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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

◆ 東京「君が代」五次訴訟 原告側最終意見陳述(5)

2025年03月26日 | 「日の丸・君が代」強制反対

 ◆ 「憲法判断の客観的アプローチ」について 弁護士 白井 剣

 これまでの裁判例は、個人の世界観歴史観などの主観面に焦点をあてました。これに対し、そもそも国家の象徴に対する敬意表明を強制する権限が行政にあるのかという観点から違憲性を審査するのが客観的アプローチです。ごく限られた時間ですので、とくに強調したいポイントだけを申し上げます。

1 行政権限の踰越

 第1のポイントは、憲法判断のアプローチとして、個人の世界観、歴史観などの主観面ではなく、客観的に行政権限の踰越を問題にすることです。公権力の権限の限界を画するのです。
 いいかえれば、「国旗・国歌」という国家制度にかかわる問題として、そもそも公権力がその「強制」をすることが憲法上できるのかという問題です。

2 「国家の象徴」の強制に焦点を当てねばならない

 第2のポイントは、国旗・国歌が「国家の象徴」(国歌と区別するため、適宜、国家をクニと読む。以下、同じ)であることに焦点を当てねばならないことです。「国家の象徴」に関する行為が強制された事件です。これが事件の本質です。
 2011年5月から2012年2月までの一連の最高裁判決は、この本質を無視して、「自己の考えと相容れないからといって職務命令に反した事件」と捉えました。
 たとえば、千葉勝美裁判官補足意見は、「これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり、社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない」と述べています。
 「国家の象徴をめぐる強制」という本質に的確に焦点を当てないと、このようなピント外れの判断になるのです。

3 起立斉唱の強制は「国家の象徴」に対する「敬意表明」の強制

 第3のポイントは、起立斉唱は「国家の象徴」に対する「敬意表明」の行為であること、すくなくともそのような側面をもつ行為であることです。これが強制されているのです。

4 学校の外の一般社会においては起立斉唱を義務付けられることはない

 そして、第4のポイントは、学校の外の一般社会においては、起立斉唱を義務付けられることはないことです。
 原告らが卒業式等に参加しても、保護者としての参加であれば、義務付けはありえません。それでは、なぜ一般社会においては義務付けられないのか。そのことを、ぜひ裁判所にはじっくりお考えいただきたいのです。
 けっして職務命令がないからとか、学習指導要領がないから、などというレベルの話ではないはずです。そうではなく、そのような義務付けが立憲主義に反するからです。
 「国家の象徴」に敬意を表明する行為は、国家そのものに敬意を表明する行為です。「敬意の表明」は国家の権威を承認し受容する行為にほかなりません。国旗・国歌に対する起立斉唱は、その都度、個人が国家の権威を承認し、これを受け容れることになります。
 しかし、憲法は、国家の権威は国民に由来すると宣明しています。国家のために個人があるのではなく、国家が個人のためにあらねばならないこと、国家の主体が国民であることは、わが憲法の根幹をなす基本原理です。
 国家の権威を承認することをその源泉である個人に強制することは憲法的秩序の倒錯であり、立憲民主政の根幹を揺るがす背理であるといわねばなりません。
 国旗・国歌に対する敬意の表明は、一般市民社会において公権力が強制するならば立憲主義に惇る背理となるのです。とうてい憲法の許容するところではありません。
 だからこそ学校の外ではそのような義務づけはおこなわれないのです。
 立憲主義から逸脱する義務づけが、学習指導要領や職務命令や地方公務員法によって正当化されるはずはありません。
 立憲主義に悖る強制は、教育公務員だからといって許容されはしないのです。

5 強制の限界を画した最高裁判決

 第5のポイントは、多数者の意思による個人への強制に限界が存在することが最高裁判例でも明らかにされていることです。
 南九州税理士会事件に関する1996年最高裁第3小法廷判決は、「会員の思想・信条の自由との関係で・・・考慮が必要である」と述べて個人への強制には「おのずから限界がある」と説いています。
 この小法廷判決が依拠する大法廷判決は、団体における個人への義務づけについて「当然、一定の限界が存する」と説いた、1968年12月4日最高裁大法廷判決です。

6 「促すこと」と「強制すること」との隔絶した違い

 第6のポイントは、「促す」ことと「強制」することとの隔絶した違いです。
 先ほどのべた1968年大法廷判決は、「勧告または説得をすることは、・・・(略)・・・当然なし得るところである。しかし、・・・(略)・・・勧告または説得の域を超え、・・・(略)・・・強制し、これに従わないことを理由に・・・(略)・・・処分するがごときは、・・・(略)・・・統制権の限界を超えるものとして、違法といわなければならない」と判示しています。

7 国旗・国歌に対する向き合いかたの強制は行政権限の限界を超える

 第7のポイントです。そもそも、行政の権限はオールマイティーではありません。その権限には憲法の要請からくる内在的な制約が存在します。国旗・国歌という「国家の象徴」にどのように向き合うかは、個人がそれぞれに自身の判断で選択すべき事柄です。一定の方向に強いて、個々人の選択の余地を奪うことは、その内在的制約の限界を超えるといわざるをえません。
 したがって、客観的アプローチの観点から違憲と判断されるべきであると、わたしどもは主張するのです。

8 いまだに最高裁判例はない

 第8のポイントとして強調したいことは、この客観的アプローチの憲法判断に関して、最高裁判例は存在しないということです。
 個人の世界観、歴史観の主観面に焦点を当てた最高裁判決とはまったく別個の判断を、日本国憲法と裁判官の良心に従ってご判断いただくことができる事件です。
 そのことを最後のポイントとして申し上げ、原告らのすべての処分の取り消しを心からお願い申し上げて、弁論を終わります。

以上

 


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