女満別空港13:40到着、真っ先にレンタカーステーションへ。
今回借りたのはホンダのフィット。まだ新車です。
ナビの使い方だけレクチャーを受けETCをセットしようとすると
店員さん「ここではETC使えませんよ!」
私「えっ 現金支払い」
店員さん「高速自体が無いのですよ」
あとで納得しました高速道路なんてまったく必要のないところでした
注意点は「一旦停止のところでお巡りさんが隠れてますよ!
スタッフがこの間12㎞オーバーで捕まりました。
鹿・狐に注意を」
このアドバイスのお陰で終始安全運転に心がけることができました。
で向かったのが網走です
この橋を渡った先にまさかこんな史実があったとは、無知な自分が恥ずかしくもありました
紅葉も終盤でしたが間に合ってよかったです。
煉瓦造りの独居房
こんなところでどうやって冬を過ごしたんだろう?
放射状に広がる5棟の舎房を中央の見張り舎から見渡せます。
当時ベルギーの監獄を模倣したそうです。
明治45年から昭和59年まで72年間使われたそうです。
最大で700名が収容できたそうで、中には何度も脱獄を試みた囚人もいて
この鉄格子を毎朝出されるみそ汁の塩分で錆びさせて脱獄するという気の遠くなるようなこともあったそうです。
もちろん食事中も入浴中も看守の目が光っています。
当時の入浴は伝染病防ぐ意味で重要なことでした。
編み笠をかぶってみました。
この編み笠には3つの目的が有ります。
刑務所を出るときにかぶるのですが
一つ目は回りから好奇の目で見られないように
二つ目は土地の道などを覚えられないように
三つ目は一般の人たちに危害を与えることなく収監できるように
とのことみたいです。
この建物の中にはいろいろなものが展示されていて
当時の様子が映像を通して語ってくれています。
ロシアの南下政策に明治政府は何としても北海道の開拓が急務でした。
中央部を通る道路や十勝から太平洋へ横断する道路、硫黄山から釧路へ
220㎞に及ぶ道路を通常の4倍も早いスピードで囚人達は働かされます。(重機のない時代に)
政府からの「囚人の死などかまわない、食いぶちが減る分一石二鳥」と
国土防衛の名の下、看守も命がけで共に働いたそうです。
結果囚人の6人に1人が犠牲になり看守も多く亡くなったそうです。
網走刑務所とは極悪非道な囚人が全国から集まるところと思っていましたが
この頃の囚人は政府の指導方針に背く、いわば政治犯的な囚人も多く
えん罪も多かったんだろうな と想像します。
今の北海道があるのは
入植者の開拓のお陰もあるだろうし、屯田兵の活躍もあります。
それよりも彼らの活躍の地を切り開いた・・・
道なき道を切り開いた 囚人たちであったことを初めて知ってしまったのです。
その何十年も後に 住民達の手で道路の至る所に埋まったままになっている
囚人達の骨の発掘作業が行われ手厚く葬られたそうです。
20回近く北海道を訪れながらこのような悲惨な歴史の上に
今の北海道があることを知らないまま
「北海道は自然が美しい、食べ物が旨い、素晴らしいゴルフコース」なんて事を思ってたなんて
勉強不足でしたね
今は観光になってるんですね
アネッティさんの説明で勉強になりました。
この言葉は旅先で
よく実感しますね。
私が行ったのは昭和58年ですから
その翌年までだったんですねぇ。
応援ぽち
過酷な環境に設置されてますね
囚人の人数も多いし
看守も大変だったから
ここに配属されたら嫌だっただろうな。
レンタカーのスタッフのアドバイスは
素晴らしいですね。
何度も沖縄に行き
レンタカーを借りましたが
全く説明は無かったです。
そうなんです。よくできた人形で
一瞬ドキッとしますよ。
人形と解っていながら
近づいて撮るのもドキッとします。
翌日即ツタヤに行って
「網走番外地」借りてきました。
同感です。
20代で行ってきたんですね。
年代で感じ方が変わるのも
旅行の面白さですね。
救われました。
飛ばしてたら間違いなく狐を轢いてました。
囚人とはいえ何かしら切なくなります。
それに政治犯というのは、その時の政府にとって都合の悪い人たちであったのだろうし、冤罪も当然あったことでしょう。
道路のいたるところに埋まっていた囚人たちのお骨を、住民の方々により、手厚く葬られたということがせめてもの救いです。
なんか、とっても考えさせられた記事でした。
ありがとうございます。
赤レンガの建物と紅葉。。。
美しいだけに哀しいですね~
釧網本線の車窓風景が大好きでした。
夏も冬も…
そんな気持ちに私もなりました。
なぜかここを出るとき
こみ上げるものがあり
しばらく余韻に浸ってました。
家に帰って高倉健のDVDを借りに行きました。
いつも車なので
通り過ぎることが多いです。
でも今回は車も通ってなかったので
時折車を止めて撮影できました。