今日は3つの芝居をハシゴ。まさに観劇三昧である。
■まずは劇団民藝『神戸北ホテル』@三越劇場
【小幡欣治の洒脱な戯曲】
戦時中の安ホテルを舞台に、市井の人々の飾らない姿を楽しく描きながら、
それぞれが隠し持つ悲しみや不幸をもさりげなく滲み出させる小幡欣治の新作だ。
ボロホテルという設定だが、ステンドグラスや木の窓枠や壁の風合いなどに趣があり、
楽団の演奏も洒落ていて、なんだか大正ロマンの面影を残しているようでもある。
その中を静かに着実に、戦争という暗い影が通過していくのだ。
シリアスになり過ぎそうなところでコミカルに、しかし遊び過ぎずさらりと離れる・・・
そんな小幡の戯曲の抑制、バランスは絶妙そのもの。
演出も俳優たちの演技もこれをうまくかたちにしていた。
【こういうものこそ・・・】
とりたてて変わった、たとえば壮大なドラマが展開する芝居ではないのだが、
肩の力を抜いて楽しめる内容で、人間の心の機微や人生の“酸い甘い”を巧みに描く。
こういう洒脱で気の利いたホンを書き下ろすことのできる人って、もうあまりいないよなあ。
客席の年齢層は高いが、こうした芝居こそ思春期の若者に見せたらいいのじゃないかしら。
教室や教科書で戦争の悲惨さや生死・愛について学んだとしても、
そこに生きた人のリアルをこんなふうには教えてもらえないだろうから。
奈良岡朋子の三つ編み姿にはちょっと無理を感じるが、
30代がらみとはいえこの時代の未婚の女性の役だし、
思い込みの激しい純情な役どころには合っているのかもしれない。
実際、精神的な成長を遂げ、戦地へ赴く決意をするラストではまとめ髪にしている。
そんなことよりなにより、誰にも増して声がよく通り、
瞬間瞬間の芝居勘のようなものもしっかりしていてさすが。
年齢だけに感動するわけではないが、80歳を迎えてなお
新作を堂々と演じるさまには圧倒されずにいられない。
それにしても、奈良岡といい大滝秀治といい、
劇団民藝の代表二人は、なんて味わい深く美しい風貌の持ち主なのだろう。
生き方が顔に表れるとは、こういうことなのだろうか、などとも思う。
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■続いて、演劇ユニットまほろば『ある冬の日に』@スペースSF(三軒茶屋)
一片の絵葉書から着想した、短い詩のようなさりげない芝居。
遠い国から訪れた男と、自称名探偵の風変わりな女、そして
「マダム」と呼ばれるおかまの三人が繰り広げる、他愛ないひとときを描く。
おおよその設定とオチがあり、それを会話で彩っていく構造。
つまり、筋よりもムードを大切にしている芝居なのはよくわかるのだが、
それにしても設定・オチがよくある類のものであっという間に読めてしまい、
かつそこを補う意匠とも言うべき登場人物たちの応酬が表層的で本筋にからまないので、
小空間での静かでほんわかしたテイストに好感を持ちつつ、やはりちょっと物足りなさも。
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■最後は、ロメオ・カステルッチ ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ『神曲・煉獄篇』@世田谷パブリックシアター
戦慄的な美しさ。心凍る現代の、どこにでも潜み得る悲劇。
『地獄篇』よりアヴィニョンでの初演との違いは小さい。
(『地獄篇』ではウォーホル=ウェルギリウスが早くから登場するなど場面の入れ替えがあった)。
終始紗幕のかかった舞台は非現実的で夢のようだ。
そこでは野菜を刻む音、ランプを消す音、そして息遣いまでが耳元にささやくように響く。
全体的には、恐ろしいほどの静けさと見えない暴力が支配する空間。
第二の星=父が、第一の星=妻をおびえさせ、第三の星=息子に暴力を振るう。
息子が現実逃避する夢の中で見る、水中花のような情景はあまりにも幻想美にあふれている。
大きくなった息子は、もがく卑小な父と対峙する。その息子もまた、
もがくような動きを見せるのだが、そんな中で最終的に魂は浄化されるのだろうか?
作品全編に流れる人間という存在の物悲しさ、哀れさはある意味、
原作であるダンテの『煉獄篇』そのままである。
カステルッチ作品に一貫して用いられる、目のような円形のモチーフの装置。
このまぶたが閉じられ、日蝕のような姿になった時、それは原作世界とダブッて見えた。