《被処分者の会通信》
◆ 学校に咲かせちゃならぬ鬼百合子の花
「ハンア・アーレントが好き」と気取っていた舛添知事は、自らの凡庸さに気づくのが遅れて知事室を追われた。
2015年度からの新教育委員会制度では首長が教育施策大綱を策定するため、小池百合子新知事は昨年10月と12月に総合教育会議を開催した。傍聴定員20人のところ、第1回は15人、第2回は11人。
日本会議国会議員懇談会副会長だった知事が、本領を発揮するのは夏の都議選後になるのか、大綱案の大筋は舛添大綱を継承している。
「日本人としての規範意識」「礼節を重んじる日本人の伝統…海外でも高く評価され」等々、それって何?学問的裏付けはあるの?と、ツッコミたくなる文言は多いが、以前の大綱も同じようなものだった。
11月末までパブコメを募集していたので、大綱案骨子を読んでみた。副題は「~東京の輝く未来を創造する教育の実現に向けて~」。
第1章は「東京の将来像と子供たちの目指すべき姿」。
えっ、子どもは東京を輝かせるための道具!?子どもがどんな姿を目指すかまで、行政が勝手に決めていいの?
「こういうことを堂々と書いてしまう感覚が恐ろしい」とパブコメに書いたが、12月に公表された大綱案でも副題は変わらず。
第1章は「…目指すべき子供たちの姿」と、語順を入れ替えていた。誰が「目指すべき」なのかがはっきりしない変な日本語だ。
本文には「これからの社会が必要とする人材」「東京の未来を担って激動する世界の中で活躍できる人材」「東京の成長を支えるイノベーションを生み出す人材」と、東京(株)の求人広告のような言葉が並ぶ。
骨子案の「国際感覚を醸成する取り組み」の部分は、前後の文章は舛添大綱のままなのに、「多様な文化や考え方に触れ、相手の考えを尊重する態度」という文言だけが落ちていた。
小池カラー発見!かと思ったが、12月の大綱案では復活。では、なぜ初めは消したのか。
長い文章を縮めただけか、それとも、誰も気づかなければ消してしまいたかったのか。
小学校での英語教科化は18年度に先行実施するそうだが、高校の現場にすぐに押し寄せてくる変化は、オリンピック・パラリンピック教育がらみのボランティア活動の単位認定推進と、都独自の給付型奨学金(都立高生への支援ではなく、公私間の競争激化か?)あたりだろう。
遠藤教育委員は「低所得者層に手厚い制度にしてほしい」と発言。それを言うなら、日本学生支援機構理事長として、アコギな貸金取り立てを止めてほしい。
12月の会議で最も興味深かったのは中井教育長の発言。重要項目に「学校力・教師力の強化」が加わったことを画期的と評し、教員の長時間勤務、応募倍率の低下、管理職試験の倍率の低さ、子どもとの触れ合いにやり甲斐を感じ管理職になりたがらない教員の傾向や、定年後の再任用で管理職人事をやり繰りしている実情を率直に語った。
「(副校長の)職としての魅力づくりが必要」と言うが、本気でそう考えるなら、管理職の裁量を大幅に認めることが第一。都教委の下請けとなって、数値化できる結果を出すことにひたすら努める仕事は、いくら管理職手当を増やしても魅力が乏しすぎる。
この日、知事は「子供たちの将来の可能性を限りなく引き出す教育は、子供の夢・希望の源。全ての子どもが充実した人生を歩めるようにしたい」と述べた。
夢や希望は一人一人違うもの。それぞれが自分のペースで育むもの。くれぐれも、“世界の情報と金融の中心で輝く東京”という知事の夢で、子どもたちを押し潰さないでほしい。
尚、大綱案はそのまま正式な教育施策大綱として1月20日に発表された。(吉野典子)
『被処分者の会通信 第109号』(2017.1.24)
◆ 学校に咲かせちゃならぬ鬼百合子の花
「ハンア・アーレントが好き」と気取っていた舛添知事は、自らの凡庸さに気づくのが遅れて知事室を追われた。
2015年度からの新教育委員会制度では首長が教育施策大綱を策定するため、小池百合子新知事は昨年10月と12月に総合教育会議を開催した。傍聴定員20人のところ、第1回は15人、第2回は11人。
日本会議国会議員懇談会副会長だった知事が、本領を発揮するのは夏の都議選後になるのか、大綱案の大筋は舛添大綱を継承している。
「日本人としての規範意識」「礼節を重んじる日本人の伝統…海外でも高く評価され」等々、それって何?学問的裏付けはあるの?と、ツッコミたくなる文言は多いが、以前の大綱も同じようなものだった。
11月末までパブコメを募集していたので、大綱案骨子を読んでみた。副題は「~東京の輝く未来を創造する教育の実現に向けて~」。
第1章は「東京の将来像と子供たちの目指すべき姿」。
えっ、子どもは東京を輝かせるための道具!?子どもがどんな姿を目指すかまで、行政が勝手に決めていいの?
「こういうことを堂々と書いてしまう感覚が恐ろしい」とパブコメに書いたが、12月に公表された大綱案でも副題は変わらず。
第1章は「…目指すべき子供たちの姿」と、語順を入れ替えていた。誰が「目指すべき」なのかがはっきりしない変な日本語だ。
本文には「これからの社会が必要とする人材」「東京の未来を担って激動する世界の中で活躍できる人材」「東京の成長を支えるイノベーションを生み出す人材」と、東京(株)の求人広告のような言葉が並ぶ。
骨子案の「国際感覚を醸成する取り組み」の部分は、前後の文章は舛添大綱のままなのに、「多様な文化や考え方に触れ、相手の考えを尊重する態度」という文言だけが落ちていた。
小池カラー発見!かと思ったが、12月の大綱案では復活。では、なぜ初めは消したのか。
長い文章を縮めただけか、それとも、誰も気づかなければ消してしまいたかったのか。
小学校での英語教科化は18年度に先行実施するそうだが、高校の現場にすぐに押し寄せてくる変化は、オリンピック・パラリンピック教育がらみのボランティア活動の単位認定推進と、都独自の給付型奨学金(都立高生への支援ではなく、公私間の競争激化か?)あたりだろう。
遠藤教育委員は「低所得者層に手厚い制度にしてほしい」と発言。それを言うなら、日本学生支援機構理事長として、アコギな貸金取り立てを止めてほしい。
12月の会議で最も興味深かったのは中井教育長の発言。重要項目に「学校力・教師力の強化」が加わったことを画期的と評し、教員の長時間勤務、応募倍率の低下、管理職試験の倍率の低さ、子どもとの触れ合いにやり甲斐を感じ管理職になりたがらない教員の傾向や、定年後の再任用で管理職人事をやり繰りしている実情を率直に語った。
「(副校長の)職としての魅力づくりが必要」と言うが、本気でそう考えるなら、管理職の裁量を大幅に認めることが第一。都教委の下請けとなって、数値化できる結果を出すことにひたすら努める仕事は、いくら管理職手当を増やしても魅力が乏しすぎる。
この日、知事は「子供たちの将来の可能性を限りなく引き出す教育は、子供の夢・希望の源。全ての子どもが充実した人生を歩めるようにしたい」と述べた。
夢や希望は一人一人違うもの。それぞれが自分のペースで育むもの。くれぐれも、“世界の情報と金融の中心で輝く東京”という知事の夢で、子どもたちを押し潰さないでほしい。
尚、大綱案はそのまま正式な教育施策大綱として1月20日に発表された。(吉野典子)
『被処分者の会通信 第109号』(2017.1.24)
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