ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

つげの生垣の剪定

2008年11月29日 | 日常・身の回り

今日は、朝からつげの生垣の剪定を致しました。

丸一日かけて、すっきりと致しました。

生垣の長さだけコードを継ぎ足し、電動バリカンで刈り込み、まるで羊羹を切ったように出来上がり、さらに刈り込みバサミで仕上げました。

(電気自動車は、道の長さだけコードが要るのです。スピードを出すとコンセントが抜けて、はいストップ、なんちゃって)

ちょっとした達成感を味わいました。

ところで、剪定の時期があるのではと人に聞きましたら、植木屋さんの手の空いてるときならいつでもよろしいとのこと

それって、適当なお答えじゃありませんか。

何の樹はいつごろって、樹によって生育や翌年の開花や何かやに、影響するんでござんしょ。

衆議院の解散の時期なんかも、どんどん先送りして、どうにもなりませんや。


照準が定まらず空白の一ヶ月

2008年11月27日 | ブログ

ブログ更新お休み宣言を、一ヶ月前に出しましたが、その間気が向いたとき記事更新いたしておりました。

庭のもみじや、楓もおおかた散りはてましたが、ほとんど街にも出ずに、ひたすら畑道の散策で一ヶ月終わりました。

一日 四、五十分のウオーキングは、健康には大変役立ちましたが、次の照準が定まらなくてなんとなくムナシイ日々の一ヶ月、新年を迎える前に次の寄港地を、しっかり決めて「吉天丸」の出帆に備えたいと思います。

新しい自分を創造するために、師走の月も呻吟(シンギン)が、続くであろうこと覚悟して過します。

*****

あんた、ちょっと大げさ。

肩の力を抜いて、自分の身の丈にあった自分らしさで生きなさいよ。

ソーリダイジンのように、ノー天気でデマカセで厳しい政治経済の荒波を乗越えようとしている御仁もオジャルヨッテ。

何事も気にするコタぁーないさ。

ブログの更新が、一日や二日できなくても誰にも迷惑かかる訳でもないし、一ヶ月休もうと閉じようと、不登校児童のように心配する人もおらんて。

いや、ごめんなさい。ペコリ。


楽しみ、味わう工夫

2008年11月22日 | 一行法師

手元にあるもの、身近な物を味わって楽しもう。

もう苦労して、手のとどかないものを無理して引き寄せようとしないでも、人生に必要な物は自ずと向うからやってくる。

宇宙船の中で浮かんで生活しているように、融通無碍な生き方もある。

あきらめたのでは無い。

無重力の中で、ふわふわしている物は手元にあるときに楽しみ味わえばよい。

手から離れると、少しかなたで浮いている。

これが、地球上に重力があって、固定してしまうから不自由が生じる。

重力のせいで私有財産があり資本主義があり、格差が出来る。

そして、すべての物に価値がある。誰が決めたか知らないが物には価値があることになっている。

需要と供給の具合で価格は変わるが、価値はすぐには変わらない。

一方、俗にお宝と言う価値もある。Aさんにとっては大切なお宝も、Bさんにとっては無価値な物もある。

有名ブランド品なるものは、極上品で信仰に似た価値があっても、量産されれば実用的にはコピー商品や偽ブランドと変わらない。

黄金や、ダイヤモンドのように絶対的な価値の物もある。

しかし、近頃の時代には、衣食住すべての物の価値が揺らいでいる。

価格が変動することは、経済の動きで変わるのはやむをえない。時価といわれて納得もする。

価値そのものが、入手したときとの価値は多大でも、手から離れるときは無価値となり、ゴミであり、粗大ゴミであり処分にお金がかかるほどである。

エコとは、どこ吹く風か。

かって、すべての物が職人さんの手作りか、手作りに近い物であった時代は、大事に修理したり磨いたりして永く使ったものだ。

一生物か、代々受け継いでお正月に顔を出す塗り物のお重のような物は、すべて本物の価値があった。

価値あるものを大切にする日本古来の風習が消えた今。

本当の価値を見極められ無い今。

価値を信じない、あるいは信じられない今。

何をよりどころに、価値が存在するのか。

どれもこれも、無価値として壊され押し流されてゆく。

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汗牛充棟の書も、処分となれば、運賃払って持って行って貰う無価値さ。

ガラクタとともに、燃えないゴミとして投げ捨てられるかも知れない名曲のCDやレコード。

みんな手元にあって、古典の読書や、名曲の鑑賞を楽しみ味わえる物ばかり。

新たにお金をかけなくても、十分に楽しみ味わうことが出来るではないか。

金銀財宝が山とあることが、生きる楽しみではない。

いずれゴミやガラクタとして消えうせる物ばかりではないか。

人それぞれ大事にしているものが、手元に有るであろう。

それは、身近な家族であり自分自身の健康であり、目を転じて小さな庭の自然であったり、まあ何と可愛い手作りの飾り物であったりするのだ。

何事によらず身辺を見つめなおすことにより、愛し慈しみ大切にし加えて楽しめる物、価値あるものがいっぱいあるはずだ。

(汗牛充棟=カンギュウジュウトウ。蔵書が非常に多いさま。車に積めばそれを引く牛が汗をかき、家の中に積み上げれば、棟木に支えるほど。との意味)


団体でお泊り、これから冬中。

2008年11月18日 | 日常・身の回り

今日は、朝から植木鉢を湖子庵の二階に庭から移しました。

東南の日当たりの良い部屋に緑の団体さんが、占拠しました。総勢二十五鉢の軍団で埋め尽くされ 春が来て暖かくなるまで逗留します。植物園のようです。

ビニールハウスや、温室が無いもので代わりに彼らの住まいを提供します。

お返しに花を咲かせてくれるでしょう。時にてんとう虫さんも床を這いずりまわることもあります。


mmmmmmm

2008年11月15日 | ニュー・諺

「キーボード指一本でm・・・・・・なり」  吉天

無気力で、何する当ても無くキーボードに指一本落としただけでmmmmmmmmmmmとなり天下の秋(厭き)を知る。

「桐一葉」とか「一葉落ちて天下の秋を知る」

桐は他の木よりも早く秋の気配を感じて落葉する、と言うことから、一枚の桐の葉の落ちるのを見て、形勢の悪化、衰亡の兆しが現れたことの暗示とする(故事ことわざ辞典)

世界経済の危機や、日本の政治経済の衰退は、まさに「桐一葉」どころか、木枯らしに舞い散る落ち葉の真っ只中の有様。

おのおのがた、耐えて忍んで春を待つ覚悟を召されぇい。

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給付金など、当てにして待っていると消費税アップの方が先に来る。

事務手続きの煩雑さは、消費税アップより給付金を配る方が大変であることを知っておくべきでおじゃる。


新KY?

2008年11月13日 | インポート

ひところ、空気が読めない人のことを「K・Y」と言ったが、最近新手の「K・Y」さんが現れた。

吉天も人のこと言えませんが、常識程度のものは読めるつもりですが。

漢字が、読めない「K・Y」さん。

まあぁそう言う人居てもおかしくない時世ですが、小学生でも漢検に挑戦して、かなり難しい漢字も読み書きできる子も居る。

PCキーボードが頼りで読めても書くとなると書けない。

上司のために用意した原稿は、全文の漢字にルビをふっておくしかないのか。

失礼だと思うがやむをえない。

長年思い込みで、間違った読み方をしていると、一回、二回注意されても直らない。

一国のリーダーが、そう言う風に読むのだから、国立国語研究所とか、辞書を編纂、執筆される先生方が「そう言う読み方」もあると修正加筆して字引の改定版を出されてはどうか。

自国の国語や、歴史をしっかり認識していない政治家に、日本国の将来を委ねなくてはならない国民は、不幸である。


なるほど、そう言う考え方もありましたか。

2008年11月12日 | 一行法師

一週間のご無沙汰。

同じことでも、人それぞれの考え方、見方があるもんです。

爺の問題も、多面的に見たり考えたりすれば、納得の行く解決方法が見つかるものです。

給付金なんて、お上のわれわれを見下した言い方だ、なんて意固地にならなくても、くれると言うものは、黙って貰っておけば良い。

先に行って、消費税上げようたって、その時になって提唱している総理大臣が居るかどうか分からんって。

後期高齢者と言う呼称も、寿とか言い換えても同じなんでした。

地球の裏側では、オバマさん。

日本では、石を投げれば、オバカさんに当たる。

「偉い人オバカに見える時雨かな」  吉天


チェンジ

2008年11月05日 | ブログ

時事問題に引っ掛けて、「爺問題」とタイトルに入れましたが、世の中問題が多すぎるので、業界用語のように、前後転倒させて「問題・爺」とし<明るい「問題爺」と私>にチェンジしてみてはどうか。

何かと問題を起こす学童を「問題児」と言うでは有りませんか。

何かと世間様をお騒がせする問題の多い「爺」のこと。「問題爺」と言うのはどうじゃろ。

はたして、「問題爺」?に成りきれるかどうか。元気で「悪」が出来ないと無理じゃろ。

今日は、一の酉、「お酉さん」。

今年の11月は干支の酉の日が、一の酉、二の酉、三の酉まである。

三の酉まである年は活気がありすぎて火事が多いと言い伝えられている。

「酉の市」で縁起物の大熊手を買って不景気を吹っ飛ばす勢いのある人に、よォー!大統領と声をかけたい。

午後から日が差してきた。

ミダイは、趣味のお仲間と、おばーちゃんの原宿こと「巣鴨」に繰り出した。

留守中「問題爺」は、シュンとして何も出来ない。


地獄耳

2008年11月04日 | 健康法師

「素晴らしい、いい耳してますよ。」

耳鼻科のお医者さんに、褒められました。

今日は、鼻の定期治療で耳鼻科に参りました。事のついでに「耳」の方の聴力の検査をして貰いましたら、すこぶる良好で、ほんの かすかな音も聴き取れるほどでした。

日ごろ、ミダイとの会話で、聞き取りにくかったり、言葉の行き違いや、近くによって大声で話さないとお互いに聴き取れなかったりで、不自由致しておりましたので聴力検査をしてもらった次第。

検査の結果、難聴では無いと分かりホッと致しました。

音は、かすかでも聞こえるが、言葉を言葉として聴き取る能力とは別と言う。 

テレビなどで、若者の言葉とか早口や、略して話されると何を言っているのか不明のことがある。

日本語であっても、時に何語?と言いたくなることもある。身内も話し言葉が不明瞭のことがある。

補聴器を付けなくても、よく聞こえるが、言葉がギリシャ語や、フランス語のように言葉が聞き取れないのは、難聴ではない。

昔から、都合の悪いことや、聞きたくないことは「耳、日曜」と言ったものだが。

聞こえないと、思って悪口を言われると、しっかり聴いている。

まさに、地獄耳だァ~。