自分自身に対して「信頼できない」人間──こうした自己認識の根底には、イシグロの場合、日本からイギリスに帰化しても、なお日本というノスタルジーにこだわり続けざるをえないという、アイデンティティの揺らぎがあることは想像に難くない。
それでは、私の場合はどうなのかといえば、小学校時代に見た夢(自分が九月X日に死ぬというもの)にすっかり翻弄されたという体験が大きいように思われる。
当時、算数の問題で小数点の位取りをすべて間違えて0点をとり、教師に心配された記憶がある。
何も手につかない放心状態のまま、だれとも口をきかず、秋の澄んだ青空にやがて吸収されていく自分の魂の行方に思いを馳せたものだった。
いま振り返れば、夢が語る自分の無意識というものは、最も信頼できないもう一人の自分であるにもかかわらず、それをまともに信じて、離人症や解離性障害の一歩手前の状態にまでなっていたのかもしれない。
ところで、イシグロは生物学者の福岡伸一との対談で「記憶は死に対する部分的な勝利である」という印象的な言葉を残している。
そういえば、『私を離さないで』のなかに、小説のタイトルでもある’Never let me go’という歌が流れてくる場面と、その歌の記憶を後年回想する場面が出てくる。最初の場面を引用するなら、
スローで、ミッドナイトで、アメリカン。「ネバーレットミーゴー………オー、ベイビ—、ベイビー………わたしを離さないで………」このリフレーンが何度も繰り返されます。(中略)
この歌のどこがよかったのでしょうか。ほんとうを言うと、歌全体をよく聞いていたわけではありません。聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレーンだけです。聞きながら、いつも一人の女性を思い浮かべました。死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに、産めないと言われています。でも、あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます。その人は赤ちゃんを胸に抱き締め、部屋の中を歩きながら、「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」と歌うのです。もちろん、幸せで胸がいっぱいだったからですが、どこかに一抹の不安があります。何かが起こりはしないか。赤ちゃんが病気になるとか、自分から引き離されるとか……。歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時のわたしにもわかっていました。でも、 気にしませんでした。これは母親と赤ちゃんの歌です。
とあり、ここでも「歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ」という、イシグロ独特の揺らぎが見られるのだが、さらに、ここに「記憶は死に対する部分的な勝利である」という彼のメッセージを強引に加味するなら、この歌には、自分と合致する自分、自己アイデンティティの原基としての自分、つまりは最初の自分の記憶を離したくない、離してしまえば、自分が信頼できなくなるという不安が表出されているのではないだろうか。
閑話休題、この作中の歌はもちろん虚構の産物だろうが、ジャズのスタンダードナンバーに’Never let me go’という同名の曲があったことに思い当たり、Youtubeを探してみると、何人かのそうそうたる歌手が歌っていた。
いろいろ聴きくらべていくうちに、作品の雰囲気にふさわしい歌声をみつけることができた。
そのチャーミングかつクールな歌声の持ち主とは、これまでも私が気に入って聴いていたジャズシンガーの一人 Stacy Kentであった。
ここにそのYoutubeの映像を紹介しておくので、是非試聴してほしい。
ガラス窓に映し出される雨の滴も絶妙である。
Never let me go
追記
話はこれで終わるはずだったが、なんと、Stacy Kentもじつはイシグロのファン、一方のイシグロも彼女のファンということで、ある日、イシグロがラジオ番組で、無人島に持って行きたいものの一つとして彼女の歌を選びたいという話をしたことがきっかけで、二人は親交を結ぶようになり、いまでは、イシグロが彼女の新曲の作詞を手がけるまでになっているという情報を入手した。
なんという偶然だろう! 私はイシグロの受賞を喜ぶ三人目の貴婦人に出会ったことになるのだから。
それでは、私の場合はどうなのかといえば、小学校時代に見た夢(自分が九月X日に死ぬというもの)にすっかり翻弄されたという体験が大きいように思われる。
当時、算数の問題で小数点の位取りをすべて間違えて0点をとり、教師に心配された記憶がある。
何も手につかない放心状態のまま、だれとも口をきかず、秋の澄んだ青空にやがて吸収されていく自分の魂の行方に思いを馳せたものだった。
いま振り返れば、夢が語る自分の無意識というものは、最も信頼できないもう一人の自分であるにもかかわらず、それをまともに信じて、離人症や解離性障害の一歩手前の状態にまでなっていたのかもしれない。
ところで、イシグロは生物学者の福岡伸一との対談で「記憶は死に対する部分的な勝利である」という印象的な言葉を残している。
そういえば、『私を離さないで』のなかに、小説のタイトルでもある’Never let me go’という歌が流れてくる場面と、その歌の記憶を後年回想する場面が出てくる。最初の場面を引用するなら、
スローで、ミッドナイトで、アメリカン。「ネバーレットミーゴー………オー、ベイビ—、ベイビー………わたしを離さないで………」このリフレーンが何度も繰り返されます。(中略)
この歌のどこがよかったのでしょうか。ほんとうを言うと、歌全体をよく聞いていたわけではありません。聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレーンだけです。聞きながら、いつも一人の女性を思い浮かべました。死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに、産めないと言われています。でも、あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます。その人は赤ちゃんを胸に抱き締め、部屋の中を歩きながら、「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」と歌うのです。もちろん、幸せで胸がいっぱいだったからですが、どこかに一抹の不安があります。何かが起こりはしないか。赤ちゃんが病気になるとか、自分から引き離されるとか……。歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ、とは当時のわたしにもわかっていました。でも、 気にしませんでした。これは母親と赤ちゃんの歌です。
とあり、ここでも「歌の解釈としては、歌詞のほかの部分とちぐはぐで、どうも違うようだ」という、イシグロ独特の揺らぎが見られるのだが、さらに、ここに「記憶は死に対する部分的な勝利である」という彼のメッセージを強引に加味するなら、この歌には、自分と合致する自分、自己アイデンティティの原基としての自分、つまりは最初の自分の記憶を離したくない、離してしまえば、自分が信頼できなくなるという不安が表出されているのではないだろうか。
閑話休題、この作中の歌はもちろん虚構の産物だろうが、ジャズのスタンダードナンバーに’Never let me go’という同名の曲があったことに思い当たり、Youtubeを探してみると、何人かのそうそうたる歌手が歌っていた。
いろいろ聴きくらべていくうちに、作品の雰囲気にふさわしい歌声をみつけることができた。
そのチャーミングかつクールな歌声の持ち主とは、これまでも私が気に入って聴いていたジャズシンガーの一人 Stacy Kentであった。
ここにそのYoutubeの映像を紹介しておくので、是非試聴してほしい。
ガラス窓に映し出される雨の滴も絶妙である。
Never let me go
追記
話はこれで終わるはずだったが、なんと、Stacy Kentもじつはイシグロのファン、一方のイシグロも彼女のファンということで、ある日、イシグロがラジオ番組で、無人島に持って行きたいものの一つとして彼女の歌を選びたいという話をしたことがきっかけで、二人は親交を結ぶようになり、いまでは、イシグロが彼女の新曲の作詞を手がけるまでになっているという情報を入手した。
なんという偶然だろう! 私はイシグロの受賞を喜ぶ三人目の貴婦人に出会ったことになるのだから。
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