◆ <新元号に異議あり!②>「令」は「大東亜共栄圏」の盟主日本、
「和」は「共栄圏」建設を「以テ世界平和ノ確立ニ寄与セントス」の
侵略正当化論を想起させる!
皆さま 高嶋伸欣です
1 「添付1」にあるように早速『産経』は、「令和」が上から目線でかつてのアジア侵略の責任を棚上げにしてないかとの海外の解釈を誤解とし、それらへの対応の必要性を、官邸や保守派にむけて提起しています。
2 そこで、こちらもその必要性が国内にもあることを示す意味を込めて、政府見解への批判・反論をしていこうと思います。
3 まず「令」は「添付1」(略)にあるように、漢和辞典でも「指示」「命令」などが最初の意味で、何か冷たく心に響くものがない無味乾燥のイメージです。
「良い」「好ましい」はそれらの後ですから、「令」を上から目線のいかにも権力ずくの「国家」「権力」を連想するものという受け止めは当然のことです。
4 それに、「添付2」(略)にあるように、昨日3日の『産経』の「正論」欄では「『令和』の文字に国家を感じた」との見出しの下、・『令和』の御代(みよ)は、不可避的に国家を思う時代になるだろう」と結論づけています。
「令和」に個人よりも国家を意識するという、安倍首相が内心で期待した通りのことを、早くも産経文化人が表明している、と読めます。
5 さらに「添付3」(略)にあるように、1941年12月8日から始まったアジア太平洋戦争では、第2次近衛文麿内閣によって公的に位置づけられた「大東亜共栄圏」建設の大方針の下、日本が盟主として君臨し、「世界平和ノ確立」をめざす、としたことが確認できます。
けれどもその実態は、「共栄圏」内で異議を唱える者の生命や財産を奪いつくし、日本文化を押し付けて人間としての尊厳や民族の誇りを踏みにじる武力と恐怖による支配=平和でしかなかったことが今では明らかで、中学校歴史教科書にも記述されています。
6 シンガポールでは日本軍による侵略開始(12月8日の空爆で犠牲者がでています)から日本軍敗北の45年8月15日までの期間を「暗黒の3年8か月」と表現しています。
さらに国定小学校社会科歴史教科書では、4年生の後期用1冊の大半のページをその学習に当て、同書のタイトルが「The Dark Years」だったのです(2000年~2007年使用)。
7 シンガポールやマレーシアの中国系の人々、それに韓国などで8月15日を「光復節」として祝うのはなぜなのかを考えた時、今の時期に「和」の字を含む元号を定めることに何も躊躇していない日本社会のありように、ため息が出ます。
8 「有識者会議」については、人選で安倍首相が露骨に介入したとか。あの顔ぶれを見た時の違和感は当然だったと、納得がいくと同時に、結局は歴史認識が半人前の首相が元号選びの主導権を握ると視野が狭くなり、独善に陥るという前代未聞の言動をもって、安倍首相は念願の「歴史に名を残すこと」に成功しつつあるようです。
*私には「歴史に悪名を残す」ことになったとしか思えませんが。
9 ともあれ、そうした見せかけの「平和」に苦しめられたアジアの人びとは、「許そう、しかし忘れまい」との気持ちを持ち続けているのです。
10 今も人々は、そのことを語り継いでいます。現地でも世代交代が進んでいます。それなのになぜ「忘れまい」とし、語り継がれるのか。
それは、ことある毎に日本社会が現地の人々の神経を逆なでし、忘れかけていたことをまた思い出させ、次の世代に語らなければという気持ちを広めてきたからです。
1982年夏にはそれまでの10年間、歴史教科書で「侵略」を「進出」に書き換えさせていたことで。
1985年には中曾根首相の靖国公式参拝で。
1991年には、自民党推薦学者の国会でのウソ証言を鵜呑みにした森喜朗議員たちによる第1次教科書議員連盟の圧力で「軍神・東郷平八郎」が小学校歴史教科書すべてに登場させられたことで。
2000年には安倍晋三議員たちを後見とする「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が登場。
2015年には、侵略の事実を認めて謝罪した「村山談話」の否定を主目的とする「安倍談話」の策定を画策。真珠湾訪問や毎年8月15日など節目の時の安倍談話等でも、アジア侵略の事実にさえ触れない安倍首相の言動。
それらをアジアの人々は厳しく見つめているのです。
11 「昭和」は戦前からの継続でやむをえなかったものの、なぜ今回の新規改元でまた「和」の字を用い、なぜ「にせ平和」のことを思い起こさせるのでしょうか。
12 そこには日本国内に、かつて「にせ平和」を「平和」に見せかけて侵略を正当化したという事実についての認識、罪悪感の希薄さがあるように、私には思えます。
13 その証拠の一つが、宮崎県にある「八紘一宇の塔」を「平和の塔」と言い換えて恥じない無神経さです。
14 広島市の宇品港から中心部に向かう幹線道路脇の南区皆実町緑地には、日清戦争勝利を誇る「日清戦争凱旋碑」が今もありますが、名称は「平和の塔」と替えられています。高さ16mの最頂部には翼を広げたトビ(金鵄)が戦時中の金属供出で撤去されることもなく、今も健在です
(ネットで「広島市 平和の塔」の2語で検索して下さい)。
*全国には類似のものがほかにもまだありそうです。
15 そして、今月1日に『朝日新聞』国際面の記事で伝えられたマレーシアでの「事件」です。
「事件」の詳しい内容は「添付4」で読み取って下さい。ことの発端は、開戦から間もない1941年12月13日に、アロースター市内で戦死した日本兵の「慰霊碑」が台座だけ残っていたのを、地元のマレー系住民たちが日本人観光客誘致の目玉にするため、「慰霊碑」の再建をペナンの日本総領事館に依頼し、日本側の援助で実現させたということです。
この地域は中国系住民が少なく、マレー系が圧倒的に多いところです。日本軍がマレー半島中で中国系住民(華僑)を無差別に近いやり方で弾圧、殺害したことでそれらの財産や仕事をやすやすと手に入れて今の生活があるマレー系には、被害者意識が薄く、日本兵の戦死者を「Heroes 英雄」とする英文説明版を立てることに何も躊躇がないのも、当然と思えます。
16 とはいえ、その無神経さには驚かされます。それに、こうした「慰霊碑」で日本人観光客が増えるという期待も、現実離れしています。
安倍政権下の最近の状況に惑わされたのかもしれませんが。
17 上記のような状況について総領事館は「知らなかった」と言い訳をしているようですが、真偽は不明です。公費を支出しながら、説明版について関知していないというのでは無責任過ぎないかという気がします。
18 それとは別に、ここで問題にしたいのは「添付4」(略)の左上に書き出してある「『慰霊碑』側面の銘文」の文面です。
「ここに眠る先人をしのび、平和の思いを込めて」とある部分です(記事の写真から読み取りました)。
「ここに眠る」と言っても、これは「慰霊碑」であって墓ではないはずです。また「先人」と表現しても、「日本兵」であるのは分かっているのですから、日本軍から迫害された人々の眼を逸らそうとするごまかしのように見えます。事実を事実として直視しないのでは「平和の思い」と言われても、空々しいばかりです。
19 戦時中の部隊の同僚兵士たちが建立した(最初の碑がそれに当たるようですが、1942年2月15日のシンガポール制圧まではそうした余裕はないはずです。記事にある「1941年に建設」という地元情報は、戦死の時と混同して言い継がれたもののようです)のであれば、戦死者しか眼中になくてもやむをえません。
けれども、今は戦後74年目です。日本軍の軍事行動に巻き込まれた非戦闘員の住民たちや、集中的に弾圧され殺害された中国系を主とする犠牲者への目配りはないのでしょうか。
20 沖縄でも戦死した日本兵の追悼碑が、都道府県別に沖縄本島の各地に建立されていますが、その碑文では日本軍に虐殺されたり、ガマ(自然洞窟)から追い出されたりした県民犠牲者に言及したものがわずかしかない、と問題にされたのが1970年代です。
21 アジア各地に戦友会が建立した慰霊碑でも同様のことが指摘されてきています。
そうした中で、マレーシアのクワラルンプールの日本人墓地に広島の陸軍第5師団11連隊の戦友会有志が建立(1978年9月)した碑では違っていました。
この碑の背面の銘板には次のように記されています。
「我々は太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と
住民の霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と繁栄を祈る」
*併記された英文では「the spirits of the citizens and soldiers」と、兵士よりも住民を先にしています
22 住民や敵方の兵士にも目配りをしているこの碑文の「平和」は、本来の意味で用いられていると読めます。
第5師団は、いわゆる「敵性華僑狩り」の命令書を発して、マレー半島中で中国系住民(華僑)を殺害した主力部隊です。
その部隊の戦友会が、日本人墓地内の慰霊碑ではあるものの、1978年の段階でこうした文言を記していることに、私たちは何か救われる思いをもったものでした。
*詳しくは、拙著(共著)『ガイドにないアジアを歩く マレーシア 増補改訂版』(梨の木舎・2018年)を参照してください。
23 それに引きかえ、今回のアロースターの新たな碑文の「平和」は、いかにも外交官による官僚的な表現ですし、白々しい印象を強く与えます。
24 日本の政治家や官僚が見せかけの「平和」を語る時、それはアジアの人々にとっては、12月8日からの新たな侵略行為を「世界平和の確立のため」と詐称した時の「平和」言辞を思い起こさせ、胡散臭いものでもあります。
*このことを、日本の社会とりわけ報道・言論さらには研究・教育の関係者は機会ある毎に指摘するかどうか、近隣諸国の人々が注目しているように、私には思えてなりません。
25 今年5月1日から始まる「令和」の時代何十年間か、「令和○○年」という度に、「日本は開戦を『大東亜共栄圏による平和確立のため』と主張したこと」を海外、特に近隣諸国の人々に思い起こさせ、言い訳けにこれからの若い世代が追い込まれることになりはしないでしょうか。
26 安倍首相は新元号によって「希望に満ちあふれた新しい時代を、国民の皆さまとともに切り拓いていく」決意だと強調していますが、私には選りによって若い世代に重荷を負わせる年号をわざわざ選んでしまった、のではないかと思えます。
27 東南アジアや韓国などに知人のいる皆さんには、こうした問題認識の仕方について、機会があれば感想・意見等を尋ねて頂けると有り難いです。
以上 今回も長文なってしまいました。すべて高嶋の私見です。
分析は高嶋です。 拡散・転送は自由です
「和」は「共栄圏」建設を「以テ世界平和ノ確立ニ寄与セントス」の
侵略正当化論を想起させる!
皆さま 高嶋伸欣です
1 「添付1」にあるように早速『産経』は、「令和」が上から目線でかつてのアジア侵略の責任を棚上げにしてないかとの海外の解釈を誤解とし、それらへの対応の必要性を、官邸や保守派にむけて提起しています。
2 そこで、こちらもその必要性が国内にもあることを示す意味を込めて、政府見解への批判・反論をしていこうと思います。
3 まず「令」は「添付1」(略)にあるように、漢和辞典でも「指示」「命令」などが最初の意味で、何か冷たく心に響くものがない無味乾燥のイメージです。
「良い」「好ましい」はそれらの後ですから、「令」を上から目線のいかにも権力ずくの「国家」「権力」を連想するものという受け止めは当然のことです。
4 それに、「添付2」(略)にあるように、昨日3日の『産経』の「正論」欄では「『令和』の文字に国家を感じた」との見出しの下、・『令和』の御代(みよ)は、不可避的に国家を思う時代になるだろう」と結論づけています。
「令和」に個人よりも国家を意識するという、安倍首相が内心で期待した通りのことを、早くも産経文化人が表明している、と読めます。
5 さらに「添付3」(略)にあるように、1941年12月8日から始まったアジア太平洋戦争では、第2次近衛文麿内閣によって公的に位置づけられた「大東亜共栄圏」建設の大方針の下、日本が盟主として君臨し、「世界平和ノ確立」をめざす、としたことが確認できます。
けれどもその実態は、「共栄圏」内で異議を唱える者の生命や財産を奪いつくし、日本文化を押し付けて人間としての尊厳や民族の誇りを踏みにじる武力と恐怖による支配=平和でしかなかったことが今では明らかで、中学校歴史教科書にも記述されています。
6 シンガポールでは日本軍による侵略開始(12月8日の空爆で犠牲者がでています)から日本軍敗北の45年8月15日までの期間を「暗黒の3年8か月」と表現しています。
さらに国定小学校社会科歴史教科書では、4年生の後期用1冊の大半のページをその学習に当て、同書のタイトルが「The Dark Years」だったのです(2000年~2007年使用)。
7 シンガポールやマレーシアの中国系の人々、それに韓国などで8月15日を「光復節」として祝うのはなぜなのかを考えた時、今の時期に「和」の字を含む元号を定めることに何も躊躇していない日本社会のありように、ため息が出ます。
8 「有識者会議」については、人選で安倍首相が露骨に介入したとか。あの顔ぶれを見た時の違和感は当然だったと、納得がいくと同時に、結局は歴史認識が半人前の首相が元号選びの主導権を握ると視野が狭くなり、独善に陥るという前代未聞の言動をもって、安倍首相は念願の「歴史に名を残すこと」に成功しつつあるようです。
*私には「歴史に悪名を残す」ことになったとしか思えませんが。
9 ともあれ、そうした見せかけの「平和」に苦しめられたアジアの人びとは、「許そう、しかし忘れまい」との気持ちを持ち続けているのです。
10 今も人々は、そのことを語り継いでいます。現地でも世代交代が進んでいます。それなのになぜ「忘れまい」とし、語り継がれるのか。
それは、ことある毎に日本社会が現地の人々の神経を逆なでし、忘れかけていたことをまた思い出させ、次の世代に語らなければという気持ちを広めてきたからです。
1982年夏にはそれまでの10年間、歴史教科書で「侵略」を「進出」に書き換えさせていたことで。
1985年には中曾根首相の靖国公式参拝で。
1991年には、自民党推薦学者の国会でのウソ証言を鵜呑みにした森喜朗議員たちによる第1次教科書議員連盟の圧力で「軍神・東郷平八郎」が小学校歴史教科書すべてに登場させられたことで。
2000年には安倍晋三議員たちを後見とする「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が登場。
2015年には、侵略の事実を認めて謝罪した「村山談話」の否定を主目的とする「安倍談話」の策定を画策。真珠湾訪問や毎年8月15日など節目の時の安倍談話等でも、アジア侵略の事実にさえ触れない安倍首相の言動。
それらをアジアの人々は厳しく見つめているのです。
11 「昭和」は戦前からの継続でやむをえなかったものの、なぜ今回の新規改元でまた「和」の字を用い、なぜ「にせ平和」のことを思い起こさせるのでしょうか。
12 そこには日本国内に、かつて「にせ平和」を「平和」に見せかけて侵略を正当化したという事実についての認識、罪悪感の希薄さがあるように、私には思えます。
13 その証拠の一つが、宮崎県にある「八紘一宇の塔」を「平和の塔」と言い換えて恥じない無神経さです。
14 広島市の宇品港から中心部に向かう幹線道路脇の南区皆実町緑地には、日清戦争勝利を誇る「日清戦争凱旋碑」が今もありますが、名称は「平和の塔」と替えられています。高さ16mの最頂部には翼を広げたトビ(金鵄)が戦時中の金属供出で撤去されることもなく、今も健在です
(ネットで「広島市 平和の塔」の2語で検索して下さい)。
*全国には類似のものがほかにもまだありそうです。
15 そして、今月1日に『朝日新聞』国際面の記事で伝えられたマレーシアでの「事件」です。
「事件」の詳しい内容は「添付4」で読み取って下さい。ことの発端は、開戦から間もない1941年12月13日に、アロースター市内で戦死した日本兵の「慰霊碑」が台座だけ残っていたのを、地元のマレー系住民たちが日本人観光客誘致の目玉にするため、「慰霊碑」の再建をペナンの日本総領事館に依頼し、日本側の援助で実現させたということです。
この地域は中国系住民が少なく、マレー系が圧倒的に多いところです。日本軍がマレー半島中で中国系住民(華僑)を無差別に近いやり方で弾圧、殺害したことでそれらの財産や仕事をやすやすと手に入れて今の生活があるマレー系には、被害者意識が薄く、日本兵の戦死者を「Heroes 英雄」とする英文説明版を立てることに何も躊躇がないのも、当然と思えます。
16 とはいえ、その無神経さには驚かされます。それに、こうした「慰霊碑」で日本人観光客が増えるという期待も、現実離れしています。
安倍政権下の最近の状況に惑わされたのかもしれませんが。
17 上記のような状況について総領事館は「知らなかった」と言い訳をしているようですが、真偽は不明です。公費を支出しながら、説明版について関知していないというのでは無責任過ぎないかという気がします。
18 それとは別に、ここで問題にしたいのは「添付4」(略)の左上に書き出してある「『慰霊碑』側面の銘文」の文面です。
「ここに眠る先人をしのび、平和の思いを込めて」とある部分です(記事の写真から読み取りました)。
「ここに眠る」と言っても、これは「慰霊碑」であって墓ではないはずです。また「先人」と表現しても、「日本兵」であるのは分かっているのですから、日本軍から迫害された人々の眼を逸らそうとするごまかしのように見えます。事実を事実として直視しないのでは「平和の思い」と言われても、空々しいばかりです。
19 戦時中の部隊の同僚兵士たちが建立した(最初の碑がそれに当たるようですが、1942年2月15日のシンガポール制圧まではそうした余裕はないはずです。記事にある「1941年に建設」という地元情報は、戦死の時と混同して言い継がれたもののようです)のであれば、戦死者しか眼中になくてもやむをえません。
けれども、今は戦後74年目です。日本軍の軍事行動に巻き込まれた非戦闘員の住民たちや、集中的に弾圧され殺害された中国系を主とする犠牲者への目配りはないのでしょうか。
20 沖縄でも戦死した日本兵の追悼碑が、都道府県別に沖縄本島の各地に建立されていますが、その碑文では日本軍に虐殺されたり、ガマ(自然洞窟)から追い出されたりした県民犠牲者に言及したものがわずかしかない、と問題にされたのが1970年代です。
21 アジア各地に戦友会が建立した慰霊碑でも同様のことが指摘されてきています。
そうした中で、マレーシアのクワラルンプールの日本人墓地に広島の陸軍第5師団11連隊の戦友会有志が建立(1978年9月)した碑では違っていました。
この碑の背面の銘板には次のように記されています。
「我々は太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と
住民の霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と繁栄を祈る」
*併記された英文では「the spirits of the citizens and soldiers」と、兵士よりも住民を先にしています
22 住民や敵方の兵士にも目配りをしているこの碑文の「平和」は、本来の意味で用いられていると読めます。
第5師団は、いわゆる「敵性華僑狩り」の命令書を発して、マレー半島中で中国系住民(華僑)を殺害した主力部隊です。
その部隊の戦友会が、日本人墓地内の慰霊碑ではあるものの、1978年の段階でこうした文言を記していることに、私たちは何か救われる思いをもったものでした。
*詳しくは、拙著(共著)『ガイドにないアジアを歩く マレーシア 増補改訂版』(梨の木舎・2018年)を参照してください。
23 それに引きかえ、今回のアロースターの新たな碑文の「平和」は、いかにも外交官による官僚的な表現ですし、白々しい印象を強く与えます。
24 日本の政治家や官僚が見せかけの「平和」を語る時、それはアジアの人々にとっては、12月8日からの新たな侵略行為を「世界平和の確立のため」と詐称した時の「平和」言辞を思い起こさせ、胡散臭いものでもあります。
*このことを、日本の社会とりわけ報道・言論さらには研究・教育の関係者は機会ある毎に指摘するかどうか、近隣諸国の人々が注目しているように、私には思えてなりません。
25 今年5月1日から始まる「令和」の時代何十年間か、「令和○○年」という度に、「日本は開戦を『大東亜共栄圏による平和確立のため』と主張したこと」を海外、特に近隣諸国の人々に思い起こさせ、言い訳けにこれからの若い世代が追い込まれることになりはしないでしょうか。
26 安倍首相は新元号によって「希望に満ちあふれた新しい時代を、国民の皆さまとともに切り拓いていく」決意だと強調していますが、私には選りによって若い世代に重荷を負わせる年号をわざわざ選んでしまった、のではないかと思えます。
27 東南アジアや韓国などに知人のいる皆さんには、こうした問題認識の仕方について、機会があれば感想・意見等を尋ねて頂けると有り難いです。
以上 今回も長文なってしまいました。すべて高嶋の私見です。
分析は高嶋です。 拡散・転送は自由です
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