◎ Is the protection of "public welfare"
an inherent and justified restriction on the right to freedom of expression?
an inherent and justified restriction on the right to freedom of expression?
◎ 意見
筆者の意見を誠実に述べれば、日本の関係当局が弁護団の主張を却下し、公共の福祉の保護を理由に被告の有罪判決が憲法21条違反にあたらないと判断したことは、国連自由権規約のもとで守るべき義務を果たしていないと言わざるをえない。被告を有罪とし、その有罪判決を支持した日本の司法当局は自由権規約第19条が保障する表現の自由の権利を侵害したのである。
単に、事実が違法行為に相当し「社会通念上」許されるものではないと再確認するだけでは、最高裁が本件を全体的に考慮した上で被告人の有罪成立が民主主義社会にとって必要であることを十分にかつ適切に正当化している、とは言えない。
最高裁はこの問題に関して同裁判所判例を幾つか示しているが、そのことは、なぜ本件において被告の刑法上の有罪成立が彼の表現の自由の権利に対する干渉として必要なのか、という議論にはまったく関連性がないのである。
(昭和23年(れ)第1308号同24年5,月18日大法廷判決・刑集3巻6号839頁,昭和24年(れ)第2591号同25年9月27日大法廷判決・刑集4巻9号1799頁,昭和42年(あ)第1626号同45年6月17日大法廷判決・刑集24巻6号280頁。および最高裁昭和59年(あ)第206号同年12月18日第三小法廷判決・刑集38巻12号3026頁参照)。
2011.7.7の判決において最高裁は「表現の自由は、民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならない」ことを認めてはいるが、その自由に関しても「公共の福祉のため必要かつ合理的」な制限や制約の必要性のみに焦点をあてている。しかしながら、「公共の福祉のために合理的」であるだけでは、表現の自由の権利への干渉を正当化するための十分な理由にはなりえない。
自由権規約第19条に照らせば、公の論議の的となる問題に関連する情報や考えを表現し公表することを有罪とみなすことが最終的に正当化されうるのは、唯一、そのような干渉が民主主義社会にとって「必要な」場合に限られる。
実際、最高裁は「被告人の本件行為は,その場の状況にそぐわない不相当な態様で行われ,静穏な雰囲気の中で執り行われるべき卒業式の円滑な遂行に看過し得ない支障を生じさせた」と繰り返し述べているが、本件における有罪成立の必要性についてはその理由を十分説明(証明)していない。最高裁は被告人の行為が「社会通念上許されず」、従って、「明らか」に刑事罰に処すべき違法な行為を伴うと判断している。
言いかえれば、「許されない」そして「違法な行為」は、表現の自由の権利という文脈(背景)を考慮することもなく、さらには、この文脈における刑法234条適用の必要性を考慮することもないまま、ただそれだけで(本質的に)、刑事上の有罪成立を十分に正当化できるわけではないのである。そのようなアプローチや論法は自由権規約第19条の効力と拘束力を無視するものと言える。
第一に、自由権規約第19条の範囲によれば(国連人権委員会、一般的意見34、2011年)、表現の自由に関する制約および制限は、十分な明確性をもち、かつ狭義に解釈されるものでなければならない。一方、制約もしくは制裁が「公共の福祉のために合理的」であることは、過度に曖昧で恣意的な適用の可能性が大きすぎるため、この条件を満たさない。
以前から国連人権委員会はその総括所見の中で、日本は、特にリーフレット配布に関連して、「表現の自由の権利の尊重に関して法律や判決の中には制限的なアプローチ」をとっているものがあるようだと、批判的に述べている。
2008年の同委員会の総括所見は以下のとおりである:
10.委員会は、「公共の福祉」が、恣意的な人権制約を許容する根拠とはならないという締約国の説明に留意する一方、「公共の福祉」の概念は、曖昧で、制限がなく、規約の下で許容されている制約を超える制約を許容するかもしれないという懸念を再度表明する。(第2条)国連人権委員会は以下のように勧告した:
締約国は、「公共の福祉」の概念を定義し、かつ「公共の福祉」を理由に規約で保障された権利に課されるあらゆる制約が規約で許容される制約を超えられないと明記する立法措置をとるべきである。さらに、藤田氏が卒業式開始前に、大声であったとしても、自らの意見を表明し、リーフレットを配布したことにより有罪判決をうけた行為は、本来、自由権規約第19条により保護されるべき行為と見なされなければならない。
藤田氏が表現し伝えた考えや情報の内容は、論争の的となっていた卒業式等の学校行事における国旗敬礼と国歌斉唱の強制を批判するものであり、それは社会にとって重要な議論に貢献するものである。
強調すべき点は、自由権規約第19条第1項は干渉されることなく意見を持つ権利の保護を要求することである。
この権利は、規約がいかなる例外も制約も許さない権利である。何らかの意見を持つこと、あるいは持たないことを強制するいかなる形態の働きかけも禁止される(国連人権委員会、一般的意見34、パラ9参照)。意見を表現する自由は必然的に意見を表現しない自由をも含む。
しかし、卒業式等の学校行事に教職員が国旗に起立正対し国歌を斉唱することを強制する東京都教育委員会の通達(以後10.23通達)は、当局が教職員や生徒に一定の意見を強制するものであり、上記の禁止される働きかけと見なされる可能性がある。
10.23通達に反対する人々によれば、国旗である「日の丸」および国歌としての「君が代」は、愛国主義的、もしくは超国家主義的価値観を表すものであり、教育環境(学校教育)の中で強制的に押し付けてはならないという。
被告の目的は、教員や生徒に起立・国歌斉唱を強制することは重大な問題をもたらし、憲法や規約第19条に保障される思想・良心の自由の権利を侵害するものであることを保護者に知らせることであった。
こうした考え方は公の議論の中で存在価値があり、規約第19条により保護されるべきであるということは、2011年6月6日最高裁判決中の宮川光治裁判官による反対意見からも引き出すことができる。
宮川裁判官はその反対意見の中で都教委による通達および通達に基づく校長による職務命令は「教職員の思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することになり,憲法19条(思想及び良心の自由)に違反する可能性がある」という考えを表明している(参照:最高裁平成22年(オ)第951号同23年6月6日第一小法廷判決・裁判所時報1533号3頁における宮川裁判官反対意見)。
次の点を強調することもまた重要である。すなわち、表現の自由の権利には攻撃的で不快な考えや意見を表明する権利も含まれる。
これがまさに規約第19条が保護しようとする権利のエッセンスである:激しいスピーチ(robust speech)、つまり、平穏な状況を乱しかねないような考えの表明もまた規約19条の保護の範囲内にある。
意見を持つ自由と表現の自由は、実に、全ての人の完全な発達にとって欠かせない条件であり、自由で民主的な社会にとって不可欠なものである。
これら二つの自由は密接に関連し合い、表現の自由が意見の交換と発展のための伝達手段を提供する(国連人権委員会、一般的意見34、パラ2および11)。規約第19条によって保障される保護は、第19条第3項および第20条の規定に則している限り、他者に伝達可能なあらゆる形態の考えおよび意見の伝達を表明し受け取ることを含む。それには、特に、政治的談話、公の関心事に関する論評、選挙運動および人権問題に関する議論が含まれる(国連人権委員会、一般的意見34、パラ2および11)。
社会にとって重要な問題に関する国民的議論においては、不快な、あるいは不穏な考えや情報の表現が混乱を生じさせる特徴(disruptive character)をもつこともしばしばある。
個人に対する暴力も財産の破壊も伴わないような、不快で批判的な意見表明による異議申し立ての行為やビラ配布を犯罪行為とみなすことは、規約第19条によって保障される保護を無視することになる。実際、公の場所におけるデモ、もしくはイべントにおける行動や会合でのリーフレット配布は、どのようなものであっても必然的に日常生活をある程度妨げることになる。
規約19条によって保障される表現の自由および平和的異議申し立ての自由が実質的な意味(substance)を失わないためには、当局が平和的集会および平和的形態の抗議に対して一定の寛容性を示すことが重要となる。
この観点からすれば、ある人が単に、公衆の前で「その場の状況にそぐわない不相応な態様で」意見を表明し、「静穏な雰囲気の中で執り行われるべき卒業式の円滑な遂行に」支障を生じさせたとして、締約国がその人を起訴し有罪にすることは許されない(2011年7月7日最高裁判決)。
そのような文脈において被告が情報や考えを表明し伝える権利を行使したことに有罪成立を認めることは、当局による抑圧的で不均衡な干渉であり、この平穏な形態の異議申し立てに対して十分な寛容さを示していないと考えられる。
そのようなやり方は,関係者及び他の人々の表現の自由の行使を不当に制限する事につながる萎縮効果を生み出す。(「委縮効果」概念に関しては、国連人権委員会、一般的意見34、パラ47も参照のこと)。
表現と情報の自由に関する国際人権基準の観点から考えると、藤田氏に対する有罪判決と制裁は、被告のみならず、10.23通達の強制的性格、すなわち、都立学校の全ての教職員に日の丸に起立して君が代を斉唱せよという強制に反対する他の人々の表現の自由の権利に対して「委縮効果」をもたらしていることに、疑いの余地はない。
最も重要なことは、被告が体育館で待っていた保護者に意見を述べる間、被告の行為には無秩序や暴力を引き起こすような危険性を示す徴候はまったくみられなかったことである。
本件の記録書類、ならびに地裁および東京高裁の判決から判断して、藤田氏の抗議は全く平穏なものと見なす他なく、彼が式に参列していた人々を著しく妨害した、もしくは妨害する意図があった、または式の参列者を挑発して暴力や治安の妨害、もしくは、公の秩序の侵害を引き起こそうとする他のなんらかの行動をとった、とみなす理由は何一つない。
藤田氏の行為が「威力を用いて他人の業務を妨害し」、「卒業式の円滑な遂行に看過し得ない支障を生じさせた」とする日本の裁判所の認定(参照:2011年7月7日最高裁判決最高裁判決)は、式開始の15分以上も前に保護者にリーフレットを配布し意見を述べようと前に進み出た彼の言葉による平穏な抗議という事実要素とその性質を、明らかに誇張するものである。
都立板橋高校の校長は卒業式に責任を負う立場にあり、式の円滑な進行を確保するために適切な行動をとる権利があったと考えられる。被告が卒業式の開始を待っている保護者に対して語りかけていたとき、そして被告が来るべき卒業式のある具体的場面を批判するリーフレットを配布している間、式担当者達は彼の行動が卒業式の円滑な遂行を妨げる可能性があると推測する立場にあったと判断できる。
校長が被告にリーフレット配布をやめて待機中の保護者への語りかけを中止して着席するよう勧めることこそ、校長が被告の表現の自由を制限する適切で正当な行動であると考えられる。最終的には、校長が被告を卒業式会場である体育館から退場させようとしてとった行動にも同じことが言えるよう。
しかしながら、その後に行われた刑事起訴、および被告に対する刑法234条による威力業務妨害罪の判決はもちろん、不必要で不均衡な制裁であり、自由権規約第19条による国際人権基準の侵害である。
(続)
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