地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

黒の水引とんぼ   その10

2007-08-06 08:06:41 | ある被爆者の 記憶
母に覚られないようにして、私はよく検番に遊びに行った。普通なら、子どもが父の勤め場所などに行きたがるはずもないが、私にしてみれば、そこは、父のいる場所ではあっても、父の勤め場所とは思ってもみなかった。また、父はそこにいても、働いているとか仕事しているとかいうふうには見えなかった。だから、私にとって、家が二軒あるようなものであった。父もそんなつもりだったのではないだろうか。だいたい人に使われるふうな人ではなかったし、そんな姿を見たことはない。もちろん、父も私の手を引いて検番に連れて行きもしなかったし、一度として来いと言いもしなかったが、私がひとりで行って、特別な顔をする人でもなかった。
私が検番に顔を見せると、芸者たちはどうしてもちやほやする。私は芸者が甘やかしてくれるのが嬉しくて出かけるのではなかった。芸者たちに甘やかされて、それがいいから出かけるという賤しさを、母が極力嫌っていることを私はよく知っていたし、この世界が却って賤しさに反撥するところであることも、もうどこかで分かりかけていた。
 芸者の、私への甘やかしもいろヽあった。私の父や母に対する思惑からのサービスであったり、商売柄の儀礼みたいなのから、本当に子ども好きで無心に可愛がってくれるのまであった。
 案外、私は冷ややかな振舞いをする芸者の方が魅力的で、本当に大事にお相手してくれる芸者はうるさかった。そういうのに限って、赤ちゃん扱いされている自分を感じてしまうからであった。
 私は誰からも構われなくても、検番で充分独り遊び出来た。帳場は、当時としてなら、なかなか合理的で、小学校の職員室より立派だったろう。板敷は、顔が写るほどに磨きあげられ、子どもにとっては、かなりの広さのように思われたし、その中央に、篠山で一番大きいにちがいないと思われた大テーブルがあった。外との仕切りには、欅の一枚板でカウンターをいっぱいに連ね、正面、天井近くに、お稲荷さんを祭る神棚の大提灯が下がっていた。
私は、今でも、その大テーブルの上に置かれたものの一つゝを、はっきりと憶い出すことができる。 
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黒の水引とんぼ   その11

2007-08-06 08:05:27 | ある被爆者の 記憶
 帳づけは、この検番が戦争で閉鎖されるまで、毛筆でなされたから、超大型の硯があり、その硯の水が乾いているのを見たことがない。そのわきには、いわゆる大幅帳が広げられ、その中には、子どもでも読める簡単な字が何回となく書き連ねられていた。私は勘で、それが何をあらわしているのか分かっていた。花、菊、梅など植物名が多かったが、丸の字や若の字も多かった。つまり、芸者の名と、花代を記し、料亭待合名がそれを区切っていたのである。
 私が小学校で習字が得意であった理由も、実は就学以前より、ここで芸者の名を判読し、帳づけを真似た手習いが効を奏しているにちがいなかった。
 私のこの芸者の名判読のために、学習用具がわりの役割を果したものがある。
その大きな机の前方に置かれた芸者の出勤着到盤である。芸者ひとりヽの名前が黒塗りの方形の駒の上に、白いエナメルで美しく書かれたのが、その着到盤の一番下段に並んでいる。これが、お座敷がかかると、適当な上段の欄のところに散らばり始めるのである。最高上段は「仕切り」、二段目は「通し」の欄で、そこに上がってしまうと、あとは電話がかかってきて、電話番が、その名をいくら復唱しようとも、その駒は、全部の駒が改めて最下段に並べ替えられるまで、他の欄に移し変えられることはなかった。次の三段目は「普通」で、この段に上がっている芸者には他からのお座敷から「貰い」ががかった。つまり交渉によってお座敷を移ることが出来る。もちろん、この盤上の動きが、芸者の出勤状況を示したレーダーであり、検番のまさしく目に当たる道具であることに気づいたのは、そう早いことではない。
この盤上の動きに集まる芸者たちの目も、検番の男衆たちの目も、それぞれに異様なことを私は知っていた。それだけに、検番の中で、私にとって一番興味のあるものであったけれども、この道具の使用方法を説明してくれとも言えなかったし、また、誰も子どもに教えようなど、たわむれにせよ思わなかったろう。私は検番にせっせと通って、この盤上に注がれる芸者や男衆の表情と、小耳に挿む会話のやりとりから、この道具の正体の見極めをこつこつと独習したのである。
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黒の水引とんぼ   その12

2007-08-06 08:04:55 | ある被爆者の 記憶
 天井の高い検番の中の、一方の壁面の見上げるほどのところに、もう一つ芸者の名札がずらりと並べられていた。この方は、一ヶ月毎の成績順位を示していた。このことも、教えられて知ったわけではない。まず名前と顔とを一致させ、その名を、先の盤上の駒の動きの中に探し出して読み、なおかつ、あの姐さんが売れっ子なんだ、だから、壁面の名札が先頭なんだと、推理していくことは、子どもの遊びのどんなものよりも、はるかに楽しかったのである。
 それから、私にとって、もう一つ遊べる道具があった。玄関を入った平土間の脇に、三味線箱を並べた何段かの棚がある。ここの人たちは、三味線箱のことをコロと呼んでいたが、なぜそう呼ぶのか、今もって私は知らないが、その頃からなぜだろうと思っていた。そのコロの体裁には、大体二通りあった。漆塗り桐箱で、平打ち紐をかけて、所持する芸者の好みの紋とその名が、やっぱり漆で記されたり、彫りつけられたりして、見るからに和風な体裁のものと、もう一つのタイプはトランク式で、ちょっと見た感じでは、三味線箱とは気がつかない。これにはさすがに、紋も名もなかった。島田に結った芸者が、これを提げても似合うまいと思うのは誤りで、当時はこれが粋だったのでだろう。このトランク型を持っているのは、主に姐さん株のよく売れる芸者たちであった。ただし、三味線箱はいずれにしろ、滅多に、芸者自身が提げることなどなかった。それだけに、これまた、どのトランクが、どの芸者の所持品か、名のついている桐箱の方でも、紋の好みや、漆の色や、掛けた平打紐の染め分け具合などから、その芸者の人柄を、ひそかに品定めする楽しさは、私にとって無類のことであった。
 この名前と顔と、持ち物との照合遊びが、なぜこれほど楽しかったのか。当時の私は、異常なまでに、一度見た顔は忘れなかったからであろう。私にとっては、芸者は特殊な生態を持つ人種みたいな印象があった。やや長じてからは、歌舞音曲が芸者の表芸であることが分かったけれども、まず私が接触する限り、座敷での芸者ではない、昼間の一般生活者と混ざり合う時間帯においてであったから、お白粉気をおとした、それでいて一般女性とは区別のつく、まことに奇妙な表情と姿態とを持つ女性たちであった。あまりいい譬えにはならないが、長く夜行列車に乗り合わせた、朝方の真向いの中年女の顔だと言えば、少しは察しがつくだろうか。
 昼間の芸者は、どう見ても眠そうで、けだるそうであった。それがあたりが暗くなり、人の顔だけが浮かび上がる頃となると、彼女らは生気をとり戻す―、これが子どもにとって興味にならないはずがなかった。
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黒の水引とんぼ   その13

2007-08-06 08:03:34 | ある被爆者の 記憶
四郎の腕に志乃とあった。私にとって、志乃はどうしても芸者の名でなければならなかった。私は検番に行き、盤上の駒を探した。壁面の名札も見た。三味線箱も見渡した。ないわけがないと思いはしても、あろうはずがないとも思えなかった。
 私は当時、父に連れられて、生まれて初めての海水浴をしているが、この時のことが忘れられないのは、どうやら、生まれて初めての海水浴の故にというより、この初めての経験が、四郎の腕にあった志乃を探すということと結びついていたことが、深い襞(ひだ)を彫りこんでいるからだと思う。
 場所は明石、まるで泳いで行けそうな淡路島が目の前にあり、今、海面を限なく赤く染めて夕日が沈む。まだ何の知識もない子どもに、淡路島も瀬戸内海の名もなかった。しかし、却って、その童心の故につかまえられた客観があったように思われる。自然はどこまでも優しくこの父子を懐に容れた。それは泳ぐということとは、全く何のかかわりもないように、海につかったまでであった。父は私を赤ん坊を抱くようにして、静かに海に体をひたらせた。こわくないよとか、海の水は塩からいよとか、何か言ったにちがいないが、その時の言葉は憶えていない。波もあったにちがいないが、私の記憶にはない。あるものは、音を失った一枚のスライドがあるばかりなのはどうしてであろう。私は、その明石の海面に照らし出された、まだ若い父親と、もちろんあどけなさが残っているにちがいない幼な子とが、相擁して見合わせた顔と顔の中に、もう一つの残影があったからだと信じ続けている。
 海浜には、この父子が脱ぎ棄てた夏の白い衣服が浜風に吹かれていた。われゝは海水浴のための用意はなかった。ほんの数刻前まで、私はもとより、父だって海に入ろうなどと思っていなかったのではなかったか。
 海水浴といっても、これは父の商用に私が伴われ、その商用後のたった一刻、父が私に与えた、思いつき程度のサービスでしかなかった。
 父と子が一糸もまとわず、海につかったはずかしさから、父は子に、子は父に、つい今しがたまでの残像を見たのではない。初めて見る海原のぬくもりといい、豊かさといい、どうしても先程まで見ていた女性を思い出さない方が不思議なくらいに、私の頭の中で一つになった。
 父もまた同じ思いでいなければならないように、私は決めてしまっていた。
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黒の水引とんぼ   その14

2007-08-06 08:02:14 | ある被爆者の 記憶
 父と子は、つい今しがたまで、この浜辺近くの仕舞屋の一室で時を過ごしていた。子は確かに、時を過ごしていた。特別に退屈もしていなかったけれども、単調な時間であった。男気の感じられないその部屋は、私にとっては、別に珍しくもなかったし、父が,女と対座している姿も、日頃の検番で見馴れていることであり、ことさらに憶測する気も起きなかった。
 壁に二挺、三味線が掛っていたことは憶えている。だが、その時の父とその女性との会話がどんなものであったかは、何一つ憶えがない。というより、一向に言葉がやりとりされた光景がない。おそらく、商用に関することは私に分からなかったのであろう。しかし、はっきりと、その女性の姿態だけは私の網膜に焼きついてしまっている。姿態というのは気が引ける言葉である。小学校二年生の子供に、男が女を観る観察眼などあるわけがない。けれども、私にとっては、姿態であった。浮世絵を初めて見る者が、それ以前に、その類似の姿態を見たこともないくせに、昔から知っているように感じるのと似ている。
 それと、私には、何の根拠もないのに、これが四郎さんの腕に残された志乃ではないのかと、盗み見以上に、その時間の終わるまで、その姿態に瞳を凝らしたのである。
 この明石行きの思い出の中には、父からみれば、どこか他に私の子どもらしさがあったものか、私が大きくなってからも、父はよく口にしたことがある。
 「電車の中に、折角拾った貝を、忘れてしもうて、わややったの。」
 私は、「うん」といつも頷くことにはしていたが、それが事実だったとする記憶はあっても、拾った貝殻をどう持っていたのやら、電車の網棚に置き忘れたのやら、座席の上であったのやら、一向に絵としては思い出されてこなかった。父は、本当に、私が思い出すものが、拾った貝殻以外には及ばないとしているのだろうか。却ってわざと、貝殻に集中させることによって、私の口を封じようとしているのではないか、などと疑ったりしたほどであった。
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黒の水引とんぼ   その15

2007-08-06 08:01:58 | ある被爆者の 記憶
 例の売り上げ順位を示す名札の首位に新しい名前が入ったのは、それから間もなかった。ことわるまでもないが、その明石の女性、つまり父が引き抜いてきた芸者が直ちに人気を独占したことになる。さすがにこの辺は、私も子どもで、上席は常日頃殆ど変わらない順位も、新しいしず子という名札に圧倒されて、以下、それまでの連名追随している感じで私の目の中に入ってきた時は、なんだか胸がうずいた。どうして嬉しいのか分からなかったが、自分がスカウトした気にでもなっていたのであろう。
 山の芸者と海の芸者との違いなどと、それなりに考えてみたことを憶えている。そこは子どもの思考である。今にして思えば、いずれも田舎芸者に大差はないようなものだけれども、西国へ逃げる平家を追って、義経が京都より丹波路をとり、迂回してひよどり越えをして一の谷を奇襲したというコースを、ほぼ同じにとって走る神有電車に乗って、生まれて初めて海にでた私が、明石で見たこの芸者が、坂東武者が初めて見ただろう平家の公達や女程度か、あるいはそれ以上に、垢ぬけたものとして、身贔屓して思いたがるのも無理ではない。何しろ、父は別として、この芸者を篠山の誰よりも早く私は知っていたのだから。評判が高くなればなるだけ、私は優越感にひたった。
 しかし、この折角の身贔屓は、間もなく、簡単に崩壊してしまう。私がどんなに優越感にひたろうとも、他にそれを示すことなく、自己の中に満足して充分というものではなかった。やっぱり、誰かに自慢したい。誰かに自慢することによって、初めて、私はしず子を身贔屓にしていることになるのだと思った。だが残念なことには、私には、父に連れられて、このしず子のスカウトに明石に行ったと、吹聴するだけの蛮気がなかった。仮にもし、そう言ったとしたら、ふりちんで、父に抱っこされて海に入った私の姿まで告白させられなければならぬように思いこんでいた。
でも言わなければ誰も、私がしず子と顔見知りだと気がついてくれるわけがない。
子ども心というものは、私だけが知っているという内心の喜悦を、自分だけで楽しむという、高等、姑息、いずれにしろ、そういう偏執さには埋没できない。検番で、あるいは私の家で、しず子が話題になるたびに、聞き耳を立てている自分に気がついた。そのくせ、誰一人として、私をその話題の中に連れ込んではくれなかった。
 しず子が検番に姿をあらわすことがかならずある。その時、しず子が、私の顔を見て、旧知にめぐりあった発言をきっとするだろう、私はその機会を待てばよいのだ、そう思って、検番にでかけてはみるものの、売れっ子のしず子が、検番で暇をつぶすようなことはなかった。それに、人の気を見るに敏な男衆たちの目や、お茶を引いてぶらぶらする芸者の目が気になって、とても長くは続けられなかった。
 
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黒の水引とんぼ   その16

2007-08-06 08:01:57 | ある被爆者の 記憶
もう篠山の町の表通りは完全に舗装され、田舎町には不似合いな鈴蘭燈で、各町が贅を尽くして夜の街を彩ったのも、それから遠いことではなかった。
 歩兵第七十連隊の兵隊たちが日曜日毎に町に溢れる思い出があるのも、この頃からである。ネオンサインなどというものが、夜空に煌めき、路地裏にまでカフェが軒を連ねた。
 置屋のれんじ窓から洩れる稽古三味線の音を、もう昼すぎからカフェの蓄音器の音が圧していった。
 さすがに、私も子どもで、この町の変貌をとらえても、その原因が、色町自体が遊客を兵隊相手にしぼり始めたからだとは、全く気がつかなかった。
 ただ、町中で泥酔した兵隊を、憲兵が連れ去っていくのを見かけることが多くなったと思った。それに、憲兵の背から腰のあたりに吊した三角型の厳めしい皮袋が、やけに目を引いた。その中には拳銃が入っているのだと聞かされていたからである。その拳銃を抜いて憲兵が兵隊を撃ったりすることがあるのだろうかと思ったりした。
 時折り色町の中まで、整然とした軍靴の響きが聞こえたりした。赤三条の肩襷を掛けた週番将校が、銃を肩にした兵隊四、五名を従えて、日曜外出の兵を見回るのである。
 座敷で顔馴染みになった若い芸妓が、その靴音で、置屋から飛び出していく姿を何度も見た。検番で、若い芸妓たちが、××中隊の××中尉とか××少尉とか言って、若い将校連中の品定めをするのは、いつの間にか、もう常のことになっていた。
 だから、当然のことながら、若い芸妓が誰彼なく、売り上げを伸ばし、芸達者な老妓が売れ残ったりして、名札の順位に狂いも出始めていた。
その頃、検番の売り上げ序列の札に、予想外の変化が起きていた。私がびっくりしたのは、老若の交替だけではなかった。
 しず子が、三、四位に下落していることであった。
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黒の水引とんぼ   その17

2007-08-06 08:00:59 | ある被爆者の 記憶
 旦那がついたとも聞いていなかった。病気がちの噂もない。お茶屋の内儀さんのご機嫌を損じたか。私は持てる知識を動員してみたが、そんな知識よりも、私の小さな頭には、またしても、四郎の腕に彫られた志乃の謎がこれにまつわりついてきて離れることをしなかった。
 永松の家は、道路が出来上がっても、篠山を去っていく気配はなかった。多勢の人夫たちが出入りしていた頃のことを思うと、うそのように、まるで隠居所のように老夫婦だけが、小さな庭で盆栽いじりなど始めていた。
 ローラー車はもちろんのこと、ドラム缶一缶も、永松の家のまわりには見当たらなかった。
 私は、永松四郎さんが、留守がちになっていたのと、このしず子の売り上げ下落とを結びつけたのである。
 思えば、私はもっと早く、永松の父が、私の父に、
「もう、油が自由にならねえ。この商売もおしめえだ。」
と、江戸前に物は言うものの、どうみても、四郎の父とは思えぬほど、小柄な体を淋しく震わせて笑ったことを考え合わすべきであった。
 四郎だけが、出稼ぎに出ていたのかもしれない。
 「四郎さんは、どこに行ったんやろ。」
 私は、私の謎の確認のために、姉のすみ子に、その消息を尋ねた。
 「なんで、そないなこと、うちに訊くんや。おませやなあ。」
と、姉は姉なりに思うところがあるから、赫い顔をした。
 そうだった。姉と四郎と、縁談が持ち上がっていたんだ。これでは私が姉をからかうために訊いたとしか、姉は思いようがない。私は正直に悪かったと思った。そう思いながらも、この縁談はうまくいかない、可愛想に、姉は、四郎の腕に志乃いのちの刺青があるのを知らないのだからと、憐れんだが、この話以後、私は決して、そのことを姉の前で口にしてはならないと思った。
 
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黒の水引とんぼ   その18

2007-08-06 08:00:58 | ある被爆者の 記憶
やがて、私の謎は、解けたのか、深まったのか、分からないが、とにかく新しい段階に入る日がきた。
 四郎の呉海兵団入団の日である。それは私にとって、全く寝耳に水の出来事であった。
 召集ではなかった。永松四郎は自ら進んで志願したという。
 永松の家の前には、何本もの幟が立った。私が、武運長久という文字を見た最初である。筆太に書かれた永松四郎の文字は、まちがいなく四郎さんを指しているのに、別人の名のように思えてならなかった。私の父が、多勢の人の居並ぶ前で、上機嫌に、永松四郎君万歳と音頭をとった。
私は恥かしかった。なぜだかみんな、寄ってたかって四郎さんを別人格にしてしまったような気がしてならなかった。
 四郎さんは、その頃からぽつゝ着られ始めた国民服(乙型)に身を包み、黒の短靴にゲートルを巻いて立っていた。
 それはそれなりに似合わない人ではなかったが、あのいなせな男っぷりが、もうどこかに消えていたのが悲しかった。やっぱり四郎さんは、日に焼けた素肌を出し、白い晒を胸のあたりまで巻きつけて、雪駄履きが似合うのにと思った。
 なぜ、軍隊になど行くんだろう。私にはどうしても、四郎さんが軍人を志願してまで行く人だとは思えなかった。
 軍隊のある町に生まれた者が、また当時の男の子にとって、軍人が憧れでこそあれ、嫌なものだと思うことはなかった。でも、四郎さんに、それとは違う男っぷりを見つけたから、私は四郎さんが大好きだったのに、と思った。
 うそだ。これは何かのまちがいだ。四郎さんが、軍人が好きだなんて大うそだ。
私は走り寄って、四郎さんの国民服からゲートルから全部剥ぎとってしまいたい衝動にかられた。また、私がそうしなくても、今、もう、見ている前で、四郎さん自身が、芝居もどきに、
 「こうっ、冗談は止しにしねえな。」
と、衣服をかなぐり捨てて、もとの四郎さんに立ち返るような気がした。でも、人の列は、四郎さんを先頭に、駅の方に動き始めた。
 あの左の腕の志乃いのちの刺青を、四郎さんは消したのだろうかと思わせられた。後姿は、昔の四郎さんとは、もう全く別人のようであったからである。男と女の仲とは、そんなものなのか、私の長い独り合点も、ふうっと侘しく消えようとしたとき、見送りの中に、私はしず子の混じっているのを見つけた。私の胸は、もうつぶれてしまいはせぬかと思うほどに、破れ鐘のように高鳴った。
 しず子の目は、人に気づかれぬようにしながらも、四郎をじっと追っていた。私はちらっと姉を見た。姉はしず子の来合わせていることに気がついていない。気がついたとしても、四郎との結びつきはわかるまい。そっとしておくことだと思った。
 やっぱり、志乃はしず子の前名だった。私は、この時、そう固く信じた。四郎さんは振り返りもしなかった。しかし、私は、四郎さんの左の腕の刺青は、消えるどころか、志乃いのちの通り、彫りつけられたままなんだと思い直した。四郎さんが、陸軍を選ばず、海軍にしたのも、陸軍しか知らないような篠山の人に、自分は軍人志願が直接目的でないことを示す、ちょっとした江戸っ子の気前であったかもしれぬと思った。
 
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黒の水引とんぼ   その19

2007-08-06 08:00:57 | ある被爆者の 記憶
永松四郎は、一年経つか経たないで、白木の箱に収まって、帰り直したことになる。公表は戦病死であった。
 その日はやけに軽便鉄道の汽笛がぼうゝと鳴って耳についた。
四郎は、何が原因で、脱走兵とならねばならなかったか、篠山の人々は、不思議がったが、噂好きな篠山人間も、この四郎の事件に関しては噂を立てなかった。軍の完全な権威主義と隠蔽工作が徹底しており、下手な噂をすれば、憲兵隊に連行されるかもしれない剣呑な空気も、ぽつゝ立ちこめる軍人政治の時節に差しかかっていたからともいえる。
 しかし、四郎の男っぷりの好さを篠山の人々は惜しんで、蔭でも汚名を口にするようなことはなかった。
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