実家に1泊、翌日は義兄のお見舞いに行き、病院のすぐ隣にある、駿府城公園に行ってきました。
県庁と

市役所と

富士山

そして、駿府城公園
子供のころは毎日のように遊んでいた公園です。
と言うのも、今は無き母校のすぐ後ろがこの公園だったから


駿府城・・言わずと知れた、徳川家康が築城し、晩年を過ごした城です。
その駿府城、こんな記事がありました
駿府城には天正期天守、慶長1期天守、慶長2期天守と三度天守が建てられました。
天正期天守は天正年間(1573年〜1592年)または1589年(天正17年)に建てられた天守です。
次の慶長1期天守が、1607年(慶長12年)に建てられた天守で、この天守は完成後まもなく焼失しています。
最後の慶長2期天守は、1608年(慶長13年)から1610年(慶長15年)に再建された天守ですが、
1635年(寛永12年)に焼失して以降、再建されませんでした。
慶長2期天守の天守台は1896年(明治29年)まで現存しましたが、1896年(明治29年)の歩兵第34連隊の誘致に伴い、
解体されてしまいました。現在は天守跡として広場になっています。

昔、この場所には駿府会館と言う建物があって、静岡市ではこちらで成人式が行われました。
いろいろなコンサートもやりました。
大きな会場がなかった時代、ベンチャーズもビーチボーイズもここで見たはず、たしか・・・
その天守閣跡の発掘が始まりました。早速見学、といってもブルーシートと何か掘ってる・・くらいしかわからない



しかし、なかなかの工事のようです。



もしかしたら天守閣復元か?なんて噂もあるようです。
でもそうとうお金がかかるらしい、財政的にどうなんでしょうね。

私が子供のころにはなかったお城の一部再現


以前も紹介しましたが、改めて、我が母校”青葉小学校”

私が通っていた頃とは建物は変わりましたが、昭和30年前半にしては珍しかった、鉄筋コンクリート造りの最先端、
トイレも洋式ではなかったけど、水洗トイレでした。
もちろん給食も完備、外国から見学に来たくらいでしたから、自慢の小学校でした。
今回初めて発見したのですが、お堀側にこんな石碑が

”葵文庫”
学校のすぐお隣にあった歴史ある図書館でした。

1940年1月の静岡大火、1944年12月の大空襲、2度の大災害の中を必死で守り抜いてくれた先人のおかげで
その貴重な蔵書は、現在、静岡中央図書館に保管されています。
子供のころ、何も考えずに、そこにあることは当たり前と思って、気軽に入って行った図書館でした。

光の加減でわかりづらいけど、”校址碑”
そして感動の校歌碑

静岡県の校歌には必ず富士山が入ってますけど、静岡限定かと思ったら、横浜でも入っているところはたくさんあるようです。
「
富士も~ほほえ~む青葉が丘に・・」
懐かしくて胸がいっぱいになりました。
3番の歌詞にある「
のびよ楠の木た~く~ま~し~く」
この木のことです。

学校は駿府城の外堀と内堀の間にあります。
校庭の先はお堀上の土手、かっこうの遊び場でした。

今、こうして訪ねてみても、本当にいい環境の中で小学生時代を過ごせたんだなと幸せな時代に戻ってみたくなりました。
県庁と

市役所と

富士山

そして、駿府城公園
子供のころは毎日のように遊んでいた公園です。
と言うのも、今は無き母校のすぐ後ろがこの公園だったから


駿府城・・言わずと知れた、徳川家康が築城し、晩年を過ごした城です。
その駿府城、こんな記事がありました
駿府城には天正期天守、慶長1期天守、慶長2期天守と三度天守が建てられました。
天正期天守は天正年間(1573年〜1592年)または1589年(天正17年)に建てられた天守です。
次の慶長1期天守が、1607年(慶長12年)に建てられた天守で、この天守は完成後まもなく焼失しています。
最後の慶長2期天守は、1608年(慶長13年)から1610年(慶長15年)に再建された天守ですが、
1635年(寛永12年)に焼失して以降、再建されませんでした。
慶長2期天守の天守台は1896年(明治29年)まで現存しましたが、1896年(明治29年)の歩兵第34連隊の誘致に伴い、
解体されてしまいました。現在は天守跡として広場になっています。

昔、この場所には駿府会館と言う建物があって、静岡市ではこちらで成人式が行われました。
いろいろなコンサートもやりました。
大きな会場がなかった時代、ベンチャーズもビーチボーイズもここで見たはず、たしか・・・
その天守閣跡の発掘が始まりました。早速見学、といってもブルーシートと何か掘ってる・・くらいしかわからない



しかし、なかなかの工事のようです。



もしかしたら天守閣復元か?なんて噂もあるようです。
でもそうとうお金がかかるらしい、財政的にどうなんでしょうね。

私が子供のころにはなかったお城の一部再現


以前も紹介しましたが、改めて、我が母校”青葉小学校”

私が通っていた頃とは建物は変わりましたが、昭和30年前半にしては珍しかった、鉄筋コンクリート造りの最先端、
トイレも洋式ではなかったけど、水洗トイレでした。
もちろん給食も完備、外国から見学に来たくらいでしたから、自慢の小学校でした。
今回初めて発見したのですが、お堀側にこんな石碑が

”葵文庫”
学校のすぐお隣にあった歴史ある図書館でした。

1940年1月の静岡大火、1944年12月の大空襲、2度の大災害の中を必死で守り抜いてくれた先人のおかげで
その貴重な蔵書は、現在、静岡中央図書館に保管されています。
子供のころ、何も考えずに、そこにあることは当たり前と思って、気軽に入って行った図書館でした。

光の加減でわかりづらいけど、”校址碑”
そして感動の校歌碑

静岡県の校歌には必ず富士山が入ってますけど、静岡限定かと思ったら、横浜でも入っているところはたくさんあるようです。
「

懐かしくて胸がいっぱいになりました。
3番の歌詞にある「

この木のことです。

学校は駿府城の外堀と内堀の間にあります。
校庭の先はお堀上の土手、かっこうの遊び場でした。

今、こうして訪ねてみても、本当にいい環境の中で小学生時代を過ごせたんだなと幸せな時代に戻ってみたくなりました。