55年前、店主のお酌で・・たった一人の成人のお祝い。

2012年01月09日 | 少し昔のお話

ちゃぶ台に、尾頭付きの小さな魚と、徳利にお猪口、女店主のお酌で成人の日にお祝いしてもらった。

高卒で、従業員30名ほどの店に住み込み店員として、上京。

二年して成人を迎えたのである。

当時は、今のような成人式は無く、店で成人に当たるのは一人であった。

就職難の時代で、仕事のえり好みはできなかったので、爾来その会社(店)一筋で勤め上げた。

店員三〇名だったその店も、2000人にのぼるチェーン店の会社になった。

会社の歩みと共に、発展に寄与できたのは、たった一人の成人の日を祝ってもらった店主の心づくしのお陰だと思っている。

その女性店主だった人は、現在御年94歳の名誉会長でカクシャクとしておられる。


稲わら

2011年07月25日 | 少し昔のお話

田んぼの風景。

秋の稲刈りが終わると、ハサにかけてわらと稲穂を干して乾燥させ、足踏み式の脱穀機で籾を落として、稲わらが残る。

おおよそ、こんな具合だったと記憶している。

籾は莚に広げて天日干しし、精米する。

お米になるまで田植から八十八回も、お百姓の手がかかるから米と言う字があると聞かされていた。

我が家は小作農だったので、わずかな田圃での収穫は知れていたが、今のように機械の入らない人の手で全部やる農作業はは大変な仕事であった。

乾燥した稲わらは束ねて、土間の二階部分(つし)に、入るだけ上げた。

風呂や竈の焚きつけに、一年分は有った。

薪炭は買っても藁は自家のものを使った。

さかのぼって戦時中、祖母は、山へ柴刈にいって、木の葉も熊手で掻き集め、背負って帰って来た。

父も母も、そのころ大陸に行っていたので、祖母と二人きりの時代に育って、いわゆるお婆ちゃん子で、何処へ行くのも付いて行った。

山での柴刈は手伝って、わらの代わりに焚きつけの燃料として補った。

要は、牛馬の飼料になるほど、多量に稲わらは無かったのである。

セシュウムに汚染された稲わらを餌にした牛は全量、国が買い取るそうだが、これも大変なことである。

その昔、今ほど牛肉や、豚肉も食べ無かった時代に育ったものは幸せだった。

自然の中で、衣食住がまかなえて、貧しくても豊かであった時代があったのだ。

テレビも、パソコンも無かった代わりに時間は沢山あった。

娯楽と言えば、村の祭りに芝居小屋が、懸かるぐらいであった。

エアコンは無かったが、夕涼みで充分涼が取れた。

昔を懐かしむ、懐古の情だけで言うのではない。

科学や、機械万能でなく、人間はもっと自然と調和して生きてゆく、生かされている、謙虚な気持ちも必要だと言いたい。


節電でしょうか、いいえ、灯火管制でした。

2011年05月18日 | 少し昔のお話
夜間の爆撃で狙われないように、家の明かりは外に漏れないよう真っ暗にした。
戦争も末期に各地で敵の爆撃が激しくなり、夜間の灯火が外に漏れないように灯火管制が行われた。
窓には黒いカーテンか黒い布をはり、電燈の笠も真下だけ照らすように筒型のものを用いた。薄暗い中で生活をした。
田舎でも白い土蔵の壁は真っ黒に塗られた。
しかし、実際の爆撃には全く役に立たなかった。
爆撃には、まるで大きなランプを吊るしたように、
照明弾が落下傘につるされあたり一面真昼のように明るくされた。
工場であろうと、何であろうと眼下の建物の所在は隠しようもない。

田舎も、爆撃は受けなかったが、戦後しばらく伝統の白壁は黒く塗られたままだった。


非常時の寺子屋

2011年05月17日 | 少し昔のお話
昭和20年の4月、新学期は、防空頭巾(ボウクウズキン)を、かむって近くのお寺で勉強した。
小学校でなく、国民学校と言ったが都会から疎開している子供たちも、一緒にお寺に通った。
ひっきりなしに警戒警報がでる。とても学校まで登校、下校出来ないからだ。
こんな田舎も敵の飛行機の出入り自由だ。
爆撃こそなかったが、近くの飛行場の残り少ない我が軍機は警戒警報がでると飛び立つ。
迎え撃つのでなく、山中に樹や草で覆うた格納庫に隠すためだ。

ある日の早朝、バリバリと大きな音がした。ついに爆撃が始まったかと思った。
国民学校の校庭に、大きな木製の飛行機が先生方の手作りで作ったのが置かれていたのだ。
上空から見つけた艦載機が急降下して機銃掃射を仕掛け、おまけの小型爆弾を見舞って飛び去った。
早朝で誰も巻き添えになる人はいなかった。
ただ校庭のうらにあった田圃に農作業のお爺さんが、あわてて伏せて難を逃れた。
小型爆弾は、理科室をぶっ壊した。運動場のシャワーのコンクリートの厚い壁は、
直径3センチほどの穴が開いて機銃弾のすごさを物語っていた。

それから、お寺での授業もほとんど無く夏休みを迎え、8月の終戦となった。