ここに掲載するのはウォールストリートジャーナル電子版12月12日号に載ったYuka Hayashi氏の記事です。「安倍首相が受け継いだ『家業』―祖父の志を果たせるか」と題するこの論文は安倍晋三氏と岸信介元首相の関係をよく描いていると思い、ここに紹介します。もちろんこの中には私と意見を異にする部分もありますが、比較的客観的に描かれているので、批判的に読めば安倍首相の特異な歴史観の由来を考える上で役に立つと思います。すこし長い記事ですがお役にたてばと思います。
安倍首相が受け継いだ「家業」―祖父の志を果たせるか
安倍晋三首相はまだ小さな子供だった55年前、祖父の膝の上に座り、通りから伝わる人々の抗議の声を聞いていたことを覚えている。第2次世界大戦後の日本に軍備を再建しようとしていた祖父に対する抗議だったと安倍首相は振り返る。その安保闘争の直後、祖父の岸信介氏は首相の職を辞した。岸氏の志が果たされることはなかった。
そして今、ここ数年で最も盤石な政権の座に就いている安倍首相は祖父が果たせなかった志の一部を果たそうとしている。
14日の衆議院選挙では安倍首相の圧勝が予想されている。この衆院選はいわゆる「アベノミクス」として知られる安倍首相の積極的な経済刺激策の是非を問う国民投票だと広くとらえられている。
だが同時に安倍首相と、評価の分かれる祖父との関係も背景に見え隠れする。岸氏は生粋のナショナリストであり、日本を世界的な強大国にし、戦争で失われた名誉を回復したいと望んでいた。
岸氏は1930年代から40年代にかけて大日本帝国時代の戦時体制の構築に関わったとしてA級戦犯被疑者となり、拘置所に収監されたものの、起訴されることはなかった。
岸氏は中国北部の石炭資源が豊富で豊かな農地が広がる満州を日本が占領下に収めて統治していた当時、要職に就いていた。歴史家によると、岸氏はそこで日本の成長促進のために徴用された中国人労働者や中国の天然資源の利用を基にした経済体制を監督する立場にあった。
その後1950年代に首相に就任すると、岸氏は第2次大戦後に米国政府によって押し付けられた日本国憲法の改正を目指した。憲法には軍国主義の放棄が謳われているが、憲法改正の発議要件などを問題視する安倍首相も憲法改正を望んでいる。
祖父の政策と野心の復活を目指す安倍首相は有権者の一部に警戒感を与えてきた。日本との関係がここ数年で悪化してきた中国政府の否定的な反応が特にその背景にある。
東京大学の名誉教授で、「岸信介の回想」の著者でもある歴史学者の伊藤隆氏は「(岸氏と安倍氏は)言っていることが同じだ。憲法改正と再軍備。それが終局的な狙いだ」と話す。
安倍首相はスピーチやフェイスブックの書き込みで頻繁に祖父に触れている。首相は2006年の著書「美しい国へ」の中で、祖父が「A級戦犯」で「保守反動の権化」と呼ばれるのを聞いて育ったと書いている。「その反発から“保守”という言葉に逆に親近感をおぼえたのかもしれない」とも述べている。安倍首相に取材を申し込んだが応じなかった。
中国の歴史家たちは、岸氏の過去の暗い側面に焦点を当てている。日本の統治下にあった「満州国」で経済の中心地だった中国北東部の都市、瀋陽にはその時代に関する博物館があり、岸氏の肖像写真が日本の統治政権の他のトップらと共に目立つように展示されている。
中国の歴史家たちは満州に駐留していた日本軍が強制売春から即決処刑、化学兵器の人体実験などにいたるまで、さまざまな罪を犯したと主張する。
吉林省社会科学院の研究員で満州の日本統治時代について最も良く知られた論客でもある王慶祥氏は「(岸氏の)犯罪行為は天まで積み上がっている。本物の悪魔だ」と言う。
日本人の多くはそうした中国側の主張は誤りであり、誇張されていると考えている。国際的な歴史学者の大半も、満州での残虐行為で岸氏が直接的な役割を果たした可能性は低いと述べている。それでも、産業部次長という肩書きを考慮すると、岸氏も責任の一部を負うべきだと考える人も多い。岸氏はそうした行為の責任は軍の高官にあると非難した。
安倍首相は、岸氏に対するこうした歴史的な批判を一蹴している。その根拠として、岸氏がのちの戦犯に関する調査で容疑者にこそなったが、起訴されていないことを挙げている。
だがそのことは、安倍首相による昨年の靖国神社参拝でさらに冷え切った中国との関係緩和にはほとんど役立っていない。靖国神社には大勢の戦争の犠牲者と共に、1940年代に岸氏と一緒に収監されていた人々を含むA級戦犯たちが合祀されている(ただし岸氏は祀られていない)。最近の日中首脳会談では安倍首相と握手を交わした中国の習近平国家主席のしかめ面が印象的だった。
安倍首相はいくつかの政策で祖父とは意見を違えていることを明確にしている。岸氏は日本の産業を盛り上げるために政府による手厚い介入を支持したが、アベノミクスは農業などの分野の規制緩和を重視している。
学問に優れ、人脈作りに長けた社交的な人物だった岸氏と安倍首相とでは、そのスタイルも異なっている。安倍首相は祖父に比べて内向的で、余暇時間の多くをジムで過ごしている。
とはいえ、経済分野でさえ、両者の政策は重なるところが多い。アベノミクスは企業に賃上げや女性を昇進させるための人数割当制の導入を促すなど、政府が民間部門に介入することを許している。外交的影響力を強めるために日本経済を復興させるというより広範な目標は、岸氏の作戦計画書からそのまま引用したようなものだ。
また、この2人ほど自衛隊の活動範囲拡大のために憲法改正を強く推進した日本の指導者は他にいない。岸氏が首相だった戦後まもない当時は急進的な考えだったが、現在は中国の影響力を抑えるための手段として米国政府さえ支持している。現在、日本の自衛隊の活動は自己防衛に限定されている。
昨年、2020年のオリンピックを東京に招致するためのロビー活動の中で、安倍首相は自身の祖父が顧問として1964年の東京オリンピックの成功に貢献したということを国際オリンピック委員会のメンバーたちに告げた。ワシントンではオバマ大統領にゴルフのパターをプレゼントし、岸氏がかつてアイゼンハワー元大統領とゴルフをしたエピソードを話した。
今年9月にスリランカを訪問した際には、岸氏が数十年前に同国を訪問したという事実を強調し、「孫である私は、祖父から渡された友情のバトンをしっかりと受け止め、スリランカとの素晴らしい関係を更に発展させていきたい」と約束した。
14日の衆院選へ向けた安倍首相のスローガンもまた、間接的に岸氏を想起させる。2007年のエッセイで安倍首相は祖父が意欲的に前へ進んだことを称え、「この道に間違いはないという信念、たとえ多くが反対しようとも 日本と国民を守るという断固たる使命感があったからこそ、これを実現できた」と記している。安倍首相の選挙スローガンは「この道しかない」である。
内閣官房副長官で安倍首相の側近でもある世耕弘成氏はこのスローガンについて「景気回復ということだけでなく、安全保障政策の転換から教育の改革(など)自分の正しいと信じている道を突き進んでいくということの決意の表れだ」と話す。
世耕氏によると、岸氏は現役当時には不人気な政治家だったが、歴史がその政策選択の正当性を証明したことでようやく評価されるようになったという。 「(安倍)総理もそういうリーダーを最終的には目指していると思う」
山口県の小さな町で生まれた岸氏は1920年代に若き官僚としてワイマール体制下のドイツを訪れ、その産業の近代化に感服した。岸氏が満州に赴任したのは日本の占領下となった4年後、1936年のことだった。
岸氏はソ連での同じような取り組みを参考にして産業開発五カ年計画を作成、満州を一大産業地域に発展させるのに貢献した。岸氏は日本の巨大複合企業、日産を説得し、すべての事業をそこに移転させた。1939年に満州から帰国する際、岸氏は満州のことを「私が描いた作品」と表現した。
3年後に東京に戻った岸氏は、1941年に東條内閣の商工大臣に就任した。商工省は戦時中、軍需省に改組された。
1945年に日本の降伏で戦争が終結した後、岸氏は米国主導の占領軍にA級戦犯被疑者として逮捕された。東京裁判で岸氏は「侵略戦争の継続を可能にするために作られた」満州の経済モデルの「準備と執行で指導的な役割」を果たしたとして責任を問われた。
岸氏の日記によると、「罪と罰」を読んだり、妻の良子にあてた短歌を書いたり、ふんどしを縫ったりして東京の巣鴨プリズンでの3年間を過ごしたという。
1948年12月、戦時下の首相だった東條英機氏は他6人と共に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。
だが、東條内閣の主要閣僚だった岸氏は不起訴となり、釈放された。東西冷戦が始まっていたこともあり、日本の早期復興と、ある程度の再軍備を望んでいた米国は、岸氏のようなエリート官僚は欠かせない人材と考えていたと歴史家たちは言う。
その8年後、岸氏は内閣総理大臣に選ばれた。学者たちは、岸氏や同じような考えを持ったリーダーたちが日本の戦後の驚異的な復興を後押ししたとして評価している。そうした復興で中心的役割を果たしたのは政府の支援を受けた輸出産業だった。
岸氏は真珠湾攻撃から16年後の1957年に訪問した米国で温かい歓迎を受けた。ヤンキースタジアムでは始球式に参加し、米国議会で演説も行った。その際、共産主義との闘いに対する日本の意欲を強調した。
岸氏は、1952年に米国と締結した日米安全保障条約に長年、不満を抱いていた。日本に米軍基地を置くことを義務付けながら、米軍に日本の防衛義務はないとするその条約を岸氏は「不平等で不公平」だと評した。最終的に岸氏は、紛争が起きた場合には日米共同で防衛行動をとることを明文化することに成功した。
この改定安保の批准をめぐり、審議が紛糾した国会で強行採決に踏み切った岸氏に対し、抗議活動が激化していった。抗議デモの参加者らは安保改定で日本が米国の戦争に巻き込まれ、ひいては軍国主義に戻ることになると強く主張した。その数カ月後、岸氏は辞任を余儀なくされた。
岸氏は自身のさらに大きな目標――日本に再軍備のためのより大きな権利を与える憲法改正――に取り組むチャンスを失ってしまった。
岸氏は「岸信介の回想」の中で、「独立国家としては、自分の国の独立を守るための防衛と安全保障ということが、とにかく非常に重大な意味をもつんだということを、本当に国民に理解してもらいたいということが(中略)根本にあった」と述べている。
安倍首相は岸氏の長女、安倍洋子氏の次男として1954年に生まれた。政治家だった父、晋太郎氏は出張が多く、安倍氏は多くの時間を祖父の家で過ごした。
成長するに連れ、安倍氏は祖父の業績を擁護するようになった。
2006年の著書「美しい国へ」にはある出来事が記録されている。あるとき安倍氏が通う私立高校の教師が、日本は岸氏が交渉した改定安保を破棄すべきだと言ったという。安倍氏はこれに反論し、その条約は米国との協力関係の改善を促したと主張した。安倍氏は大学で安保を研究し、これをさらに改定することが日本の将来にとって非常に重要だったと確信するに至ったと書いている。
安倍氏は外務大臣だった父、晋太郎氏の秘書官となった。1993年に晋太郎氏が急死すると、その地盤を受け継いだ安倍氏は衆院選で初当選した。
2006年に初めて首相に就任した際、安倍氏はすぐに憲法改正という祖父と同じ目標に取り組み始めた。安倍首相の祖父に対する好意的な評価についても国民によく知られるところとなった。
2007年のインド訪問では、東京裁判でインド代表判事を務めた故ラダビノード・パール氏の息子と懇談した。パール氏は戦時下の日本の指導者たちは無罪だと主張した判事で、岸氏は巣鴨プリズンで綴った日記の中で、同氏の「正義感の強さと勇気の盛なること」を称賛している。
その数カ月後、安倍氏は在任期間1年で首相を辞任した。有権者の一部は、日本国憲法の改正に向けた議論を再開させるという安倍氏の取り組みを警戒していた。
第2次安倍内閣では、経済政策がより重視されているが、その成否はまちまちだ。安倍首相の「アベノミクス」プログラムは企業収益の増加と株価の上昇を促進させてきた。
しかし、今年4月の消費増税後、日本が再び景気後退に陥ると、安倍首相の支持率は大幅に低下した。
安倍首相はこの時期に衆院選を行うことで、長期政権に持ち込みたい考えだと側近たちは言う。そうなれば国際社会で日本がより大きな役割を果たすという祖父の目標を実現させる機会を首相は再び手にすることになる。
今年7月、安倍内閣は臨時閣議で従来の憲法解釈を変更して限定的に集団的自衛権の行使を容認することを決定した。日本が直接攻撃を受けていない場合でも、米国のような同盟国を支援するために自衛隊が活動することが可能になった。安倍首相は向こう数年間でこれをさらに前進させる構えだ。
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