相変わらず天安門広場に通じる長安街では、学生、農民、市民、様々な人々がデモ行進を行っていた。
戒厳令が出されてもう随分経つが、別段日常生活に不都合はなかった。 そこで、昨日から、中国の輸出基地になる港湾都市を視察するため、土日を利用し天津に来ていた。
6月4日町中を歩いていると、路線バスの横っ腹に赤ペンキで「2,000人死了!」と書かれている。 何のことかと、近くで”アジ演説”をしている学生の話を聞いてみると、どうやら天安門広場に解放軍が侵攻、市民との間で大騒動が起こっているらしい。 一昨日まで、のんびりしたデモ行進を見物していただけに、にわかには信じられない。 ともかく北京へ急ぎ帰ろうと、天津駅へ行ってみると、公安がスクラム組んで駅舎を取り囲み、蟻の這い出る隙間もない。 外国人特権しかない。 パスポートを振りかざし、スクラムをすり抜け、北京行きの切符を買い込み列車に乗り込むと、いつもと変わらぬ汚く混んでいる車内、乗客も北京観光に行くと、なんとものんびりしたもんだ。 やはり、さっきの街頭の騒ぎはデマか?
ところが列車が北京駅へ滑り込むと、いつもとまったく違う雰囲気。 人がいない。 いつもは自分より大きい布団を担いで右往左往している出稼ぎ農民や、天秤棒で家財道具一切合切担いできたかとも思われる乗客らで溢れかえる駅は閑散としていた。 一歩駅前広場に出ると、歩道の柵は折れ曲がったり、壊されたり、路面のタイルは、おそらく投石に使われたのであろう、そこらかしこで剥がされ、壊され、尋常な状態ではなかった。 交通機関は完全に麻痺。 一般車両はおろか、北京名物トロリーバスや、連結バスも皆無。 勿論地下鉄も動いていない。
はて、北京西郊にある北京語言学院留学生宿舎第九楼までどうやって帰ろうか? 一日歩けば着くか? などと思案してみたが、いや、待てよ、こんなチャンスはない、いっそのこと、その事件が本当かどうか、自分の目で見てみようと思い立った。 ここから天安門まではそんなに遠くない。
行く道は、まあ何というか、いかにも動乱のあと、そこら中に煉瓦や石塊が転がり、乱雑そのもの。 人は極端に少ない。 天安門広場に近づくにつれ、乱雑の度合いはひどくなるばかり。 自転車で引っ張る荷台に怪我人を載せて走る人、あちこちに人の輪ができ、なにやらヒソヒソ話し込んでいる。
やがて天安門到着。 大勢の市民が広場を遠巻きに囲み、広場内はよく見えないが、どうも、兵士と装甲車で埋め尽くされているようだった。 時折、スピーカーから何か言っているようだが、何を言っているかまでは聞き取れない。 悲嘆にくれた老婆が、広場に罵声を浴びせるとと、広場からは空砲で応射する。 何とも言えない雰囲気が漂っていた。
どこか、もっと近づけるところはないかと、ほころびを探すように広場外周を回り始めた。
とある交差点で、バスが激しく燃えさかっていたので、見物していると、広場方面から群衆がわっと逃げ出してきた。 何事かと思っているウチに、「バッバッバッバッバッバッ・・・・」と激しい機関銃の発射音。 しかも今までのような空砲ではない。 建物に当たり鋭い金属音が炸裂する。 冗談ではない。 おそらく、水平撃ちではなく、斜め上方に威嚇射撃しているようだったが、現場ではそんな冷静に観察する余裕はない。 群衆に紛れて逃げまどい、銃声が遙か遠くに聞こえるところまで避難し一息ついた。 そこら彼処に、うち捨てられた車両や、がらくたが散乱し、普通の車はとても道路を走れない。 たまにそれらを縫ってバイクが走っている。 さすが中国人、こんな時でも、いや、こんな時だからこそ、バイクタクシーで荒稼ぎしようというい腹だ。 バイクが止まると、人が集まり、行き先を告げ値段の交渉が始まる。 当時、紙幣は二種類あり、外国人は「兌換券」と言う外国人向けの紙幣を持っており、通常の紙幣より高額で取り引きされていた。 その兌換券を水戸の御老公の印籠よろしく振りかざし、難無くバイクタクシーを高値落札乗車、宿舎へと急いだ。
学院では、各国毎に留学生の自治組織が結成され、今後の対策が協議されていた。 当時から、自国民保護のためには何でもしそうなアメリカの留学生がうらやましがられた。 また、対応が早かったのはやはり、福祉先進国北欧で、早い時期から大使館員などが留学生を保護し学外へ連れ出した。 ここで知り合った祖国の違う恋人同士は、お互いの大使館とも自国民しか保護しないと言うことで、離ればなれになるくらいならと、学院にとどまった。 TV、新聞、ラジオも完璧に報道管制が敷かれ、正しい情報は遮断されてしまった。 唯一得られる信頼できる情報と言えば、各国が海外向けに放送している国際短波放送だった。 日本はNHKラジオジャパン、普段は時間を区切って各国語で放送するのだが、このときは二四時間体制で日本語でニュースを放送していた。 国際電話もほとんど通じず、突然切れたり、明らかに盗聴されているようだった。 そんな中である朝、日本のテレビ局から突然電話インタビューを受けた。 福留アナウンサーからであった。 よくつながったモノだ。 これが組織力というものだろう。 盗聴されていることを前提に、当たり障りのない内容しか話せなかったが、日本ではライブで放送されたらしく、図らずも自身の無事を家族、親戚、友人へ知らせることとなった。 少ない情報をかき集めると、北京は軍隊に包囲されているようだった。 このため、食料品等生活必要物資が搬入されず、売店では、野菜、食品類がどんどん減りだした。 学内の食堂は営業していたが、日に日に品数が減り、特に野菜は、新鮮なモノがなくなった。 こういう閉鎖された環境で、情報も満足に入らないと、まもなく軍が各大学に侵攻する、軍同士の衝突が始まった等々とデマが蔓延し、精神的に参る者が続出、いち早く香港や他国へ避難する者、人間の本性と言うか、人としての大きさが試されるような、一種の極限状態と言えなくもない状況となった。 しかしまた、このよう状況で、共に助け合い、頑張った仲間は、固い絆で結ばれることにもなった。 そして一週間程経った頃だろうか、日本大使館もやっと重い腰を上げ「退避勧告」となった。 バスが手配され、窓には、誤射されぬよう大きな日の丸を貼り北京首都空港へ向かった。 あくまで勧告であるから、避難するしないは個人の判断、よって航空会社が飛ばす帰国のための臨時便の切符も正規運賃で購入しなければならない。 但し、さすがにこのときだけは後払いOKと言うことになった。 やれ、これで日本へ帰れると喜んだのもつかの間、ない、パスポートが。 どうやら広場近くで逃げまどっている際、落としたらしい。 大使館員へ事情を説明すると、やはり再発行を受けなければならないと言うことで、やむなく一人空港から市内の大使館へ戻ることになった。 大使館では、一通りお説教を頂き、本来なら警察署の紛失証明が必要だが今回だけは勘弁してやると有り難い温情処置で無事「帰国のための渡航書」なる一回こっきりの臨時の書類を下賜された。 これを持ち空港へ戻ると、既に学院の仲間達は出国したあと、貴賓室の絨毯で一晩過ごし、翌日JALの臨時便に乗り込み、車輪が滑走路から浮き上がった時には乗客から拍手がわき起こった。
今は昔のものがたりである