ちょっと前、奉仕会で世の友を割けるという話があった。
この会衆は若い子が少ないから、若者に向けての話がある時は時に名指しで話されることもある。
もう何度も聞いた話だけれど、改めてびっくりするような内容が演壇から話される。
「時に世の友達は良い人のように思えることがある。では何が問題なのでしょう。
その人はエホバの友ですか?エホバの友でないなら、それは敵対しているのです。神の敵と交友したいと思いますか?」
「友を見分けるいい方法がある。早いうちに証言するのです。それであなたの友人の心が見分けられる。本当の友達なら、あなたと聖書研究をするでしょう。そうなって初めてその友と友情をはぐぐむのは懸命なことです。
結びつきが深くなってからJWであることを話して、反対され、友情に信仰をためされるようなことがあってはなりません。」
「それでは真理には友好的でも行動(研究)しない友人をもつことはどうでしょうか。親の皆さんはどう思われますか?その友達は”とてもよい”人です。お子さんがこのような”世”の子の家を訪問したり、その子をあなたの家に招くことを許しますか?(注解を求める)」
静まりかえる会場
「つきあってはいけない理由がない場合でもエホバを信頼するのはどうでしょうか。
今、理由は分からなくとも、エホバを信頼し、組織の助言にしたがい、世の友達を持たないことは賞賛されるべきことです。」
「もちろん、若者に友達が必要なのはわかります。大人にだって友だちが必要なのです。それでは会衆にいる年の違う仲間たちと知り合うようにしてみてはどうですか。」
この話録音したかったです。
協会を訴える時ちょっと使えるかなって、思って。(笑)
ものみの塔の悪の中で一番大きいものの一つはこの「世の友を避ける」教えだと私は思います。
人生で一番美しいことは人との関わり。それをたとうとするJW。その代わりに与えられるものはJW内だけで有効な偽の人間関係。そんな”世界的なブラザーフット”なんてものは本当の友人ひとりにさえ値しない。
JWでいた時は協会のすすめに加え、JWとしてできないことが多くて、世の人を避けていた。親しくなればクリスマスだのなんだの誘われるわけだし、そのたびに冷や水をかぶせられるような感覚(いわゆるいきなり信仰を試されるってやつでしょうか)と、
協会側への気兼ね、罪悪感でこっちが疲れてしまって、最初からこっちがそっけないか、疎遠になるのを望んでいたから、、、、。気付いてみたら
友達いない。
(笑)
友達って銀行口座高のようなものだと思うんです。はいってこなければ減るだけ。(笑)友達ってお互いの環境が変わったり、単に住む地域がかわったりで仲がよくっても疎遠になっていくものだから、新しい友人ができないと、どんどん友人がへってゆく。もちろん、その中で動かない財産になるような友達もできるんだけど、
そういう友達は100人いて1人できるかどうか。
砂金探しのようなものなんです。
つまり、協会の言うとおり、友達を作らない方向でがんばってると・・。
本当、みごと友達いない。
だから、人を避けるよう若い人に勧告し続けている協会の悪が許せない!
これは本当にものみの塔を許せない部分の一つです。
もちろん、脱JWをさせにくくさせる要因であり、そこがうまいというか、汚いというか、なんだけれども、
人生で一番美しいこと、人間関係-を人に味わわせない権利が誰にあるんだろう。
協会はダビデとヨナタンの友情を美化するけれど、あれだって、ヨナタンはサウル側の人だったんだから、敵そのものだったはず。徹底するなら、それも悪い例だって糾弾するえばいい。と思う。
年齢の違った友達を会衆内でもて。
とはいうけれど、若い子の友人層がみんな年配というのもおかしい。年配の人は年配の人と、ティーンはやはりティーンの友人が必要だし、そうるする権利があると思う。
この会衆は若い子が少ないから、若者に向けての話がある時は時に名指しで話されることもある。
もう何度も聞いた話だけれど、改めてびっくりするような内容が演壇から話される。
「時に世の友達は良い人のように思えることがある。では何が問題なのでしょう。
その人はエホバの友ですか?エホバの友でないなら、それは敵対しているのです。神の敵と交友したいと思いますか?」
「友を見分けるいい方法がある。早いうちに証言するのです。それであなたの友人の心が見分けられる。本当の友達なら、あなたと聖書研究をするでしょう。そうなって初めてその友と友情をはぐぐむのは懸命なことです。
結びつきが深くなってからJWであることを話して、反対され、友情に信仰をためされるようなことがあってはなりません。」
「それでは真理には友好的でも行動(研究)しない友人をもつことはどうでしょうか。親の皆さんはどう思われますか?その友達は”とてもよい”人です。お子さんがこのような”世”の子の家を訪問したり、その子をあなたの家に招くことを許しますか?(注解を求める)」
静まりかえる会場
「つきあってはいけない理由がない場合でもエホバを信頼するのはどうでしょうか。
今、理由は分からなくとも、エホバを信頼し、組織の助言にしたがい、世の友達を持たないことは賞賛されるべきことです。」
「もちろん、若者に友達が必要なのはわかります。大人にだって友だちが必要なのです。それでは会衆にいる年の違う仲間たちと知り合うようにしてみてはどうですか。」
この話録音したかったです。
協会を訴える時ちょっと使えるかなって、思って。(笑)
ものみの塔の悪の中で一番大きいものの一つはこの「世の友を避ける」教えだと私は思います。
人生で一番美しいことは人との関わり。それをたとうとするJW。その代わりに与えられるものはJW内だけで有効な偽の人間関係。そんな”世界的なブラザーフット”なんてものは本当の友人ひとりにさえ値しない。
JWでいた時は協会のすすめに加え、JWとしてできないことが多くて、世の人を避けていた。親しくなればクリスマスだのなんだの誘われるわけだし、そのたびに冷や水をかぶせられるような感覚(いわゆるいきなり信仰を試されるってやつでしょうか)と、
協会側への気兼ね、罪悪感でこっちが疲れてしまって、最初からこっちがそっけないか、疎遠になるのを望んでいたから、、、、。気付いてみたら

友達いない。
(笑)
友達って銀行口座高のようなものだと思うんです。はいってこなければ減るだけ。(笑)友達ってお互いの環境が変わったり、単に住む地域がかわったりで仲がよくっても疎遠になっていくものだから、新しい友人ができないと、どんどん友人がへってゆく。もちろん、その中で動かない財産になるような友達もできるんだけど、
そういう友達は100人いて1人できるかどうか。
砂金探しのようなものなんです。
つまり、協会の言うとおり、友達を作らない方向でがんばってると・・。
本当、みごと友達いない。
だから、人を避けるよう若い人に勧告し続けている協会の悪が許せない!
これは本当にものみの塔を許せない部分の一つです。
もちろん、脱JWをさせにくくさせる要因であり、そこがうまいというか、汚いというか、なんだけれども、
人生で一番美しいこと、人間関係-を人に味わわせない権利が誰にあるんだろう。
協会はダビデとヨナタンの友情を美化するけれど、あれだって、ヨナタンはサウル側の人だったんだから、敵そのものだったはず。徹底するなら、それも悪い例だって糾弾するえばいい。と思う。
年齢の違った友達を会衆内でもて。
とはいうけれど、若い子の友人層がみんな年配というのもおかしい。年配の人は年配の人と、ティーンはやはりティーンの友人が必要だし、そうるする権利があると思う。