前回、YouTubeで紹介したStacy Kentの歌う’Never let me go’について、ある読者の方から、イシグロ自ら監修した映画で流れていたメロディーとは異なるというご指摘をいただいた。
私は映画を見ていないので、自分のイメージを優先させ、ついつい妄想を膨らませてしまったようだ。
そこで、小説に登場するジュディ・ブリッジウォーターなる歌手を改めてYouTubeで検索してみると、なんとニューヨークの場末の街角で見かけるようなご婦人の写真とともに、スタンダードナンバーとは似て非なる、もう一つの’Never let me go’が聞こえてきた。
Judy Bridgewater - Never Let Me Go
しかし、過去のアメリカンポップス史に彼女の名前はない。
とすれば、やはり架空の歌手の歌う架空の歌で、「信頼できない語り手」の手法に精通するイシグロの仕掛けだという気がしてくる。
一方、「シロクマ通信」というブログ──私と同じく、作品の’Never let me go’からジャズスタンダードナンバーを思い浮かべたという──には、次のような感想が書かれていた。
確かに「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」そのものなんだが、メロディはよくあるチープなR&Bって感じで、歌も妙にセクシーなだけでぜんぜん上手くないし、主人公が何度も何度も繰り返し聴いて心ときめかす楽曲とはとても思えないんだよなぁ。
たしかにジュディ・ブリッジウォーターの歌は、ヘールシャムという静謐でどこか不穏な学校空間とは場違いなもので、だからこそ、イシグロならではの異化効果が発揮されているとも考えられる。
あるいは、主人公たちの母親=「ポシブル」の存在がそこに暗示されているという類推も可能なのかもしれない。
とまあ、話題が’Never let me go’という歌ばかりに向かってしまったので、最後にクローン人間という重いテーマについて少し考えてみたい。
──夢は全体がテレビの画面の中だった。美しい白人の女性が、金髪のかわいい女の子を抱いている。エリザベスと名告るこの女性は、しばらく前に二歳になるルイーズという女の子を交通事故で失くした。溺愛していた子供を失った彼女は一時は死を覚悟したが、知り合いの医師に相談して、ルイーズの細胞を冷凍し、ほぼ一年前に自分の卵子にルイーズの細胞の核を移植し、自分の子宮に戻した。お定まりのクローン動物を作る同じやり方である。
こうして彼女は死んだルイーズと同じ遺伝子を持った赤ちゃんを出産した。生まれたころのルイーズと瓜二つの赤ちゃんには、やはりルイーズという名前をつけた。彼女は、人間で初めて成功したクローンベイビーを抱いてテレビに出演しているのである。
(中略)
生まれた時からルイーズは、死んだルイーズと瓜二つだったので、エリザベスの心は癒された。そうでなかったら、彼女はとっくに自殺していただろう。第二のルイーズは健やかに育ち、こうして母子ともに幸福に暮らしている。クローンといっても、最初のルイーズは死んでいるのだから、これこそたった一人のルイーズなのです。どこが悪いのでしょう、とエリザベスは幸福そうに画面で微笑んだ。(多田富雄「真夏の夜の夢」)
今は亡き高名な免疫学者の、うなされながら見たという夢の断片だが、クローンなどの先端医療を突き動かしている背景には、こうしたヒューマニスティックな動機も含まれているのだろう。
まさに「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というエリザベスのささやきが聞こえてきそうだ。
一方、ヘールシャムから離れた主人公たちも、「ポシブル」つまり彼らの親を探そうとして、町を彷徨ったが、彼らの立場は第二のルイーズとはまるで違う。
「でもさ、わたしたちの正体がわかってたら、あの人、あんなふうに話かけてくれたかしら。『すみません、あなたのお友達はクローン人間の元でしょうか』なんて訊いたらどう? きっと放り出されてたわよ。わかってるんでしょ、みんな? だったら、なぜ言わないの。ポシブルを探したかったら、どぶの中でも覗かなきゃ」
「どぶ」に住む親から産まれた彼らの臓器は医療資源の一部として「提供」され、彼らはやがて「使命」を終えていく運命にあるのだ。
それにしても、状況がどうであれ、〈提供する側=ドナー〉と〈提供される側=レシピエント〉の間には絶望的な距離がある。
移植医の先駆者だった岩崎洋治は、かつて加賀乙彦との対談で死体腎移植について次のように語っていた。
「片方に死んでまもない人があって、その人から腎臓をとらなければならない。それから片方では、それを重い病人に植えなければならない。移植というのは悲しい手術です」
イシグロの「私を離さないで」を読み進めていたとき、私はゾクゾクするような戦慄を覚えたものだが、今振り返れば、作品の底辺に潜む、人間が生きていくことの、底冷えがしてくるようなおぞましさとも関係しているように思えてならない。
私は映画を見ていないので、自分のイメージを優先させ、ついつい妄想を膨らませてしまったようだ。
そこで、小説に登場するジュディ・ブリッジウォーターなる歌手を改めてYouTubeで検索してみると、なんとニューヨークの場末の街角で見かけるようなご婦人の写真とともに、スタンダードナンバーとは似て非なる、もう一つの’Never let me go’が聞こえてきた。
Judy Bridgewater - Never Let Me Go
しかし、過去のアメリカンポップス史に彼女の名前はない。
とすれば、やはり架空の歌手の歌う架空の歌で、「信頼できない語り手」の手法に精通するイシグロの仕掛けだという気がしてくる。
一方、「シロクマ通信」というブログ──私と同じく、作品の’Never let me go’からジャズスタンダードナンバーを思い浮かべたという──には、次のような感想が書かれていた。
確かに「スローで、ミッドナイトで、アメリカン」そのものなんだが、メロディはよくあるチープなR&Bって感じで、歌も妙にセクシーなだけでぜんぜん上手くないし、主人公が何度も何度も繰り返し聴いて心ときめかす楽曲とはとても思えないんだよなぁ。
たしかにジュディ・ブリッジウォーターの歌は、ヘールシャムという静謐でどこか不穏な学校空間とは場違いなもので、だからこそ、イシグロならではの異化効果が発揮されているとも考えられる。
あるいは、主人公たちの母親=「ポシブル」の存在がそこに暗示されているという類推も可能なのかもしれない。
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とまあ、話題が’Never let me go’という歌ばかりに向かってしまったので、最後にクローン人間という重いテーマについて少し考えてみたい。
──夢は全体がテレビの画面の中だった。美しい白人の女性が、金髪のかわいい女の子を抱いている。エリザベスと名告るこの女性は、しばらく前に二歳になるルイーズという女の子を交通事故で失くした。溺愛していた子供を失った彼女は一時は死を覚悟したが、知り合いの医師に相談して、ルイーズの細胞を冷凍し、ほぼ一年前に自分の卵子にルイーズの細胞の核を移植し、自分の子宮に戻した。お定まりのクローン動物を作る同じやり方である。
こうして彼女は死んだルイーズと同じ遺伝子を持った赤ちゃんを出産した。生まれたころのルイーズと瓜二つの赤ちゃんには、やはりルイーズという名前をつけた。彼女は、人間で初めて成功したクローンベイビーを抱いてテレビに出演しているのである。
(中略)
生まれた時からルイーズは、死んだルイーズと瓜二つだったので、エリザベスの心は癒された。そうでなかったら、彼女はとっくに自殺していただろう。第二のルイーズは健やかに育ち、こうして母子ともに幸福に暮らしている。クローンといっても、最初のルイーズは死んでいるのだから、これこそたった一人のルイーズなのです。どこが悪いのでしょう、とエリザベスは幸福そうに画面で微笑んだ。(多田富雄「真夏の夜の夢」)
今は亡き高名な免疫学者の、うなされながら見たという夢の断片だが、クローンなどの先端医療を突き動かしている背景には、こうしたヒューマニスティックな動機も含まれているのだろう。
まさに「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というエリザベスのささやきが聞こえてきそうだ。
一方、ヘールシャムから離れた主人公たちも、「ポシブル」つまり彼らの親を探そうとして、町を彷徨ったが、彼らの立場は第二のルイーズとはまるで違う。
「でもさ、わたしたちの正体がわかってたら、あの人、あんなふうに話かけてくれたかしら。『すみません、あなたのお友達はクローン人間の元でしょうか』なんて訊いたらどう? きっと放り出されてたわよ。わかってるんでしょ、みんな? だったら、なぜ言わないの。ポシブルを探したかったら、どぶの中でも覗かなきゃ」
「どぶ」に住む親から産まれた彼らの臓器は医療資源の一部として「提供」され、彼らはやがて「使命」を終えていく運命にあるのだ。
それにしても、状況がどうであれ、〈提供する側=ドナー〉と〈提供される側=レシピエント〉の間には絶望的な距離がある。
移植医の先駆者だった岩崎洋治は、かつて加賀乙彦との対談で死体腎移植について次のように語っていた。
「片方に死んでまもない人があって、その人から腎臓をとらなければならない。それから片方では、それを重い病人に植えなければならない。移植というのは悲しい手術です」
イシグロの「私を離さないで」を読み進めていたとき、私はゾクゾクするような戦慄を覚えたものだが、今振り返れば、作品の底辺に潜む、人間が生きていくことの、底冷えがしてくるようなおぞましさとも関係しているように思えてならない。