(01)
① 無人不道看花回=
① 無二人不一レ道二看レ花回一=
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}⇒
① {人[〔(花)看回〕道]不}無=
① {人として[〔(花を)看て回ると〕道は]不るは}無し=
① どんな人も、花を見て帰るところだと言わないものは無い(孟棨・本事詩)。
(02)
② 無人不道看花回=
② 無レ人不レ道二看レ花回一=
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]⇒
② (人)無[〔(花)看回〕道]不=
② (人)無くんば[〔(花を)看て回ると〕道は]不=
② 人がいなければ、花を見て帰るとは言わない(作例)。
然るに、
(03)
① どんな人も、花を見て帰るところだと言わないものは無い(孟棨・本事詩)。
② 人がいなければ、花を見て帰るとは言わない(作例)。
に於いて、
①=② ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(05)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
『管到』が異なるが故に、
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}⇔ 人として花を看て回ると道は不るは無し。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]⇔ 人無くんば、花を看て回ると道は不。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
に於ける、
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]。
といふ、『括弧』は、すなはち、『補足構造』であり、『補足構造』は、すなはち、『管到』である。
従って、
(08)により、
(09)
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
といふ「漢文」に、『補足構造・管到』があるのであれば、
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
といふ「漢文」は、
① { [ 〔 ( ) 〕]}。
② ( ) [ 〔 ( ) 〕]。
といふ『括弧』が、有ることになる。
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それと同時に、昨日横浜市長選で勝利を収めた山中竹春氏の以下の所信表明も列挙させていただきましょう。
「文系から理系に移ったのはなぜか」との問いに、「データに語らせて、その結果に基づき意思決定していくアプローチは様々な問題に有効であり、そこには文系も理系もないのではないか」と答えている。
この山中氏の表明が、今後の市長としての活躍に如何に繋がるのか、見ものであります。