じつに久しぶりの投稿となったが、いつもながらのことで、特に何かがあったわけではない。
多忙が重なり、すっかりブログ無精になってしまっただけである。
まだまだ忙しさはこれからが本番ということになりそうだが、とりあえず、記事をアップすべく、キーボードに向かうことにした。
というのも、本ブログはまったく更新されていないにもかかわらず、アクセス数がなぜか異常に高い数値を示しており、これは天の声、いやギャラリーの皆様からの催促の声と受け取ったからだ。
うぬぼれが激しいと思われるかもしれないが、ブランクの間の消息を綴ってみることにした。
5月某日
元義父の死という、思いがけない知らせを受け、通夜と葬儀に出席し、元義母の泣き崩れる姿を見て、「元」も「子」もなく、もらい泣きしてしまった。
遺影を眺めるうちに、元妻と似ていることに改めて気付かされた。
棺の中のデスマスクは美しいものだった。
私は病理医の森亘の残した言葉を思い出した。
人間の死後の内臓には、病変とともに生前に受けたいろいろな治療の痕跡が残されております。
またそれらの総決算として、その患者がどの様な死を迎えたかもある程度分かります。
必要にして十分、要するに適度の治療が施された遺体には、それらを見事に反映している実像・所見、といったものがあることに気付くようになりました。
そして、このように適度な医療が施された後の遺体には、その内臓には、それなりの美しさが感じられることに気付いた次第であります。
元義父の場合、過度の延命治療などもなく、穏やかな最期だったから、あるいは「美しい死」だったのかもしれない。
冥福を祈るばかりである。
娘は老いた祖父と祖母のサポートを十分していたようで、元義母からは「我々夫婦の面倒をしっかりみてくれた。本当にいい子を産んでくれた」という感謝の言葉をいただいた。
「いい子に育ててくれた」ではない点に注意して欲しい。
諸般の事情で、娘は義父母の手で育てられたようなものだからである。
5月某日
2019年に元号が変わるということで、教えている予備校生に平成に次ぐ元号を考えさせることにした。
「浪人」「忖度」など、面白半分のものも含まれていたが、その中に「回帰」「大化」「一二」などというものがあって、いずれも現在の閉塞状況を打ち破るために、原点に戻って考えたいという意志の現れなのかもしれないと興味深く思った。
若者も時代を敏感に感じて生きているのだろうが、悪しき「近代の超克」などに陥らないように願うばかりだ。
一方、2020年の東京オリンピックが終われば、日本の社会は崩壊するという説もあり、なかなか厳しく不透明な時代が来ていることは間違いない。
栗本慎一郎によれば、
「信念の世紀はもう終わった」
ということだが、「信」が「真」につながるような、古くて新しい感覚が再び求められているとも思う。
いずれにせよ人生最大のピンチが到来しそうだ。
逆に言えば、千載一遇のチャンスにもなるとも考えられる。
自分に果たしてピンチをチャンスに変える余力が残っているかどうか不安ではあるが、社会に生存することの「必要」が未来を切り開いていくことは確かだ。
「信真一如」……「信」にして「真」の道を歩んでいきたい。
多忙が重なり、すっかりブログ無精になってしまっただけである。
まだまだ忙しさはこれからが本番ということになりそうだが、とりあえず、記事をアップすべく、キーボードに向かうことにした。
というのも、本ブログはまったく更新されていないにもかかわらず、アクセス数がなぜか異常に高い数値を示しており、これは天の声、いやギャラリーの皆様からの催促の声と受け取ったからだ。
うぬぼれが激しいと思われるかもしれないが、ブランクの間の消息を綴ってみることにした。
5月某日
元義父の死という、思いがけない知らせを受け、通夜と葬儀に出席し、元義母の泣き崩れる姿を見て、「元」も「子」もなく、もらい泣きしてしまった。
遺影を眺めるうちに、元妻と似ていることに改めて気付かされた。
棺の中のデスマスクは美しいものだった。
私は病理医の森亘の残した言葉を思い出した。
人間の死後の内臓には、病変とともに生前に受けたいろいろな治療の痕跡が残されております。
またそれらの総決算として、その患者がどの様な死を迎えたかもある程度分かります。
必要にして十分、要するに適度の治療が施された遺体には、それらを見事に反映している実像・所見、といったものがあることに気付くようになりました。
そして、このように適度な医療が施された後の遺体には、その内臓には、それなりの美しさが感じられることに気付いた次第であります。
元義父の場合、過度の延命治療などもなく、穏やかな最期だったから、あるいは「美しい死」だったのかもしれない。
冥福を祈るばかりである。
娘は老いた祖父と祖母のサポートを十分していたようで、元義母からは「我々夫婦の面倒をしっかりみてくれた。本当にいい子を産んでくれた」という感謝の言葉をいただいた。
「いい子に育ててくれた」ではない点に注意して欲しい。
諸般の事情で、娘は義父母の手で育てられたようなものだからである。
5月某日
2019年に元号が変わるということで、教えている予備校生に平成に次ぐ元号を考えさせることにした。
「浪人」「忖度」など、面白半分のものも含まれていたが、その中に「回帰」「大化」「一二」などというものがあって、いずれも現在の閉塞状況を打ち破るために、原点に戻って考えたいという意志の現れなのかもしれないと興味深く思った。
若者も時代を敏感に感じて生きているのだろうが、悪しき「近代の超克」などに陥らないように願うばかりだ。
一方、2020年の東京オリンピックが終われば、日本の社会は崩壊するという説もあり、なかなか厳しく不透明な時代が来ていることは間違いない。
栗本慎一郎によれば、
「信念の世紀はもう終わった」
ということだが、「信」が「真」につながるような、古くて新しい感覚が再び求められているとも思う。
いずれにせよ人生最大のピンチが到来しそうだ。
逆に言えば、千載一遇のチャンスにもなるとも考えられる。
自分に果たしてピンチをチャンスに変える余力が残っているかどうか不安ではあるが、社会に生存することの「必要」が未来を切り開いていくことは確かだ。
「信真一如」……「信」にして「真」の道を歩んでいきたい。