なんとこのブログの更新も半年ぶりである。
このブログを始めてからこんなことは初めてである。
ちゃんとしろ!
ツイッタ―やFacebookに夢中になりすぎた。
自分の近況を伝えたり、疑問点や問題点などにも答えてもらえたり、
またちょっとしたことを記述するにも手軽なので、ついついそれに
頼ってしまっていた。
もともと私はブログではひとつのテーマを決めてそれについて書く、
というスタイルでやっていた。エッセイしか書かないけど、
エッセイにはエッセイのレトリックがあるし、最後のオチをどこに
もってゆくかなどそれなりに真面目にやっていた。
一話で終了できないこともあるし、結構骨の折れる作業だった。
読者を気にしたりするほどの読者数はないのだが、それでもやはり
充実感はあった。
日常は流れゆくものだ。Facebookを始めてちょうど1年たった今、
自分が1年間どんな文章を投稿してきたのかあまり覚えていない。
ツイッタ―もFacebookもあまりに気軽に、そして無目的に発言できる場なので、
自分の意見や何もかもあまりに無作為に流れてしまう。
一方でブログは始めて5年以上経つのだが、大体の内容は覚えている。
今後はお知らせや作品紹介などに絞ってFacebookを使用し、
自分の意見などは基本的にブログで書こうと思っている。
いずれにせよ、しっかりとした意志をもって発言すべきだと思う。
そう思ったひとつのきっかけは、最近、大塚愛さんのツイッタ―が
とんでもツイートとして炎上しているという記事をFacebookで見つけたからだ。
彼女の発言への賛否についてここでは語るつもりはないが、
一人の女性、母親、人間としての発言が、これほどまでに
大きな問題となっているネット社会の怖さを感じる。
ちゃんとした意志をもつ発言が、これほど物議をかもし、
異常扱いされる現状こそ私は異常だと思う。
もちろんブログのコメントでは、いろんなコメントをいただくこともある。
でも、お互いに公に向けて言葉を発信する立場の人たちなのなら、
もっとちゃんとしたかたちでお互いが発言しあえばよいのではないか。
私は誰もが発信者たりうることに異論をとなえるものではない。
でも人は人の意見をきき、理解し、同意するにせよ、反論するにせよ、
対話という条件の中で発言すべきであると思う。
あまりに無作為で本能的に数の論理にたよってしまっている人が
見受けられるがゆえ、こういうルールは私の古い価値観なのかと思ってしまう。
相手の立場を理解する姿勢が微塵も感じられないものが多すぎる。
反原発だといえば、左翼だ!
原発推進といえば、右翼だ!
本当に子供の未来を思うなら、そういう通りいっぺんなカテゴライズ思想で
大丈夫か、自分の利権じゃなくて本当に子供のこと考えているといえるか。
社会についてどうのこうのいう資格はあるのか。政治家やネットに騙されていないか。
震災以来、その傾向はますます強くなってきているように思う。
言論統制に対する危惧がさけばれる一方で、マスコミはしっかり事実を
伝えているのか、捏造はないのか。
川崎市の少年が殺害された事件で、犯行をおかした未成年の少年が実名の顔写真付で
報道されていたりしているが、これははっきりいって現行の法律違反である。
発禁のヌード写真を高い値段でうっている業者と同じだ。
ネットではそれがただでばらまかれている。その分たちが悪い。
ただより高いものはない。
自分はくだらない無価値の情報や発言を公に垂れ流すようなことはやめよう。
自戒の気持ちでこの記事を書いた。
ちゃんとしろ!俺よ、といいたかった。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト
このブログを始めてからこんなことは初めてである。
ちゃんとしろ!
ツイッタ―やFacebookに夢中になりすぎた。
自分の近況を伝えたり、疑問点や問題点などにも答えてもらえたり、
またちょっとしたことを記述するにも手軽なので、ついついそれに
頼ってしまっていた。
もともと私はブログではひとつのテーマを決めてそれについて書く、
というスタイルでやっていた。エッセイしか書かないけど、
エッセイにはエッセイのレトリックがあるし、最後のオチをどこに
もってゆくかなどそれなりに真面目にやっていた。
一話で終了できないこともあるし、結構骨の折れる作業だった。
読者を気にしたりするほどの読者数はないのだが、それでもやはり
充実感はあった。
日常は流れゆくものだ。Facebookを始めてちょうど1年たった今、
自分が1年間どんな文章を投稿してきたのかあまり覚えていない。
ツイッタ―もFacebookもあまりに気軽に、そして無目的に発言できる場なので、
自分の意見や何もかもあまりに無作為に流れてしまう。
一方でブログは始めて5年以上経つのだが、大体の内容は覚えている。
今後はお知らせや作品紹介などに絞ってFacebookを使用し、
自分の意見などは基本的にブログで書こうと思っている。
いずれにせよ、しっかりとした意志をもって発言すべきだと思う。
そう思ったひとつのきっかけは、最近、大塚愛さんのツイッタ―が
とんでもツイートとして炎上しているという記事をFacebookで見つけたからだ。
彼女の発言への賛否についてここでは語るつもりはないが、
一人の女性、母親、人間としての発言が、これほどまでに
大きな問題となっているネット社会の怖さを感じる。
ちゃんとした意志をもつ発言が、これほど物議をかもし、
異常扱いされる現状こそ私は異常だと思う。
もちろんブログのコメントでは、いろんなコメントをいただくこともある。
でも、お互いに公に向けて言葉を発信する立場の人たちなのなら、
もっとちゃんとしたかたちでお互いが発言しあえばよいのではないか。
私は誰もが発信者たりうることに異論をとなえるものではない。
でも人は人の意見をきき、理解し、同意するにせよ、反論するにせよ、
対話という条件の中で発言すべきであると思う。
あまりに無作為で本能的に数の論理にたよってしまっている人が
見受けられるがゆえ、こういうルールは私の古い価値観なのかと思ってしまう。
相手の立場を理解する姿勢が微塵も感じられないものが多すぎる。
反原発だといえば、左翼だ!
原発推進といえば、右翼だ!
本当に子供の未来を思うなら、そういう通りいっぺんなカテゴライズ思想で
大丈夫か、自分の利権じゃなくて本当に子供のこと考えているといえるか。
社会についてどうのこうのいう資格はあるのか。政治家やネットに騙されていないか。
震災以来、その傾向はますます強くなってきているように思う。
言論統制に対する危惧がさけばれる一方で、マスコミはしっかり事実を
伝えているのか、捏造はないのか。
川崎市の少年が殺害された事件で、犯行をおかした未成年の少年が実名の顔写真付で
報道されていたりしているが、これははっきりいって現行の法律違反である。
発禁のヌード写真を高い値段でうっている業者と同じだ。
ネットではそれがただでばらまかれている。その分たちが悪い。
ただより高いものはない。
自分はくだらない無価値の情報や発言を公に垂れ流すようなことはやめよう。
自戒の気持ちでこの記事を書いた。
ちゃんとしろ!俺よ、といいたかった。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト