シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

階梯者イオアンの主日

2007-03-18 23:59:59 | 正教会及び宗教全般
福音箇所はマルコ9:17~31、汚れた霊にとりつかれた子をいやすところ。
あの不朽の言葉w「信じます。不信仰な私をお助けください」が出てくるところだ。
「信じる」って「信じられる」のとは違うと思うんだよね。
単に知識を積み重ねただけでは「信じられる」とこまでいかない。
「信じよう」って、エイって決断する瞬間が必要なんじゃないかって。
いやまあ別に信仰するものなんぞなくとも生活に何の不便もあるじゃなしいいんだけど(ここでは来世の話はおいとくね)、いみじくもいとうせいこうが言ったように、自分なんかが理解できないほどの対象があることで、自分を開くことが出来る。つまり固定化した自分の価値を揺るがすことが可能なわけで。
それって結構面白い体験なのね。
面白いとか言ったら不謹慎だとか張っ倒されそうだけども。
なんか話がズレてきたような気がしないでもないが、この言葉は、エイって飛び込もうとする人に対しては心強い応援メッセージだし、ともすれば神に依り頼む気持ちを忘れがちなあてくしを原点に引っ張り戻してくれるありがたい言葉なのだ。

ところで「大斎の意味」には階梯者イオアンの主日について
「この主日の早課の第一のカノンは、善きサマリヤ人の譬えを基礎としている(ルカ10:30-35)。
すなわち、悔い改めるクリスチャンは襲われた人に似ている。」
とあって、普通、親切なサマリヤ人の話を読むときは自分を祭司やレビ人に重ねたりするもんだけどふーん、襲われた人に重ねるのか、面白い読み方だな、と思っていた。
というか、それで流してた。
でも土曜日に早課誦んでて
「救世主ハリストスよ、諸欲は我よりなんじのいましめを剥ぎて、我逸楽に傷つけられたり。祈る、我に慈憐をそそぎたまえ」
とか、
「我は盗賊たる我が思いによりて諸罪の傷をもって我が生命を損なえり。ゆえになんじ仁愛なる神の神聖なる像を剥がれたり。祈る、我を憐れみたまえ」
とか、
「主宰よ、我無智にしてなんじのいましめを守らず、逸楽の諸欲に陥りて、恩寵を剥がれ、傷つけられて、裸体にして捨てられたり。ゆえになんじに祈る、救世主よ、我を救いたまえ」
なんて誦みすすめるうちに、ひとつの聖句が頭の中で形になった。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。
神よ、あなたは、それをさげすまれません。」
(詩篇51:17)
罪に砕かれて、ボロボロになって横たわっている時、ハリストスが優しく手を伸ばして助け起こしてくれるイメージ。
なるほどこういうことだったのか。
ちょっとだけ三歌斎経の意図するところがわかったような気がした。