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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

☆ 福島原発事故津島裁判3/11仙台高裁第8回・原告意見陳述

2024年05月07日 | フクシマ原発震災

  =たんぽぽ舎【TMM:No5011~5014】=
☆ 「愛するふるさと津島(第一原発から30km)を返せ」
  生活の糧となる山、川が汚染され全集落が強制避難

福島原発事故津島被害者原告団 団長・今野秀則

 2024年3月11日、仙台高裁第8回津島裁判期日が開催されました。
 この日は、福島第一原発事故から13年の当日でもあり、前日から東日本大震災の報道一色でありました。
 ふる里へ帰りたいが帰れない。家族がいまだにバラバラになったまま、避難者はまだ2万人以上。ふる里へ戻れず避難した地域へやむなく家を建てて住めば、住民登録はふる里のままでも避難者と認められない。

 「復興」「除染したから安全」というが、それならなぜ放射能が検出されるのだ。放射能は無毒化にはできないことは誰でも知っている。
 それでも「安全」と嘘をつく、津島原発訴訟団は阿武隈山間の集落の皆さん、お互いが助け合い絆の深い地域で、第一原発から30kmも離れたところですが、風の流れと共に放射性物質がまともに降り落ち、生活の糧となる山、川が汚染され全集落が強制避難となりました
 未だに回復できなく、「愛するふるさと津島を返せ」と訴えています。
 今回の意見陳述では団長の今野さんが訴えました。


1.津島地区及び事故後の状況

 私たちのふるさと津島地区は、戦後開拓に入った多くの人びとも含め約450世帯・1400人の住民が暮らす中山間地域です。
 互いに顔見知りの住民は、自然あふれる環境の中で助け合い、多様・多彩な年中行事に楽しみ、喜びを見出し、生き甲斐を感じて平穏に暮らしていました。
 しかし、2011年3月、東日本大震災、それに伴う東電第一原発事故による高濃度の放射能汚染により避難を余儀なくされました。

 3/11地震発生当時、激しい揺れに住民は不安に戦きましたが、地震そのものによる被害はさほど大きくはなくほっと安堵して、散乱した家具調度などの後片付けに追われました。
 しかし、翌日になると原発が危機的な状況に陥り、避難圏域の拡大に伴って原発近傍の町中心部や沿岸部から約1万人近くの人びとが、原発から20~30km離れている津島地区に避難してきました。
 8つある地区の集会所、学校施設、公民館など足の踏み場もないほど避難者で溢れました。親せきや見知らぬ人まで受け入れて30人を超える避難者を世話した民家もありました。

 津島地区は停電せず、地下水や山からの引き水が確保され、民家にはコメや野菜など食料の備蓄もあるため、住民は炊き出しなど地区を挙げて避難者を支援しました。そうは言っても、テレビでは津波の悲惨な状況や次々と爆発する原発の映像が流れ、果たして津島地区は安全と言えるのか不安な気持ちで過ごしました。
 町役場は3月12日に本所機能を津島支所に移転していましたが、その支所で3月15日に町災害対策本部会議が開かれました。

 国からも東電からも放射能に関する情報の連絡は一切ないが、諸般の情勢に鑑みてこれ以上地区内に留まれないと町長が決断し、その日のうちに町を挙げて町外に避難することが決定され、一転して私たち津島地区住民も避難する立場に追いやられました。
 突然のことに戸惑いながらも、私たち住民は、2~3日、長くても1週間もすれば元通りの平穏な生活に戻れるだろうと、取るものも取りあえず町当局が指示した二本松市方面に行く当てもなく避難しました。
 それが、いつ帰れるのか見通しもつかないままに、10年を超えて強いられ続ける過酷な避難になるとは思いもしませんでした。

 避難に際して、友人や親戚などを頼る人もいましたが、住民の大半は避難先の公民館や集会所、学校の体育館などで、募る寒さに震えながら不安に苛まれて過ごしました。
 その後、旅館やホテル、ペンションなどへの2次避難、更には逐次整備された仮設住宅や借り上げ住宅への3次避難など転々と避難生活を強いられました。まるで悪夢です。夢であってほしいと思うことが幾度あったことか。
 特に悲惨なのは、子供たちでした。本来なら新学期を迎え、家族とともに希望に満ちた学校生活を送れるはずなのに、見知らぬ避難先で区域外就学しなければならず、放射能汚染地域から避難したことが分かればいじめに遭って辛い思いをし、不登校になって心の傷を今に至るも引きずっている人も多くいます。

 

2.避難等経緯

 文字通り、津島地区住民は県内外に離散してしまいました。誰が何処に避難したか皆目わかりませんでしたが、私自身もその一員である地区の区長会が中心となって、5~6月頃には全世帯の避難先が確認できました。大雑把に言って2割前後が県外、残り8割は県内各方面にばらけ、親せきや友人同士の交流もままならない状況に追いやられ、避難先では原発事故の被災地域から避難して来たと言えないような、孤立し、孤独な生活を余儀なくされました。
 私自身は、避難直後の3月一杯は妻の実家で、更に就職した娘が入居したアパートで2箇所を過ごしました。しかし、何時までも就職し独立した娘の生活の邪魔はできないと思い、県内各方部を巡って家を探し、漸く県・中通りの本宮市白沢地区に空き家を見つけ、借り上げ住宅(みなし仮設住宅)としてその年の12月に入居して約5年を過ごしました。当然ながら、地域の事情には不案内で近傍に見知った人はいません。避難後は、本来なら生き甲斐を感じてやることが沢山ある家や地域の仕事、行事をすることもできず、やり場のない怒り、憤りを抱えて何も手につかない不安な毎日を送るしかありませんでした。
 白沢地区に避難して1週間ほどした頃、隣組長から集まってほしいと声がけがあって何事かと畏れ不安な思いで妻と一緒に参集すると、隣組の皆さんが「大変でしたね。どうぞ一緒に頑張って暮らしましよう」と、テーブル一杯に料理を持ち寄って歓迎会を開いて労ってくれました。温かな人情に胸が熱くなって、涙が溢れました。以後、地域の皆さんに出来るだけ溶け込んで日々を送り、どれ程心慰められたか言い尽くせません。しかし一方では、残してきたふるさと、そこにある家、地域の人びとの絆は片時も心から離れることはありませんでした。今後どうなるのか、将来が見えない中、不安でいたたまれない気持ちを抱え生活するのは本当に辛いことでした。
 私は2016年12月から、5か所目の避難先である県・中通りの大玉村に自宅を新築して妻と2人で暮らしています。この地で暮らす以上は、出来るだけ地域に溶け込もうと町内会、地区の老人クラブに加入しました。しかし、見知らぬ土地、住民にそう簡単に馴染むことは出来ません。地区の行事などに参加するたびに、ふるさと津島での生きがいに満ちた生活を思い出してしまうのです。

 

3.ふるさと復興・再生への思い

 ふるさとを追われた地域の人びとが抱える思いも皆同じです。自分の家や庭、田畑、地域の人びととの絆に思いが至ると、どうしようもなく胸が熱くなり、目頭が潤みます。童謡「ふるさと」を歌おうとすると、胸が詰まりいまだに歌えない人が大勢います。私も、その一人です。
 こうした、ふるさと津島への痛切な思いから、この惨状をどうすればいいのか、ふるさとの復興・再生のためにとにかく集まって話し合おうと、2014年11月に「津島地区原発事故の完全賠償を求める会」が地区住民の半数を超える人びとの賛同で設立され、これを母体に2015年5月「福島原発事故津島被害者原告団」を結成して、同年9月に提訴しました。

 度々指摘された安全対策を講じようとせず、想定外の事態だから責任がないとする国の言い訳は、無責任極まりない悪質なものです。東電も自ら引き起こしたこの過酷な事故に苦しむ被害者に対し過払いするほど十分な賠償を支払ったとして、地区住民の痛切な思いを顧みずに責任を逃れようとしています。
 私たち住民は裁判などには無縁な暮らしで、提訴するかどうかそれぞれが真剣に悩みました。しかし、地域社会を丸ごと奪われ避難生活を強いられる理不尽な事態を招いた国、東電の責任を質し、ふるさとの原状回復を求めるのは当然なことと、覚悟して決断し提訴に踏み切ったのです。請求の趣旨は、何よりも大切なふるさとの「(1)原状回復請求」を真正面から掲げるとともに、(2)事故による避難に係る「損害賠償請求」(避難慰謝料、健康被害慰謝料、(1)の予備的請求としてふるさと喪失慰謝料)を掲げました。
 2021年7月に下された福島地裁郡山支部の1審判決は、国・東電の事故に係る法的責任を断罪し、ふるさと津島地区の自然、歴史、人と人のつながり、自然との共生などふるさと津島とその暮らし、及び原発事故による被害について具体的かつ詳細に事実を認定しました。しかし、私たち住民の最大の願いである原状回復請求が却下され、損害賠償も十分な額とは言えないために、控訴して闘い続けています。


4.時間経過に伴う被害の深刻化、拡大

 この間、2013年4月に全域が帰還困難区域とされた津島地区は、2017年12月にその一部、僅か1.6%が特定復興再生拠点区域(復興拠点)に指定されて、5年間の整備を経て2023年3月に規制が解除されました。
 しかし、残り98.4%は依然として帰還困難区域のままに残され、本年に入って「特定帰還居住区域」整備計画が認可され、住民が希望すれば家などを中心に除染が進められますがあくまで限定的なもので、依然として地区全体に係る計画は示されていません。

 事故後既に13年が経過し、管理が行き届かない家や庭は藪と樹木に埋もれ、田畑はうっそうと茂る林、森と化してしまいました
 家屋は極度に傷み、害獣に侵入されて足の踏み場もない状況のため、拠点区域内や、両側20mの範囲で際除染が進められる地区内の主要な7つの道路沿いの、多くの家屋が解体撤去されました。

 住民は、何代も続いた思い出の詰まった家、一家団欒の何よりも大切な家を、迷い、悩みながら、断腸の思いで解体撤去を決断しているのです。
 私の家は規制が解除された復興拠点内にあります。
 除染されたとはいえ放射線量は事故以前と同様の1msv/年以下には至らず、地域社会の将来が見通せない、インフラ整備も役場支所以外はないに等しい現状にある中で、解体撤去すべきか否か迷い続けています。
 私で4代目となる家は、私につながる一族の、地域社会の人びととの交流の記憶が染みついています。

 今年喜寿を迎える私に残された時間は長くはありません。残せば、いずれ子どもや孫に負担を強いることとなります。
 夜、目覚めそのことを考えると、再び眠り就くまで思い悩みます。夢も見ます。翌日起きてから、ふるさとのあれこれや家のことを見た夢が断片的に蘇り、焦燥感に駆られます。
 解体撤去の申込期限はこの4月1日です。それ以降は自己負担での対応を強いられます。原発事故はこのような理不尽を強いるのです。

 

5.国・東電の責任追及

 一昨年6月17日に最高裁は先行する4件の生業訴訟などの上告審で、国の責任はないと判決を下しました。
 原発事故により人生を奪われ苦しんでいる被害者を顧みようとせずに、仮に対策を施しても事故は防げない可能性があった、だから国に責任はないとの判断です。

 私たち国民が期待する最後の砦としての司法の責務を放棄した、内容のない薄っぺらな判決に落胆し、こんなものが、最高裁判決と言えるのか?と率直に思いました。
 原発事故が起これば過酷な被害が発生することは予め想定されていました。

 万が一にも事故が起きないよう万全の対策を講ずるのが原発政策を推進する国に課された責務であり、その万が一への対策を施さない国をいとも簡単に想定外だから責任はないと免罪してしまいました。到底納得できるものではありません。

 6.17最高裁判決の、事故を防げなかった可能性があったとする判断は、反面から言えば、防げた可能性があったとも言えるのです。完全に防げないまでも、事故発生状況の過酷さを減じた可能性は残るのではないでしょうか。

 6.17最高裁判決は、再度の原発事故が繰り返されることを容認しかねない判断です。未曽有の原発事故に苦しむ私たちには、耐え難く、到底許せません。
 権力側に組し加害の構造の中に自らを位置付けてしまうのではなく、国民、住民の、万が一の被害回避に寄り添う判断をする司法、であるべきではないでしょうか。


6.改めて、ふるさとへの思い

 ふるさととは何でしょうか。
 私にとっては、この世に生を享け、地域社会の中で、歴史や伝統、自然や地域の人びととの交流・交歓などを通じ、私自身を形成した大本、根幹を成すものです。

 地域に伝わる「津島の田植え踊り」という伝承芸能があります。300年来地区の4つの集落(行政区)に伝わり、住民は誇りを以て保存・継承してきました
 阿武隈山地の太平洋側に面する津島地区は、冷涼な気候のため度々冷害に襲われ飢饉で苦しめられた歴史があります。
 このため、稲作の一連の所作を踊りにして、飢饉に苦しめられないよう豊作と地域の平安を祈ったのです。

 私自身も担い手の一人として加わりました。当初は、地域に伝わる伝承芸能を絶やさないよう一種の義務感で参加していたのですが、舞に加わったある時、私につながる多くの先人の祈りを込めて舞う姿がまるで映画のフラッシュバックの様に、突然私の心中に蘇りました。

 そうして連綿と紡がれた地域のつながりの中に私がいる、その一員になれた、なったのだとの意識が脳裏に迸って、地域社会で生きるとはこういうことだと改めて思い、胸が熱くなりました。
 こうした意味でも、ふるさとの地域社会での生活は、私にとっては人生そのものなのです。

 私たちは「ふるさとを返せ」と原状回復を訴えて闘っています。
 私にとっては単に放射能汚染を除去した自然環境だけがふるさとの原状回復であるとは思いません。
 地域社会そのものが事故以前と同様に復することが原状回復であると思います。
 しかしそれは、事故後13年も経た現状では望むべくもありません。
 既に、地域社会は消滅したも同然だからです。
 せめて、事故以前と同様の放射能汚染のない環境に復して住民に返すのは、この過酷な事故を引き起こした国、東電の、国民、住民に対する当然の責務ではないでしょうか。

 

7.事故責任の問い無くして真摯な復興・再生はない

 未曽有の原発事故を引き起こし、地域社会を丸ごと消滅させ、さらに言えば国土そのものを事実上失う事態を引き起こし、生きがいを感じて平穏に暮らす国民・住民の人生そのものを奪い、捻じ曲げ、苦しみを与え続ける責任は極めて大きなものです。

 何度でも言います。
 私たち住民は、自然あふれる環境の中で、互いに協力して受け継がれてきた歴史や伝統、文化を大切に、地域に根付いた生活に楽しみを見出し、生きがいを感じて暮らしてきました。原発事故は、これらの一切を根こそぎ奪い去りました。
 この不条理な事態に、身が震える憤りとふるさとへの痛切な思いを胸に、異郷で避難生活を送らざるを得ない状況にあるのです。
 国・東電の事故に係る責任を問わずして、真の意味の復興・再生はないと言わざるを得ません。

 裁判所には改めてこの未曽有の過酷な事故、及び被害を真正面からみつめてほしい。
 そして、一人の人間として、否、独立して良心に従い、法の精神を体現する司法を担うものとして、6.17最高裁判決の不当な判断に縛られることなく、勇気をもって、事故に係る国・東電の責任を質していただきたい。
 そして、私たち住民の悲痛な願いである「ふるさとを返せ」の原状回復の訴えに耳を傾け、過酷な被害が正当に評価され償われる判断を下されますよう、心から訴えます。

(2024年4月1日発行『原発事故被害者 相双の会』No143より了承を得て転載)

たんぽぽ舎【TMM:No5011~5014】

 


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