新春浅草歌舞伎で今年の初観劇。
第1部・第2部を通して観る。
1部と2部の間には浅草寺へお参りに。平日とは思えぬ大賑わい。
初詣で生まれて初めて「大吉」を引いたばかりなので、おみくじはもう引かず。
しかし大吉ってすごい。過日のくじいわく「争事は思うがままに勝つ」。
今のところ特に争いたい事柄もないけど、
もし争うならそりゃあ勝ったほうがいいですよ、ハイ。
人生初の大吉を得て歓喜する私に友人が
「大吉ばかり出す神社も多いよ」としたり顔でご注進(!?)。
聞かなかったことにする。
で、浅草歌舞伎(以下、ネタばれかもなのでご注意を)。
第1部、まずは年始挨拶で中村七之助が兄・勘太郎の熱愛報道に言及し、
場内をひとしきり沸かせた後、『一條大蔵譚』。
平家の下で密かに源氏方に心を寄せ、「阿呆」を装う一條大蔵卿役に市川亀治郎。
阿呆ぶりが実に愛らしいのに加えて殿らしい風格も漂い、とても魅力的だ。
さらに、亀治郎自身が知的な雰囲気の持ち主であるため、
本物の阿呆ではなくあくまで「作り阿呆」であることも違和感なく伝わってくる。
欲を言えば、もっと複雑な陰影のようなものも見たい。
思うにこの役、阿呆と正気の二面を演じ分けるのみならず、
その狭間の微細な表情、感情の機微を表してこそ、いよいよ面白くなるのではないだろうか。
続いて『土蜘』。
キリリとした涼やかな気品ある尾上松也の源頼光を、
勘太郎演じる僧智籌実は土蜘の精が狙う。
底知れぬ闇を感じさせる僧智籌といい、本性を現した土蜘の精といい、
若手とは思えぬ重みにあふれた堂々たる演技だった。
第2部の年始挨拶は市川男女蔵。これまた勘太郎熱愛ネタに触れた後、
観客に自身の愛称「オメ」を唱和させていた。
そして長谷川伸作『一本刀土俵入』。
この作品には、これまで何度か、文字通り泣かされている。
泣くのは駒形茂兵衛がお蔦を助けるラストではなく、茂兵衛とお蔦の初対面。
2人が重ねる会話の味わい、そしてお蔦が茂兵衛に金から櫛かんざしまで与える、
その行為というより“たたずまい”に、涙が出るのである。
今回、勘太郎は父・勘三郎の名演を想起させるおっとりとした茂兵衛を好演し、
亀治郎はうらぶれた店の、捨て鉢なようで気だてのいい酌婦・お蔦を表現。
両者とも熱演だったが、涙は出なかった。
亀治郎のお蔦は例えば櫛かんざしを、
「酔っちゃったから、あれもこれもあげちゃう!」とばかり、浮き浮きと茂兵衛に渡す。
確かに、酔ってハイになり、他人に物をあげたがる人は現実にいるので、
リアリティはある。客席からは共感にも似た笑いが起きていた。
また、相撲取りとして出直そうとしている茂兵衛に対して亀治郎のお蔦は
「土俵入り」という言葉を声高く、強調して言った。
タイトルにまでなるほどに重要な、ラストへの伏線だから、気持ちはわかる。
しかし、私はこの作品のこの場面には、さりげなくにじみ出る情を求めたい。
お蔦は酔った勢いではなく、また、自己犠牲的な慈善の精神からでもなく、
情にほだされれば気まぐれのようになけなしの金もやってしまう、
そういう気っ風の女なのだ。
お蔦の「土俵入り」のくだりも、できればさらりと言ってほしい。
女がさして深い考えもなく口にした言葉を男が愚直に受け止め、
勝手にいつまでも胸に刻む。それこそ作者・長谷川伸の世界なのだから。
幼いころに母親を亡くした長谷川伸は、
永遠の母とも言うべき女性を求め、作品の中に描き続けた。
だから私はその女性像に、究極的にはリアルを求めない。
男女の古風なフィクションが成立していれば、それでいいと考える。
もっとも、『一本刀~』で作者は、
お蔦が茂兵衛のあがめるような聖女でないことも明示しており、
その辺りの男女の認識のズレは、亀治郎の演技でクリアになったのだけれども。
亀治郎の役柄の解釈それ自体は筋が通っている。
しかし観客というのはわがままなもので、斬新な解釈も大好きなくせに、
作品によっては自身の思い入れの通りに演じてほしいと考えてしまうのだ。
たとえば同じワーグナーのオペラでも、私にとって“指環四部作”は前者で、
『トリスタンとイゾルデ』は後者、つまり思い入れを壊したくない部類に当たる。
なお、勘太郎演じる茂兵衛が、横綱になれず一本刀=渡世人になってからの、
目を見張るような立派な男ぶりも特筆しておきたい。
10年の間に茂兵衛に何が起きたのか、たいそう気になるところだ。
第2部最後は七之助の『京鹿子娘道成寺』。
早替わりも含め、キビキビとテンポよく踊る、愛らしい花子だった。
気がつけばこれまでさまざまな名手の踊りを観てきたが、
今回は時分の花の美しい姿にすっかり見惚れてしまった。
次回はさらに踊りとして練り込んだものにしてほしい。