濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「死んでもいのちがある」ということ

2012-03-18 16:59:31 | Weblog
市井の思想人であり続けた吉本隆明氏が逝去した。
「死ねば死にきり。自然は水際立っている」という高村光太郎の言葉が好きだと言い、また、おしゃべりがやんだら死んでいたというマルクスの死に方(伝説)が理想だと言っていたが、臨死体験後の晩年には、老残の身からのなまなましい言葉を発していたようにも思われる。
その一節を引用しておこう。

 白内障で目もよく見えない。ほかにも前立腺肥大や高血糖などで、ボロボロの状態です。
「老いる」ことと「衰える」ことは意味が違いますが、こんな状況になったときには、死にたくなっちゃうんですよ。
年を取って、精神状態がある軌道に入ると、なかなか抜け出せないのです。
僕は死のうとか、自殺しようとまではいきませんでしたが、「これは生きている意味がないんじゃないか」ということは、ものすごく考えましたね。
ある時期は、そればかりを考えていました。これでは生きているとは言えないよなと。
結局は、その状態を自分自身で承認するほかないのです。
自然の「老い」に逆らうというのが、唯一の方法です。
逆らって、逆らって、それで勝つかと言ったら、負けるに決まっているのです。
負けるに決まっているんだけど、それでも逆らう。
いまの僕の実感と心境はそういうものです。
「おまえ、そんなにまでして生きていたいのか」と言われるかもしれませんが、そういうことではないんです。
何かに執着があるからということではなくて、もうそれ以外に手がない、道はないのです。
毎日そう考えて暮らしております。(「人生とは何か」)

高齢で生き延びた被災者の心境までもが想起されてくる内容だが、吉本氏の足跡や思想についてはさまざまに語られ、今後もさまざまに論じられるはずだから、これ以上特に付け加えようとも思わない。
また、つまらない感慨も控えておこう。
ただ、氏が晩年に高く評価していた解剖学者三木成夫の講演の一節を、手向けの言葉としたい。

われわれがなにごころなく自然に向かった時、そこでわれわれの五感に入ってくるものは諸形象すなわち、もろもろの“すがたかたち”であろう。
路傍の石ころを目にしても、小川のせせらぎを耳にしても、秋のけはいを肌で感じても、そこにあるものは例外なく、この“すがたかたち”であり、それらはことごとく生きた表情でわれわれに語りかけてくる。
これに対し、われわれがある思惑をもって自然に対した時、そこでは無生の“しかけしくみ”しか問題になってこない。
例えば解剖学的に涙を考えた時、分泌の伝導路だけで頭がいっぱいになるように……。(中略)
以上で「生命」とは、生活の中にではなく、森羅万象の“すがたかたち”の中に宿るものであることが解明された。
したがって、ある人間の持つ“すがたかたち”の強烈な印象がひとの心に深く刻み込まれた時、その人間の「生命」は生活を終えた死後もなお、脈々としてひとの心に波うち、消え去ることがない。
そこでは“死んでもいのちがある”ことになる。(三木成夫「人間生命の誕生」)

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