濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

無力の生態学的分析

2012-12-29 23:46:54 | Weblog
ひときわ多難であったように感じられる今年も、終わろうとしている。
自分の無力さに改めて気づかされた年でもあったが、負け惜しみをいえば、それだけ新陳代謝ができている証拠であり、多くの書物から新しい発想を学ぶことができた。
無力で貧しくあっても、図書館経由で知識は無償で得られることに感謝したい。
このブログも、最近では、そうした図書からの引用の嵐になってしまっているが、大きな時代の変わり際で立ち止まり、考えるためのヒントを含んだものを選んだつもりだ。
今回も、年をまたいで借りている書から、印象に残った一節を引用しておこう。

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無力感を抱くことと、無力な状態を耐え、それでも生き抜くことは、異なるのだ。
野生の動物は、病原菌に冒されたとき、頑に食べることを拒否することがある。
それは、もちろん、病気のために、食物に接近する体力がないこともあるのだろうが、そうではなく、食べないことによって、身体は、侵入者と闘っているのだ。
食物をとらず、栄養補給路を遮断することによって、同時に、侵入者への栄養補給も断ち、かれらの活動を削ぐという戦略なのである。
それは、賭けだ。ぎりぎりの衰弱まで持ちこたえ、怯えながら、苦痛に耐えながら、なにもしないでいるのは、生への帰還の過程なのである。
じっとうずくまった、無力な身体。だが、その厚みを持った身体の内部では、生きること、生きようとする力が漲(みなぎ)り、激しい闘争が繰り拡げられている。
いや、物質としての〈わたし〉たちは、すでに、物質のかかわりの中で生きているのだ。
固く、強張ったような身体にみえても、たえず、他者/他の存在との関係性の紡ぎ合い、運動の中で、衝突し、干渉し、変化している。
それが、〈わたし〉たちにとっての、愛であり、生の歓び、なのだ。(中略)
〈わたし〉たちは、なにものでもない。
変化する力を内側に秘め、たえまない他者との交通の中で、その都度、傷つき、変形し、他者とともに存在し、ともに運動することによって、瞬時瞬時、〈わたし〉は変化し、〈ほかならぬこのわたし〉が立ち現れるのだ。(中略)
無力であること。それは、無数のざわめきが交差する一点では、あたかも無音に感じられてしまうように、あらゆる可能性に向けて変化する力が無数に潜んでいることなのだ。(雑賀恵子「エコ・ロゴス」)
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カフカの「断食芸人」を評した文章の続きで、生をポジティヴにとらえる女性ならではのエトスが感じられるが、無力な人間に対する励ましにもなっている。
逆に、われわれの力を不断に奪い続けている不可視の権力が、相変わらず、われわれを苦しめているということにもなろうか。

グローバル社会になる一方、先端科学技術が進む21世紀において、無力さにどう向かっていくのか、次のSadeの絶唱も、無力さを直視したときの心のうねりを唄っているようにも感じられてくる。
今年最後の一曲として薦めたい。

Sade Pearls






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