宮沢賢治といえば、大学生当時、その硬質な叙情や情念にあふれた詩集『春と修羅』の世界に惹かれた一時期があった。
いかりの にがさ また青さ
四月の気層の ひかりの底を
唾(つばき)し はぎしり ゆききする
おれは ひとりの修羅なのだ
(中略)
けらを まとひ おれを見る その農夫
ほんたうに おれが 見えるのか
こうした、なかば呪詛に近い詩句は、自分のイメージにあった、それまでの賢治の無垢な童話の世界とはまったく相容れないもののように感じられた。
また、ここには賢治の病理が隠されているとも考え、それについての考察をしたこともあった。
逆に、賢治のヤワな童話に対しては敬して遠ざけたい気持ちが強かったのである。
今回、ふとしたきっかけから、賢治の童話の世界に触れてみようという気持ちになった。
読解するときの頼りになる先達には吉本隆明がいる。
吉本は『悲劇の解読』のなかで、賢治の童話について
「中学生がよく考える程度の空想が、あまりに真剣に卓越した詩人によって考えられているので、読むものもまた真剣な中学生とならざるをえない」
といっている。
そこで、私も「真剣な中学生」となって、『銀河鉄道の夜』についてのささやかなアプローチを試みることにする。
『銀河鉄道の夜』の主人公、ジョバンニは、父が不在の中で母の面倒を見る、けなげな少年である。そんなジョバンニと母の会話を引用すると
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。
遠洋漁業(?)に出かけて不在の父が、じつは何かの罪を負って獄中にいるかもしれないと聞かされ、ここにジョバンニの不幸や不安が芽生えてくる。
だが、こうした不幸や不安こそが、ジョバンニを銀河鉄道の旅へと向かわせる最大の契機となるものでもあったのだ。
これと似た構図はたとえば「よだかの星」にも見られる。
僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。
よだかの善意は、めじろの母には感謝されず、かえって憎悪の対象となったということ、いや、もともと、ほんとうの善意とは、曲解され、拒絶されるものなのではないかということ、こうした不幸の自覚に、よだかが星空を目指した理由の一つがあるのだろう。
だが、『銀河鉄道の夜』では、父の詳細は多く語られず、ぼんやりとした印象しか持ち得ない。
父の不在の理由そのものが不在であるとでもいいたげなのだ。
そうした不在が、また銀河鉄道の旅をいっそう幻影的にさせ、ジョバンニの願望を際立たせているのかもしれない。
ジョバンニは銀河鉄道の車中でいう。
「ぼくたちどこまでだって行ける切符持ってるんだ」
いかりの にがさ また青さ
四月の気層の ひかりの底を
唾(つばき)し はぎしり ゆききする
おれは ひとりの修羅なのだ
(中略)
けらを まとひ おれを見る その農夫
ほんたうに おれが 見えるのか
こうした、なかば呪詛に近い詩句は、自分のイメージにあった、それまでの賢治の無垢な童話の世界とはまったく相容れないもののように感じられた。
また、ここには賢治の病理が隠されているとも考え、それについての考察をしたこともあった。
逆に、賢治のヤワな童話に対しては敬して遠ざけたい気持ちが強かったのである。
今回、ふとしたきっかけから、賢治の童話の世界に触れてみようという気持ちになった。
読解するときの頼りになる先達には吉本隆明がいる。
吉本は『悲劇の解読』のなかで、賢治の童話について
「中学生がよく考える程度の空想が、あまりに真剣に卓越した詩人によって考えられているので、読むものもまた真剣な中学生とならざるをえない」
といっている。
そこで、私も「真剣な中学生」となって、『銀河鉄道の夜』についてのささやかなアプローチを試みることにする。
『銀河鉄道の夜』の主人公、ジョバンニは、父が不在の中で母の面倒を見る、けなげな少年である。そんなジョバンニと母の会話を引用すると
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。
遠洋漁業(?)に出かけて不在の父が、じつは何かの罪を負って獄中にいるかもしれないと聞かされ、ここにジョバンニの不幸や不安が芽生えてくる。
だが、こうした不幸や不安こそが、ジョバンニを銀河鉄道の旅へと向かわせる最大の契機となるものでもあったのだ。
これと似た構図はたとえば「よだかの星」にも見られる。
僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。
よだかの善意は、めじろの母には感謝されず、かえって憎悪の対象となったということ、いや、もともと、ほんとうの善意とは、曲解され、拒絶されるものなのではないかということ、こうした不幸の自覚に、よだかが星空を目指した理由の一つがあるのだろう。
だが、『銀河鉄道の夜』では、父の詳細は多く語られず、ぼんやりとした印象しか持ち得ない。
父の不在の理由そのものが不在であるとでもいいたげなのだ。
そうした不在が、また銀河鉄道の旅をいっそう幻影的にさせ、ジョバンニの願望を際立たせているのかもしれない。
ジョバンニは銀河鉄道の車中でいう。
「ぼくたちどこまでだって行ける切符持ってるんだ」