日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(6)「古文と漢文とギリシャ語」の「強調形」と、「排他的命題」について。

2018-03-14 14:19:45 | 「は」と「が」
(01)
「(4)番目の記事」で「説明」したやうに、
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)ABである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であるとし、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
然るに、
(02)
[のみ]
他の事柄を排除して、ある事柄だけに限る意味を表はすと同時に、ある事柄を取出して、それを強調する意味に用ゐられる
(時枝誠記、日本文法 文語編、2005年、236頁)。
然るに、
(03)
他の事柄排除して、ある事柄だけに限る意味を表はすと同時に、ある事柄を取出して、それを強調する意味に用ゐられる。
といふことは、
ある事柄を「強調」し、他の事柄を「排除」して、ある事柄だけに限る意味」を表はす。
といふ、ことである。
従って、
(03)により、
(04)
① AのみBなり=
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(04)により、
(05)
「のみ」といふ「古語」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(06)
(3)惟婦言是用(これ婦人をこれ用ふ)。
のやうな「漢文」に於ける、
(3) 惟 に関して、
この強調する語気の「惟」は、次第に、専一・単独などの意味を表わす副詞として用いられるようになり、多く「」と書かれるようになっている。それで右の例(3)の「惟」は、「タダ」と読んでいる人もある(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、310頁)。
従って、
(06)により、
(07)
② 惟婦言是用=
タダ婦の言、是れを用ふ=
② 婦人の言を用ひ(婦人の言以外は用ひない)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(07)により、
(08)
「惟」といふ「漢字」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
(09)
(4)人称代名詞の主格は、特にそれが強調される場合以外には用いられない。
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(Isay)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(09)により、
(10)
εγω λεγω,συ δε γραφειs.
say ,but you write.
に於いて、
εγω λεγω,συ
は「強調形」である。
加へて、
(11)
εγω λεγω,συ δε γραφειs.
といふことは、
③ 私は言ひ、私以外(汝)は言はない
③ 汝は書き、汝以外(私)は書かない
といふことである。
従って、
(01)(10)(11)により、
(12)
「εγω,συ」といふ「ギリシャ語の人称代名詞」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(05)(08)(12)により、
(13)
「のみ(古文)、惟(漢文)、εγω(ギリシャ語)」に於いて、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(14)
強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。といふことには、「必然性」があるに、違ひない。
然るに、
(15)
④ これは私の本です=
④ これは私の本であって、私以外の本ではない
といふことを、「強く主張」する場合は、
④ 私 といふ「語」を「強調」することになる。
(16)
⑤ 彼が犯人です=
⑤ 私ではなく、彼(私以外)が犯人です。
といふことを、「強く主張」する場合は、
⑤       彼 といふ「語」を「強調」することになる。
然るに、
(17)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(18)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
① AはBである。
② ABである。
に於いて、
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
② A音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
従って、
(16)(19)により、
(20)
⑤ 彼( )犯人です=
⑤ 私ではなく、彼が犯人です。
に於いて、
⑤ 彼() であって、
⑤ 彼(は) でないことを、当然である。


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