劇場彷徨人・高橋彩子の備忘録

演劇、ダンスなどパフォーミングアーツを中心にフリーランスでライター、編集者をしている高橋彩子の備忘録的ブログです。

勅使川原三郎『ダブル・サイレンス――沈黙の分身』

2009-03-22 00:00:03 | 観劇


勅使川原三郎『ダブル・サイレンス――沈黙の分身』@シアターコクーンを観て、
嬉しいような哀しいような切ないような、複雑な感情が浮かんだ。

80年代後半~90年代、パフォーミングアート界の寵児であり、
ヨーロッパのアーティストにも多大な影響を与えてきた彼が今もなお、
これほどまでに観客におもねらず、表現上の探究を続けていることが、実に感慨深い。
終演とともに大きな拍手が湧き起こり、私もそこに真剣に加わった一人であるものの、
ほかの人たちがどんな気持ちだったのか、とても気になる。

◆唐突な比喩でナンだが

彼の作品には“アリストテレス的なカタルシス”も“ヘーゲル的な止揚”もない。
(その意味で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」という、
極めて止揚的なイメージの強い音楽が用いられていたのは逆説的で興味深い)。
しかし、彼が“ブレヒト的な異化効果”あるいは“ポストモダニズム的な脱中心”でも
たくんでいるかというと、それも違うように思う。その関心はもっと別のところにありそうだ。

彼にとって重要なものの一例を挙げるなら“空気”である。
空気が固まる、和らぐ、流れる、色を変わる、揺れる・・・
彼の動きはしばしば、身体そのものからというよりも空気との関係性から生まれる。
だから、空気の振動である発声・発語もダンスになるのだ。
そんな発声・発語や、人間の生理に挑むような重低音の連続などが、
観客を当惑させ、取り残された気分にする可能性などは、
恐らく彼にとって、クリエイションの作業ほどには重要ではないのだろう。

◆雑踏に消えることなく・・・

勅使川原には、デビュー時から一貫しているコアな部分もある一方、
たとえば自身の名を世に知らしめた92年の『NOIJECT』と同じことを
繰り返す気はさらさらないだろうと想像できる(再演は別として)。
「成功パターン」を定めず探求の旅を続けるこうしたアーティストは、
やがて見晴らしの良い場所・日当たりの良い場所を嫌い、
どこかよく見えない、雑踏の中などへ消えてしまうことが多い気がするが、
彼が希有なのは、いわばマニアックな試みを、
新国立劇場やシアターコクーンといった一流の劇場で続けていることだ。

自身を「矛盾した人間」「あまのじゃく」と分析する勅使川原だが、
ひょっとするとそうした両義的なスタンスこそが、
彼を雑踏ではなく劇場空間にとどめているのだろうか?

いずれにせよ、そんな勅使川原にも彼を支える人々にも、大いに敬服の念を抱く。
私には支えることなどできないが、見届ける覚悟くらいはできているかも知れない。

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