昼はさいたまネクスト・シアター『真田風雲録』@彩の国さいたま芸術劇場、
夜は新国立劇場『ヘンリー六世』第三部@新国立劇場中劇場をハシゴで観る。
(上演が押した関係で移動がギリギリ・・・ちょっと慌てた)。
『真田風雲録』は蜷川幸雄率いる若手たちの集団の第一回公演となる。
通常は舞台として使うスペースの半分ほど?に“客席”を作り、
舞台スペースの残りおよび普段の客席が“舞台”となっていて、
観客は裏かに回り込んで客席に着く。「インサイド・シアター」の名がついたらしい。
■泥まみれの若者たち
三方の客席に囲まれた四角い舞台空間には、1.7トンもの泥が敷き詰められている。
俳優たちは泥にまみれ、足元をすくわれそうになりながらの演技を余儀なくされる。
蜷川の(視覚的な意味以外での)意図は明らかだ。
演技経験の浅い俳優たちの動きは泥によってフォローされるし、
泥と格闘しながら演技する経験自体も恐らく温室育ちの多い若者には有意義だろう。
若き俳優たちは泥の中、慣れない和装・甲冑姿で、大いに健闘している。熱気ある舞台だ。
ただ彼らが、一本調子でない演技をどこまでできる(ようになる)か、
俳優としての知性と肉体をもつものか、まだわからない。
■戯曲に見る時代性、そして若さということ
さて、この戯曲は福田善之による、62年初演の戯曲。安保闘争を背景としている。
舞台を戦国にしつつ政治の季節を描いたものといえば、
清水邦夫の『幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門』などが思い出されるが、
清水のそれが70年代に書かれ、闘争の挫折と苦々しさを色濃く示したのに対し、
福田の戯曲は60年代初頭ということも手伝ってか、
不毛さを味わいつつも全体には若々しく前途をみつめているような青春群像劇である。
演じる俳優たちの若さを鑑みて選ばれた戯曲であることは言うまでもない。
全体的にいつもの蜷川印がそこここにあり、蜷川演出としての新しさはないが、
サービス精神旺盛な舞台に仕上がっていて、客席の反応も良かった。
--------------------------------------------------------------
コンパクトな空間で文字通り泥臭いドラマが展開した『真田~』に対し、
『ヘンリー六世』は中劇場のだだっぴろさを敢えて生かした、
開け放しに近いイメージの舞台装置での上演だった。
■空虚さを描くドラマ
とくにこの三部冒頭は王の敗北→廃位というところから始まることもあって、
雪原のように白く時代を限定しない装置が、寒々しく感じられ、現実感が希薄だ。
席が上手寄りだったのだが、上手には池があって演じ手は下手寄りにいたから、
余計に距離を感じたのかもしれない。
浦井健治演じる王ヘンリーは浮世離れした繊細な雰囲気。
時折、滑舌が気になったものの、一種独特の存在感はある。
ヨーク公・渡辺徹やマーガレット・中嶋朋子、リチャード・岡本健一らの長台詞があり、
大きな聴かせどころになっていた。
舞台全体も物語が進むにつれ、熱っぽい愛憎のドラマの様相も呈していた。
■なんだか不思議な鵜山演出
しかし、鵜山仁の演出というのは、私にはどこか不思議だ。
先程、時代を限定しないと書いたが、完全に無機質/抽象的なわけではなく、
蓄音機、ミラーボールなどが唐突に登場するほか、
かの名曲『オーバー・ザ・レインボー』が幾度も流れる。
挙げ句、“太陽が三つ現れる”場面で本当に作り物の太陽を吊ったのを見るに至って、
リアルでないことが狙いなのだろうなあと改めて思った。
かといってオペラの読み替え演出のように別の世界へ置き換えているのとも違う。
おもちゃのように軽々しく移ろう王冠の空虚さ・軽さに焦点を当てた結果だろうか?
照明や音・音楽のタイミングにもなんとなく違和感をおぼえたのだが、
好みというか、センスの違いなのだろうか。
自然に客席から笑いがこぼれる場面もあり、趣向もいろいろ凝らされているけれども、
「さあ、どうだ!」とこけおどし的(?)に見せないのが鵜山美学なのかな。
* * *
それにしても『真田~』では横田栄司ら、『ヘンリー~』では渡辺徹や今井朋彦など、
文学座員の活躍が目につく一日(三部では登場の少ない木場勝己の
一瞬ながら観客の心をつかむ、味わいあふれる演技なども素晴らしかったが)。
とくに時代ものなどではやはり、一定の質と安心感・存在感を見せてくれるのだった。
夜は新国立劇場『ヘンリー六世』第三部@新国立劇場中劇場をハシゴで観る。
(上演が押した関係で移動がギリギリ・・・ちょっと慌てた)。
『真田風雲録』は蜷川幸雄率いる若手たちの集団の第一回公演となる。
通常は舞台として使うスペースの半分ほど?に“客席”を作り、
舞台スペースの残りおよび普段の客席が“舞台”となっていて、
観客は裏かに回り込んで客席に着く。「インサイド・シアター」の名がついたらしい。
■泥まみれの若者たち
三方の客席に囲まれた四角い舞台空間には、1.7トンもの泥が敷き詰められている。
俳優たちは泥にまみれ、足元をすくわれそうになりながらの演技を余儀なくされる。
蜷川の(視覚的な意味以外での)意図は明らかだ。
演技経験の浅い俳優たちの動きは泥によってフォローされるし、
泥と格闘しながら演技する経験自体も恐らく温室育ちの多い若者には有意義だろう。
若き俳優たちは泥の中、慣れない和装・甲冑姿で、大いに健闘している。熱気ある舞台だ。
ただ彼らが、一本調子でない演技をどこまでできる(ようになる)か、
俳優としての知性と肉体をもつものか、まだわからない。
■戯曲に見る時代性、そして若さということ
さて、この戯曲は福田善之による、62年初演の戯曲。安保闘争を背景としている。
舞台を戦国にしつつ政治の季節を描いたものといえば、
清水邦夫の『幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門』などが思い出されるが、
清水のそれが70年代に書かれ、闘争の挫折と苦々しさを色濃く示したのに対し、
福田の戯曲は60年代初頭ということも手伝ってか、
不毛さを味わいつつも全体には若々しく前途をみつめているような青春群像劇である。
演じる俳優たちの若さを鑑みて選ばれた戯曲であることは言うまでもない。
全体的にいつもの蜷川印がそこここにあり、蜷川演出としての新しさはないが、
サービス精神旺盛な舞台に仕上がっていて、客席の反応も良かった。
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コンパクトな空間で文字通り泥臭いドラマが展開した『真田~』に対し、
『ヘンリー六世』は中劇場のだだっぴろさを敢えて生かした、
開け放しに近いイメージの舞台装置での上演だった。
■空虚さを描くドラマ
とくにこの三部冒頭は王の敗北→廃位というところから始まることもあって、
雪原のように白く時代を限定しない装置が、寒々しく感じられ、現実感が希薄だ。
席が上手寄りだったのだが、上手には池があって演じ手は下手寄りにいたから、
余計に距離を感じたのかもしれない。
浦井健治演じる王ヘンリーは浮世離れした繊細な雰囲気。
時折、滑舌が気になったものの、一種独特の存在感はある。
ヨーク公・渡辺徹やマーガレット・中嶋朋子、リチャード・岡本健一らの長台詞があり、
大きな聴かせどころになっていた。
舞台全体も物語が進むにつれ、熱っぽい愛憎のドラマの様相も呈していた。
■なんだか不思議な鵜山演出
しかし、鵜山仁の演出というのは、私にはどこか不思議だ。
先程、時代を限定しないと書いたが、完全に無機質/抽象的なわけではなく、
蓄音機、ミラーボールなどが唐突に登場するほか、
かの名曲『オーバー・ザ・レインボー』が幾度も流れる。
挙げ句、“太陽が三つ現れる”場面で本当に作り物の太陽を吊ったのを見るに至って、
リアルでないことが狙いなのだろうなあと改めて思った。
かといってオペラの読み替え演出のように別の世界へ置き換えているのとも違う。
おもちゃのように軽々しく移ろう王冠の空虚さ・軽さに焦点を当てた結果だろうか?
照明や音・音楽のタイミングにもなんとなく違和感をおぼえたのだが、
好みというか、センスの違いなのだろうか。
自然に客席から笑いがこぼれる場面もあり、趣向もいろいろ凝らされているけれども、
「さあ、どうだ!」とこけおどし的(?)に見せないのが鵜山美学なのかな。
* * *
それにしても『真田~』では横田栄司ら、『ヘンリー~』では渡辺徹や今井朋彦など、
文学座員の活躍が目につく一日(三部では登場の少ない木場勝己の
一瞬ながら観客の心をつかむ、味わいあふれる演技なども素晴らしかったが)。
とくに時代ものなどではやはり、一定の質と安心感・存在感を見せてくれるのだった。