劇場彷徨人・高橋彩子の備忘録

演劇、ダンスなどパフォーミングアーツを中心にフリーランスでライター、編集者をしている高橋彩子の備忘録的ブログです。

新国立劇場 オペラ『トリスタンとイゾルデ』GP+α

2010-12-26 00:01:07 | 観劇
今年は新国立劇場で『ニーベルングの指環』チクルス後半として“第二日”“第三日”、
東京・春・音楽祭で『パルジファル』と、東京でワーグナーをかなり堪能することができたが、
この年末~年始に上演される新国立劇場の新制作『トリスタンとイゾルデ』はその締めくくりとも言える。

その『トリスタンとイゾルデ』のゲネプロに行った。
以下はあくまで、本番ではなくゲネプロでの感想である。
ともあれ、詳細を知らずに公演を鑑賞したい方は、お読みにならないほうがよろしいかと。



一幕。序曲が始まると舞台下方から浮かび上がるのは、白い光を放つ大きな満月だ。
その光の反射によって、舞台が本水の水辺であることがわかる。
満月は上手上方へ移動し、不穏な赤い月に。
そして舞台中央には船。もちろんイゾルデとトリスタンを乗せた船である。
二幕は柱が立ち、その上方を惑星系を彷彿とさせる輪が取り囲む。
輪はいぶした銀色のように見えるかと思えば蛍光を発することもある。
柱と輪にはセクシャルな意味合いが託されているようだ。
三幕は海に臨む切り立った崖。赤い月が浮かんでいる。
この月はすべてが終わった最後、劇冒頭と同じ下手下方に沈むのだった――。

つまりこの『トリスタンとイゾルデ』は昨今のオペラ演出の中では、
奇抜というよりはオーソドックスな雰囲気を持つ舞台だ。
衣裳・装置のテイストは、古代とも近未来ともつかないというか、折衷というか。
私はかねてから、同じワーグナーでも、『ニーベルングの指環』の読み替え演出は大歓迎だが、
『トリスタンとイゾルデ』は割とリアルな雰囲気で観たいと考えているので、方向性としては嫌いではない。
(まあ、観る機会が頻繁にあるならば、後者の読み替えも新鮮に思えるだろうが)。

登場人物の動きとしては、例えば薬との因果関係を感じさせないタイミングで
イゾルデとトリスタンが抱き合うところや、最後のイゾルデの姿・行動が特徴的だった。
それにしても、改めて思うのだが、このオペラ、少なくともリアルに上演する限り、
いわゆる“演技”はあまり必要ない気がする。といったら語弊があるだろうけれども、
確かな歌声と存在感さえあれば、変な話、立っているだけで絵になるのだ。
工夫を凝らそうとするツィトコーワの演技はやや小芝居じみて見えてしまっていた。

また、「愛の死」で歌うイゾルデに上からのライトが当たるところは、
演歌のワンマンショーみたいな気がしてやや違和感があった。
ラヴォーチェによるウーゴ・デ・アナ演出『ノルマ』でもこういうシーンがあったのを思い出す。
あと、マルケ王の部下たちの動きが、踊りともただの移動ともつかず中途半端に見えた。

大野和士の指揮による演奏は、ドラマティックながらも滑らかで、
ふっと静かになったかと思うとふわあーっと音が膨らみ、広がっていく。
まだゲネプロだがテンポといい強弱といい、私の好み。
イゾルデのイレーネ・テオリン、トリスタンのステファン・グールド、
ブランゲーネのエレナ・ツィトコーワほか、出演者のいずれも申し分ない声量で、非常に聴かせる。

今年は本当に、ワーグナーの魅力に改めて酔った一年だった。
1月に本番を鑑賞予定なのだが、ヴァージョンアップした舞台を心待ちにしている。

              * * *

【追記】

1月4日に本番を観たが、マルケ王の部下たちの動きは演技としてまとまったものになっていた。
また、イゾルデのピンスポットも、光量のバランスだろうか、以前ほど気にならなかった。
オケの音が大きく歌声が少しかすみがちに聴こえる席だったのだが、
マルケ王ギド・イェンティンスの歌が立派に響いていたのが印象的だった。

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