(01)
「(4)番目の記事」で「説明」したやうに、
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」である。
然るに、
(02)
①「地球上」には、「象だけ」でなく、「犬も、猫も、馬もゐる」。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 象がゐる=象はゐて(象以外はゐない)。
と、言ふのであれば、すなはち、
① 象がゐる=象はゐて(犬も、猫も、馬もゐない)。
と、言ふのであれば、
①(今、目の前に)象がゐる。
といふ、ことになる。
然るに、
(04)
はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)は、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で飼育されていたメスのアジアゾウである[1](ウィキペディア)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 象がゐる=
①(今、目の前に)象がゐる。
と言ふのであれば、その象は、例へば、
① はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)
である。
然るに、
(06)
①「はな子」は、{象}といふ{集合}の「要素」であって、それ故、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(02)~(06)により、
(07)
①(今、目の前に)象がゐる(現在形)。
だけでなく、
①(昔、動物園に)象がゐた(過去形)。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(07)により、
(08)
①(昔、動物園に)象がゐた。
だけでなく、
① 昔々、ある所に、象がゐました。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(08)により、
(09)
① 昔々、ある所に、象がゐました。
ではなく、
① 昔々、ある所に、象が住んでゐました。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(09)により、
(10)
① 昔々、ある所に、象が住んでゐました。
といふのであれば、
①「象」は、「An elephant」である。
然るに、
(11)
① 昔々、ある所に、象が住んでゐました。
に於いて、
① 象=お爺さんとお婆さん
といふ「代入(Replacement)」を行ふと、
① 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでゐました。
といふ、「桃太郎の、冒頭」になる。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 昔々、ある所に、象が住んでゐました。
に於いて、
①「象」は、「An elephant」であって、
① 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでゐました。
に於いて、
①「お爺さん」 と「お婆さん」は、それぞれ、
①「an old man」と「an old woman」である。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「公理(Axiom)」から、
① 昔々、ある所に、an お爺さんと an お婆さんは住んでゐました。
ではなく、
① 昔々、ある所に、an お爺さんと an お婆さんが住んでゐました。
である。といふ「定理(Theorem)」が、「演繹」される。
然るに、
(14)
昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
Long,long ago there lived an old man and an old woman.The old man went to the mountain to gather wood, and the old woman went to the river to do the washing.
然るに、
(15)
supecialpapasuさん2011/6/2400:05:52
大野晋の助詞「が」と「は」の区別に疑問有り。乞御教示
大野晋氏は助詞の「が」と「は」を
既知の旧情報には「は」
未知の新情報には「が」
という風に区別しましたが、これについて少し疑問があります。
上の「が」と「は」の区別の例としてよく「昔々あるところに・・・」という昔話の始まりの定番文句が出されますが、これについては納得します。「あるところにおじいさんとおばあさんが~」という時の「おじいさんとおばあさん」は物語の上で初登場なので未知の新情報「が」が用いられ、次の「おじいさんは山へ~」ではすでに「おじいさん」は物語に登場しているので既知の旧情報「は」を用いる。
従って、
(14)(15)により、
(16)
確かに、
① お爺さんが=Tan(未知)old man であって、
① お爺さんは=The(既知)old man である。
然るに、
(17)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
のではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、「桃太郎の昔話し」と「話し」が「逆」である。
然るに、
(18)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
ではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、日本人であれば、
② お爺さん(は)川へ洗濯に、行きました。
とは、言はずに、
② お爺さん(が)川へ洗濯に、行きました。
といふ風に、言ふはずである。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
① The old man went to the river to do the washing.
② お爺さん(が)川へ洗濯に、行きました。
に於いて、
①=② である。
従って、
(19)により、
(20)
① The(既知)old man
② お爺さん(が)
に於いて、
①=② である。
従って、
(16)(20)により、
(21)
① お爺さんは=The(既知)old man である。
② お爺さんが=The(既知)old man である。
である。
従って、
(15)(22)により、
(22)
「が(未知)」=「The(既知)」
といふ「矛盾」が生じるものの、この点について、onomameus、すなはち、このブログのオーナーである私が、「ヤフー!知恵袋」に「質問(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12161805952)」したところ、私が選んだ「ベストアンサー」は、
ベストアンサーに選ばれた回答は、
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fdgxm822さん 2016/7/1918:49:26
既知;未知という説明は 大抵の場合に当てはまるので、
不定冠詞;定冠詞 で表すことができますが、
当てはまらない場合もあります。
例に挙げたのがそれで、また別の原理が働いているのです。
といふのが、「その回答」である。
従って、
(18)(22)により、
(23)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
のではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、日本人であれば、
② お爺さん(は)川へ洗濯に、行きました。
とは、言はずに、
② お爺さん(が)川へ洗濯に、行きました。
といふ風に、言ふはずである。
とするのは、一人、私だけではない。
然るに、
(01)により、
(24)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」である。
然るに、
(25)
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
といふのであれば、
② お爺さんが川へ洗濯に行きました=(お爺さん以外ではない所の)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
といふ、ことになる。
従って、
(14)(25)により、
(26)
② お爺さんが川へ洗濯に行きました=(お爺さん以外ではない所の)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
といふのであれば、
② お爺さんが川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
といふ、ことになる。
従って、
(14)(17)(26)により、
(27)
② お爺さん( )川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
に於ける、
② ( )の中に、
② 「が」が入る「理由」は、
②(桃太郎の場合とは「逆」に、お婆さんではなく)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
といふことを、言はんがためである。
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
② I said fifteen, not fifty(私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない).
と言ふ場合は、
② I said fifteen の、
② I said fifteen が、「強く発音(www.berlitz-blog.com/put_emphasis)」される。
従って、
(27)(28)により、
(29)
②(お婆さんではなく)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
と言ふのであれば、
② 「お爺さん」を、「強調(大きな声で言ふ)」ことは、「当然」である。
然るに、
(30)
①「お爺さんは」の「は」は、「清音」であって、
②「お爺さんが」の「が」は、「濁音」である。
然るに、
(31)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(32)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
②「お爺さんが」の「が(濁音)」方が、
①「お爺さんは」の「は(清音)」よりも、「心理的な音量」が、「大きい」。
(27)~(33)により、
(34)
② お爺さん( )川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さんが川へ洗濯に行きました。
に於ける、
② ( )の中に、
② 「が」が入って、
② 「は」が入らないのは、「当然」である。
(35)
次回以降の「予定」⇒「お前が言うな!」の「が」について。
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