パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

<安倍「国葬」問題への提案①>

2022年09月22日 | 暴走する都教委と闘う仲間たち

 ◆ 安倍「国葬」を題材とする授業創りにチャレンジを!
   皆さま     高嶋伸欣です

 安倍「国葬」の予定日27日が10日後となりました。
 各地で自治体の首長や教育委員会に申し入れ等をされている件に加えて、<安倍「国葬」を題材として”活用”する授業創りの提案①>をお届けいたします。

 その目標は、<傍観的に社会の事象を観るのではなく、社会の一員としての立場から、「自分はこう考える」と言えるように今現在の話題を素材にして、判断力・思考力を高める学習をめざす>というものです。

 *同時に、学校では児童・生徒の関心・興味に合せて教員が時事的な話題を”創意工夫”をもって教材とすることが文科省や教育委員会からも認められているということの確認の実践をめざすというものです。

 テーマ例

 例①なぜ安倍「国葬」では世論が賛否に大きく割れ、その状況が変わらないまま実施されるのだろうか(実施されたのだろうか)」

 例② <ディベート形式にする場合>
 『命題=9月27日に安倍氏の国葬を行う(行った)ことは日本の民主主義(日本国憲法など)に反していない(反していた)』
 ディベートはあくまでも討論技術育成の手法として考案された、一種のゲームのようなものです。
 討論者は、肯定・否定のどちらの側になるか討議(対論)開始の数時間前あるいは前日にくじ引き等機械的に決めるまで、肯定と否定の両方それぞれの主張に見合う根拠となる資料等を準備し、どちらの側になるかが決まったところで、主張の筋立てを考え(作戦準備をし)討論の場に臨むことにします。
 討論と傍聴者等による判定(勝敗決着)後に、この間に主張したことが自己の考えと異なることがあるのは当然ですし、逆に以前は気づかなかった別の視点に出会う機会ともなるという効果があります。

 <参考情報> 安倍「国葬」のようなホットな政治的話題を学校で扱う場合の制約・留意事項について

 1) マスコミなどで様々な意見や状況説明がされている事象であれば、授業等で取り上げることが、以前から文科省(旧・文部省)に認められている。

 ① 「社会で実際に起きている事象はたくさんあるけれど、教科書に記載していいのはどのような場合か?」という問いに、教科書検定官は「教科書では記述が簡略になり易いので、原則としてその事象が生じた状況などを児童・生徒が図書館などで当時の新聞・雑誌等で詳しく調べられるものであればよい」旨、一つの”目安”を示しました。
 1980年代の高校「現代社会」の検定の場で執筆者が検定官から引き出した発言です。この”目安”が社会科教科書執筆者懇談会(当時は存在していました)などを通じて教科書業界に知れ渡り、継承されて今日まで多くの実態化された事例を生み出しています。

 ② 歴史教科書に沖縄の様々な県民大会のことや「日の丸・君が代」問題などがいち早く、正誤訂正の機会を通じるなどして記述されている現在の状況は、こうした執筆者や編集者などの取り組みの蓄積を証明しているものです。

 ③ 一方で教科書が児童・生徒の手に渡るまでには、原稿執筆から白表紙本(白紙の表紙以外は本物そっくりの検定審査用の教科書)の作成に最低1年間、検定を申請して合格の結論を得るのに1年間、採択用見本本を作成・配布して採択(注文数)が確定したのに合わせて供給本(実際に児童・生徒が使用する教科書)を作成して学校現場に届けるのに1年、合計で最低3年かかります
 従って、教室では直近3年間に生じた事象について教科書で学ぶことは、正誤訂正などで加筆されなければ、できません。そこで求められるのが、児童・生徒の興味・関心の動向などを把握している教員の”創意工夫”による時事的話題を盛り込んだ学習機会の創造です。
 その際の時事的話題の選択では、上記の教科書記述に関する”目安”の援用をするならば、教育的かつ政治的公正さは保てていると主張できるように考えられます。

 2) 文科省は「学習指導要領」に規定されている事柄に最低限触れていさえすれば、教員がそれ以上の事柄を盛り込んだ学習を”創意工夫”で精力的に実践することを認めています。

  1.  ① 文科省は、小中学校及び高等学校の学習内容は「学習指導要領」に基づかなければならないとの法的拘束力があることを最高裁大法廷廷判決(1976年5月21日、旭川学力テスト事件)も認めているとしている。けれども、それは「大綱的」で「最低基準(これだけは触れること)」としてであって、「上限や許容限度を定めたもの」としてではありません。

 ② 同「大法廷判決」は、児童・生徒の状況、興味関心の様子を日々把握している教員が適切と判断した場合には、教員の「創意と工夫」(第2次家永教科書裁判、1970年7月17日東京地裁杉本判決で用いられたことば)に基づいた教育活動が教育行政の下で保障されることによって、憲法26条(教育を受ける権利、教育の義務)、13条(個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉)にかなうことになると、判示しているのです。

 ③ ここに判示された理念は、その後の「都立七生養護学校事件」判決(特別支援教育対象の生徒向け性教育教材をついて”卑猥”等の攻撃をした都議らとそれに同調して同校教員を処分した都教委に賠償を命じたもの)などに継承されています。

 ④ 一方で、文科省は文部省時代の1990年代まで、上記の「大法廷判決」で「学習指導要領」は「最低基準」であるとしていることを無視し、「『要領』に記載されている事項が扱ってよいものの上限・許容範囲である」との解釈をもって、全国の教育現場や教科書記述を統制してきました。
 その結果、教科書検定の場でも同様の解釈が適用され、児童・生徒の知的好奇心を刺激する記述が次々と削除させられていました。

 ⑤ また、ことなかれ主義が蔓延している教育員会は、意欲的な教員の実践を抑制する手段として『要領』を最大限に活用し、全国の学校現場が委縮させられてきたのでした。
 最近でも「慰安婦」のことを扱った授業に対して、地方議会の議員が「学習指導要領の枠を超えている!」などとして問題視した時に、教育長等がその認識の誤りを指摘する答弁をしていないという事例が繰り返されているように聞いています。

 ⑥ 一方で、文部省はいつまでもごまかしを続けることは無理と悟ります。様々な教育裁判などを通じ、「大法廷判決」では『要領』を”最低基準”とすることで初めて法的拘束力を認められているに過ぎないことが、次第に認識されるようになってきています。
 それに、国際的学力比較調査で日本の順位が下がり続け、暗記重視の学習で知識量を増やすという従来の学力観から、思考力・判断力をより豊かにするのを学力観とする教育観の転換を迫られたことがあります。
 そこで、文部省は『要領』は”許容限度”ではなく”最低基準”にすぎないのであって、これまでの”許容限度”とする位置づけた説明は誤りだと明らかにせざるを得なくなったもです。

 ⑦ ただし、最初は公式にではありません。生涯学習振興課長(当時)だった寺脇研氏が教職雑誌に寄稿した文の末尾の部分ににおいて、目立たないように書いただけです(添付資料参照)。
 それも1998年8月のことでした。「最高裁大法廷判決」(1976.5.21)から文部省は20年以上にわたって、文部省自身が「法規である」と強調している「学習指導要領」の違法な解釈をもって教育行政を施行してきたことになります。

 ⑧ その責任は重大なはずであることを、文部省自身は自覚していたはずです。であるとすれば、姑息な目立たない形式・手順ではなく正直に教育関係者、特に学校現場と教育委員会には、それまでに植え付けた”許容限界”認識を捨てて教員の”創意工夫”を保障する”最低基準”であると、認識をきちんと改めるように周知徹底を図るべきでした。

 ⑨ ところが、文科省はそうした手立てを講じませんでした。
 私が知る限りでは、寺脇論考後に文部省が公的に「『要領』は”許容限度”をではなく”最低基準”だ」と認識を改める必要性の周知を図ったのは、『文部広報』(1026号、2000年11月17日発行)の紙上においてです。そこには添付資料にある通り、次のように書かれています。
 「同時に、学習指導要領は最低基準であり、理解の速い子には、より高度な内容を教えることも可能であることを明確にする。これまでもそうした建前であったが、現実には一律の対応になっていた」と。
 まるでこれまで建前通りでなかった状況は、誰か文部省以外の他人によって生じたことであるかのような無責任な書き方です。

 ⑩ さらにもっと厚かましいのは同『文部広報』のQ&Aのコラムです(添付資料参照)。まるで『要領』にある事項の学習を済ませた後の発展的学習の範囲が広く設けられたのはこの時の新『要領』からであるかのような書き方です。
 文部省がウソを20年以上も繰り返してきた事実に気づかせないようにという、官僚流の責任回避の姿勢が見え見えです。
 それに『文部広報』は文部省関連の諸官庁や国立学校など限られた範囲に配布されていて、広く学校現場で読まれているものではありません。『要領』の認識の誤りを是正することはその内容面、さらには当事者としての文部省の責任の観点などから、徹底して全国の学校現場に向けて周知徹底が図られるべき事柄のはずです。
 現在でも、『要領』は”許容限度”を示したものとの認識をすり込まれたままでいる人が少なくないように思えます。

 ⑪ ちなみに、前出の添付資料の「朝日新聞」記事(2002年1月18日)には、文科省になって初めての『文部科学白書』で、文科省は「これまで教育内容を厳格に統制してきた学習指導要領について『最低基準』だと初めて明記」した、とあります。
 『文部広報』よりは社会的に認知されている文科省の刊行物に「初めて明記」されたのですから、「最高裁大法廷判決」から26年間も歪曲した『要領』認識を教育界に押し付け続けてきた文部行政の責任は重大です。
 けれども、その後も文科省は26間植えつけ続けた歪曲認識の浸透状況を是正する措置を積極的にこうじている様子が見当たりません。そのために、精力的に”創意工夫”による授業を実践しようとする教員が、余計な配慮をさせられる状況が今も全国で続いているように見えます。

 *そこで「学習指導要領」を超える”創意工夫”の授業実践は、文科省も教委も肯定し、憲法26条13条の趣旨においても保障・奨励されているものであることを改めて再確認する効果も期待して、安倍「国葬」を題材・教材とする授業創りを教育現場の皆さんに、一案として提案することにした次第です。

 以上 髙嶋の私見です。

 後期高齢者世代が現役時代に切り拓いた到達点が上記の<関連情報>の1)と2)です。これらが、幾分かでも現役世代の皆さんによって”活用”されるならば、これほど嬉しいことはありません。

 資料のことなど、私たちはアナログ世代ですので、現在のIT時代に置き換える創意工夫で新しい展開を切り拓き手頂ければ幸いです

  以上 ともあれご参考までに。

   長文をお読み下さりありがとうございます。     転送・拡散は自由です。

 


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