今年の夏は気候変動の影響を受けて、これまでの季節感を大いに困惑させることになった。
例年であれば、この頃、夏の終わりに伴って切ない感傷に浸ることができたのだが、そうした気分は長雨や局地豪雨にすっかり流されてしまっている。
人間の感受性も政治の世界と同じく劣化し、すっかり大雑把になってきているのかもしれない。
そんな中で、もはや古典に属するかもしれないが、坂口安吾の「傲慢な眼」には、やはりこの季節ならではの魅力を思い出させる力があり、ひきつけられてしまう。
……普段は東京に住む令嬢と画を描くことが好きな少年との、ある地方での一夏の出来事を綴った短編だが、そこには夏の情景がバックグラウンドとして効果的に描かれている。
たとえば、令嬢をモデルにして少年が写生を始める頃の様子には
振仰ぐと葉越しに濃厚な夏空が輝いており、砂丘一面に蝉の鳴き澱む物憂い唸りが聞えた。
といった一節が添えられている。
そして、令嬢が東京に戻ることを少年に知らせるときには、
雨の間に、去り行く夏の慌ただしい凋落が、砂丘一面にも、そして蒼空にも現れてゐて、蝉の音が侘びしげに澱んでゐた。
という描写が、夏の終わりと恋の終わりを予感させている。
だが、その夏の記憶は、東京に帰った令嬢の心の中に残り続け、友達に
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
と言い放ったとき、
此の思ひがけない言葉によって、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみづみづしい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思ひ泛べることが出来た
のである。
巧みな構成で、解説すべき何物も必要ないが、小説が終わるとき、詩が始まるといった余韻がある。
あえて芭蕉の句のパロディをここに付け加えれば、
夏空や 恋する者の 夢の跡
という気持ちを禁じ得ないのである。
例年であれば、この頃、夏の終わりに伴って切ない感傷に浸ることができたのだが、そうした気分は長雨や局地豪雨にすっかり流されてしまっている。
人間の感受性も政治の世界と同じく劣化し、すっかり大雑把になってきているのかもしれない。
そんな中で、もはや古典に属するかもしれないが、坂口安吾の「傲慢な眼」には、やはりこの季節ならではの魅力を思い出させる力があり、ひきつけられてしまう。
……普段は東京に住む令嬢と画を描くことが好きな少年との、ある地方での一夏の出来事を綴った短編だが、そこには夏の情景がバックグラウンドとして効果的に描かれている。
たとえば、令嬢をモデルにして少年が写生を始める頃の様子には
振仰ぐと葉越しに濃厚な夏空が輝いており、砂丘一面に蝉の鳴き澱む物憂い唸りが聞えた。
といった一節が添えられている。
そして、令嬢が東京に戻ることを少年に知らせるときには、
雨の間に、去り行く夏の慌ただしい凋落が、砂丘一面にも、そして蒼空にも現れてゐて、蝉の音が侘びしげに澱んでゐた。
という描写が、夏の終わりと恋の終わりを予感させている。
だが、その夏の記憶は、東京に帰った令嬢の心の中に残り続け、友達に
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
と言い放ったとき、
此の思ひがけない言葉によって、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみづみづしい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思ひ泛べることが出来た
のである。
巧みな構成で、解説すべき何物も必要ないが、小説が終わるとき、詩が始まるといった余韻がある。
あえて芭蕉の句のパロディをここに付け加えれば、
夏空や 恋する者の 夢の跡
という気持ちを禁じ得ないのである。
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