濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

植物的な生─落ち葉を踏みしだきながら─

2016-12-20 09:29:32 | Weblog
年の暮れともなった。
今年は、〈私を拒絶する風景がある〉ということをいやおうなしに痛感せざるをえない年となった。
そして、その風景は年齢と共に広がり、周囲を取り囲むようになってきているようにも思われる。
こう書くと、なにやら深刻に受けとめられるかもしれないが、そして確かに深刻ではあるのだが、それだけにまた新鮮な覚醒となり、これまでになく充実し緊張した毎日を送ることができるようにもなったのだから、感謝して享受したいという気持ちを含んでいる。

その一方で、若い女性から「心が豊かなんですね」などと言われると、生活総体は決して豊かではない者に対する励ましに過ぎないとわかっていても、やはりうれしくなる。そして、その豊かさは〈私を拒絶する風景〉が強いてくるのだと思ってみたりする。
money richでも time richでも health rich でもないが、heart rich だけはこれからも確保していきたい。

そんなことを考え、枯れ葉を踏みしだきながら冬の道を歩いていると、二つの言葉が思い出されてきた。

生命の一循環を終えたのだから
生まれかわるためには、死なねばならないと
根が考え、幹が感じている。(鮎川信夫「落葉樹の思考」)


樹々は冬のあいだも明春のために生命ある色を蓄えている。(志村ふくみ)

冬はどうやら植物的な生に思いを馳せるのに適した季節のようだ。
そして、こうした樹木の生命のサイクル、いやリサイクルに共感できるのも、私という個体が、次のような「遺伝子の夢」に包み込まれているからなのかもしれない。

人間は自分自身の生のためだけには生きていけない存在であろう。無限に生きられるように改造されたとしても、きっと、死の遺伝子のスイッチをみずからオンにして自殺してしまうにちがいない。それは、授かった生は遺伝子からして利他的なものであるからだ。
死の遺伝子は一見、生命の連続性をたち切ってしまうように見える。しかし、そうではない。遺伝子として死が組み込まれることによって生命の連続性が不連続的に保たれているのである。(田沼靖一『遺伝子の夢』)


前回の当ブログで、「医療者は患者に対して、互いの心が、そして命が『つながっている』という希望を与えるべきではないか」と述べたが、希望の原点とは、人から人へ、世代から世代へと「生命の連続性が不連続的に保たれて」いくという生命のバトンリレーにあると思うが、どうであろうか。

今年最後に贈る曲として Roberta Flack の ’the first time ever i saw your face’ を選んでみた。
時代の大きな曲がり角、難路は続くだろうが、ときに優しさのあふれる寛い海を漂う気持ちで乗り越えていってほしい。

The First Time Ever I Saw Your Face - Roberta Flack (lyrics)


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