シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

イエス・キリストと家族の墓!?

2007-02-28 09:28:48 | ニュース、時事
イエスの墓と「信じている」 キャメロン監督会見(共同通信) - goo ニュース

いやー昨日こんなニュース出まくってたのね。
ハンカチ王子どころじゃないだだだ大ニュースではないか!!!
リンク先にはそれほど詳しく書いてないけど、毎日、朝日などによると以下のとおり。

映画「タイタニック」などの監督として知られる米国のジェームズ・キャメロン氏らが26日、ニューヨークで記者会見し、1980年にエルサレム郊外で発見された約2000年前の墳墓がイエス・キリストと家族の墓である可能性があるという内容のテレビ・ドキュメンタリー番組を制作したと発表し、石製の骨箱の一部を公開した。
エルサレム南郊の墳墓内から発見された10個の石製骨箱に「イエス ヨセフの息子」「マリア」「ユダ イエスの息子」などの名前が刻されていることなどを根拠にイエス・キリストの家族の墓の可能性があると結論づけている。
 「マリアムネ」と記された骨箱もあり、番組制作に参加した学者らはイエス・キリストの復活を見とどけた「マグダラのマリア」の可能性があると指摘。「ユダ イエスの息子」がイエスとマグダラのマリアの子どもである可能性にも言及した。

これ何てダヴィンチ・コード?(笑

もちろんあてくしは、キリストは昇天したと思ってるし、マリヤにしても、遅れてきたトマスが墓を開けたら墓は空っぽだったんで天に挙げられたと思っとる。
どっちも体ごと天に挙げられたんだから骨はないわけよね。

でも、それはそれとして面白そうな話は大好きだあ~。
前にも書いたけど、青森にあるキリストの墓とか、モーゼの墓とか。
これがオンエアされたら、第二弾企画として『青森のとどっちが真の遺骨か対決』ってのはどうだ。

ともかく
  ∧_∧  +
 (0゜・∀・)   ワクワクテカテカ
 (0゜∪ ∪ +
 と__)__) +
日本でも早く流してくれい。

みみっくVOW15

2007-02-27 21:06:13 | みみっくVOW
中標津にあるとある温泉施設にて。
う~んこういう便乗商品って容赦なく出るよね~。
本人は口には出さないけど
「いつまでもハンカチハンカチ言うなゴルァヽ(*`Д´)ノ」
って思ってるんじゃないかなー。
大学行っても何かと注目あびると思うけど、気にせずがんがってもらいたいものだ。

というか、何故これが中標津に…彼は群馬出身だがw

今日は何の日3

2007-02-26 17:33:20 | いろいろ
ふっふー♪

今日はかの「2・26事件」の日であるね。
そういえば「226」なんて映画があって、添乗先の札幌で見たよ。
卒業して国内旅行の添乗員やってた平成元年の話。
本木雅弘が出てたのと、キャストがゴジャースで堪能したことしか覚えてないんだけど、五社英雄監督だったんだね。
あの頃は月に4~5日しか東京にいなかったから、添乗先でフリータイムがあると、その間に買い物や洗濯、他には美容院行ったり、映画見たりしてたんだ。
この仕事、三食温泉つきですごーく楽しかったけど、おかげで腰を悪くした…

いきなり脱線したが、今日は他にも、1860年、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着した日でもあるし、1815年、エルバ島に流刑されていたナポレオンが島を脱出してパリに向かった日でもある。
またパナマ運河開通記念日(1914年)、血液銀行開業記念日(1951年)でもあるんだって。
日本ブラッドバンクって後のミドリ十字だよねえ。ふううむ。

今日が誕生日の有名人も今日が命日の有名人もいっぱいいるけど、一番ワロタのが、例の「おふくろさん騒動」の川内康範氏がいたこと。
上に出てきた五社英雄監督も。
ひょっとして誕生日の事件だからあの映画撮ったのか??
ちなみに山下洋輔氏も1942年の本日ご誕生遊ばされました。
この日を大いにコトホギ、末永いご発展をお祈り申し上げる次第にゴザマース

記憶の聖人は、おお、プリスキラとアキラがこの日か。後はよく知らないなorz

そして今日は何といってもダンナの誕生日(*´∀`*)
二人とも大斎に重なることが多い時期でとほほなのだが、とりあえず、鍋でもしてコソーリお祝いしようかと。

正教勝利の主日

2007-02-25 23:30:12 | 正教会及び宗教全般
正教勝利の主日でぐぐったら、昔自分が2ちゃんねるに書いたのが見つかった。
この時も斜里巡回だったんだなあ(つっこみはそこかい

正教勝利の主日という名称は、イコン論争にけりがつき、教会にイコンが復帰したのが843年の大斎第一主日だったことに由来する。
歴史的な意味合いもさることながら、聖像論争に正教が勝利したのは、大多数の信者が真実のために、捕囚と拷問とそして死さえもいとわないという覚悟をしたからであり、我々が修道的な意味において致命者にならおうと努力すべきことを大斎の課題として教える、という精神的な意味合いもあって、この記憶日は大斎第一主日に固定された。

その前にイコン(聖像画)についてなんだけど、イコンは偶像ちゃいますのん?と言う疑問は昔からあって、皇帝が禁止令を出したのが730年のこと。
この聖像禁止令は当時のキリスト教界にものすごい論争を巻き起こした。
論点はふたつ。

イコンは偶像か?
神は描いてもいいのか?

前者については、イコンは、それ自体を拝むわけではなくてあくまで「イコンに表されているものを思い起こす」ためのものであり、敬意ははらわれるけれども崇拝の対象ではない、という考え。
家族や彼氏の写真に置き換えて考えると分かりやすいかと思う(ウィキペディアにも『恋人の写真』とか書いてあってワロタ)。
後者については、もちろん神・父は誰も見たことがないので描けないけれども、神・子であるキリストは人となって、つまり誰にでも見えるような姿でこの世におられた。
だから当然描写の対象となりうる、というわけ。
また聖伝には、エデッサのアブガル王が主の肖像を欲しがった時にキリストが顔を拭った布を送ったところ、その布にはくっきりと主の御顔が、という話が残っており、こりゃあおんみずからいいって言ってんじゃん、というわけで。(ヴェロニカの布の話もあるよね)

ともかく787年の第二ニケヤ公会議において上記の教義が認められ、これで晴れてイコンは日の目を…と思ったら、815年に再び聖像禁止令がorz
しかし先の運動よりも盛り上がることはなかったらしく(もう公会議では認められてるしね)843年の大斎第一主日にめでたく復帰の運びとなった。

ところで今日の福音箇所はヨハネの1:43~51、ピリポとナタナエルを弟子にするとこなんだけど、どちてこの箇所なんだろう?

合唱とあてくし(釧路編・後編)

2007-02-24 23:30:35 | 音楽(主に合唱)
指揮者の小飼先生はとぉーーーーっても優しい。
一度たりとも声を荒げたことがない。
いつもほんわか。
でも何だかみんなノセられて、だんだんまとまっていく。
こういう教え方もあるんだな~。
何たってマエストロ郡司の、あのおっそろしいビシバシ指導に慣れちゃってるからな。
たまにある直子先生や北村先生のボイストレーニングは、楽しくてよくわかる、って感じだったけど。

「みみっく(仮名)さん、日曜日は教会だよねえ?」
「はいー、そうです」
「今度東京から講師の先生が来て合唱の講習会があるんだけど」
「へえ~」
チラシ見てびっくり。

講師は直子先生だった。

「行きます行きます、教会終わったらすぐ行きます!」
幸いその日は代式祈祷だったので、終わるやいなや駆けつけた。
わーん釧路で直子先生の指導が受けられるなんてー。
オラ研は大所帯だったし、私のことなんて知らないのはわかってたけど、思わず休憩時間に寄ってって挨拶してしまった。
でもこっちでも歌っているのをとっても喜んでくれて嬉しかった
(*´∀`*)
直子先生のHP「近藤直子インフォメーション」
http://www.adachi.ne.jp/users/naokoinf/index.html

レクイエムはともかく、「水のいのち」は初めてなので難儀した。
ふつーに合唱やってる人には割におなじみのようなのだが、なんせホラ、聖歌と第九とオケつきの宗教曲しかやってないもんだから…
これって結構変わった合唱歴なのかもorz

12月4日、演奏会無事終了。
あー、突発事態が起きなくてヨカタ。
埋葬式なんてあったらそっち優先だからね。
久しぶりにステージに乗れてとてもとても嬉しかった。
タイミング的にも、釧路に来て何年か経ったあとでよかった。
これで来たばっかの時だったら、何かとバタバタしててそれどころじゃなかったかもだし。
これは神様の有難いおはからいですよこれは。
わかってくれてたんだなあ、有難いなあ、とひたすら感謝するみみっくであった。

去年の12月「あー、演奏会があってから1年たったんだあ…」としみじみ感慨にふけった。
「なんかまた、助っ人募集とかないかなあ…」

そして今日。
釧路教会のレーゲントが出演する演奏会があったので出かけた。
斜里巡回の日だから晩祷ないし。
入り口でパンフレット貰って、席ついて見始めたら、
「第九を歌いませんか?」

マタキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!

合唱とあてくし(釧路編・前編)

2007-02-24 23:23:34 | 音楽(主に合唱)
釧路に来たのは2001年8月も終わりに近い頃だった。
こっちでも機会があったら歌いたいなあ、とは思っていたけれど、まーともかく生活に慣れんことにはしょうがないし、とりあえず教会では歌えるわけだし、と思っているうちにどどーっと日々が過ぎていった。
気がつけば市内にも結構合唱団があって、合同で合唱祭なんてのもやっているぐらい、まあまあ合唱も盛んなようなのだが、宗教曲ばっかやっているところはそうそうないわけで、んー、個人レッスン受けようかなあ、なんて逡巡したりもして、そうこうしているうちにこれまた日々は容赦なくどどーっと過ぎていくのであった。

そんな2005年1月。

道新を見ていたらスバラシイ記事を発見した。
釧路混声合唱団で創立40周年記念演奏会に、モーツァルト「レクイエム」と高田三郎「水のいのち」をやるけど今いる団員だけでは足りないので歌ってくれる人を募集します、という記事だった。

キタキタキタ━━━━━(゜∀゜≡゜∀゜)━━━━━!!!!

ものすごい勢いでダンナに詰め寄って「コレ歌っていい?いい?いいよね!?」と、前の年の大斎にKitaraまでマタイ聴きに行くとき以来のお願いをしてめでたくお許しをいただき(怒涛のがぶり寄りで押し出し、とも言ふ)さっそく「この曲は何度か歌っとります。決して足を引っ張ることは致しやせん。どうか混ぜてくだせえおねげえしますだ」とメールを出した。

そして3月。練習初日。
受付で「あれ、みみっく(仮名)さんですよね?」と聞かれた。
えー、いつの間にあてくしはそんな有名人に?と思ったら、少し前に埋葬式で聖歌奉仕をした方のご親戚だった。世間は狭い。

大斎第一週間金曜日

2007-02-23 17:07:52 | 正教会及び宗教全般
ああーびっくりした。
銀行に行った時、左折しようとしたら歩道を爆走してきたらしい自転車のおじいさんを危うくひっかけてしまいそうになった。
おじいさん申し訳ありませんでした<(_ _)>
ここんとこあったかくてずいぶん融けてきたけれど、まだ道の角々に雪の山がそびえていたりするので、この時期はいつもより慎重に運転しなければならない。
気をつけてはいたつもりだが、やはりどっか気持ちが散漫になっていたようである。
いかんいかん。

さて、今日は大斎の平日に誦まれる旧約聖書について。
この時期聖詠(詩篇)が誦みたおされる。
もちろん普段の祈祷にも聖詠は組み込まれていて、特に五十聖詠(詩篇51章)なんかはよく誦まれるんだけども、この時期、量がとてつもない。
「大斎の意味」によれば、各週全部の祈祷をとおして2回ずつ通読することになるんだそうな。
画像は聖詠の作者(とされる)ダビデ王。
竪琴持ってるイコン出したかったけど、現代イコン画家のが多くて権利関係ヤバスな感じなので…

それから、六時課でイザヤ書、晩課で創世記と箴言が受難週を除いて(受難週にはまた別の旧約が誦まれる)通読される。
これらは旧約聖書の三つの主要なカテゴリーである
●歴史書
●預言書
●知恵文学
を代表するものである。
またそれだけではなくて、
○創世記は、三歌斎経を一貫するモチーフである、人の堕落と楽園からの追放を記している。
○イザヤ書は、悔い改めと斎への呼び掛けをもって始まっている。
○箴言による倫理的な学習は、大斎が道徳的な努力の時期であるということを思い起こさせる。
というふうに、大斎にふさわしいものとしても、これらが選択されている。

でも、いいですよ。音読。
去年もイザヤ書かなんか誦んだ時ブログに書いたけど、ふつーに読むのとまた違う感覚があって。
目と耳と口で吸収する分、心に響く度合いがおっきいっていうのかな。
脳の活性化にもなるしw

今週末は斜里で聖体礼儀だから、釧路は今日で初週一段落。
お祈り三昧で献立ヤッツケだったから、来週以降はもうちょっと工夫できるかな。

大斎第一週間木曜日

2007-02-22 22:00:43 | 正教会及び宗教全般
晩課誦みながら、「んぁ!?」と思わず見直してしまった箇所があったので。

「我らエギペトよりせずしてシオンより来る神聖なる『パスハ』にあずからんと欲して、痛悔をもって罪のパンだねを断ち、逸楽の情を殺すをもって我が腰を束ね、およその悪道を妨ぐる履(くつ)をもって足を飾り、信の杖をもって己を固め、主宰の十字架の敵にならいて腹を神とせず、すなわち斎をもって悪魔に勝つことを我らに示しし我がたましいの救主に従わん」(挿句の讃頌)

この「パンだねを入れない」「腰を束ねる」「くつを履く」「杖を持つ」っていうのは出エジプト記の12章、過ぎ越しについての神のお告げからとってある。
ちなみに画像はこの後に出てくる出エジプト記の14章、映画「十戒」で有名な、紅海を分けるモーセ。カコイイぞw

イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。
神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。
そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。
その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。
神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。
つまり、「過ぎ越し=ペサハ(ヘブライ語)」という名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。(ウィキペディアより引用)

でも私たちがあずかろうという『パスハ(=ロシア語)』は旧約時代の過ぎ越しではなく新しい『パスハ』。
人間が、この世の生命の終わりから来世の生命へ過ぎ越すということがキリストの復活により可能となった、そのことを喜び祝う復活祭のこと。

あー、えーと、長々説明したけれども、いやこの奥義も感動モノなんだけど、何にギックリしたかっていうとそこじゃなくて、
「腹を神とせず」
ってとこ。
う~ん、食いしん坊ってことは、腹を神としてるってことなんだよな_| ̄|○

大斎第一週間水曜日

2007-02-21 22:55:28 | 正教会及び宗教全般
今日はちょいとしたハプニングがあった。
もう祈祷もたけなわで、晩課の「主やなんじに呼ぶ」も終わりにさしかかり、サテ誦経の続きをと思ったとき背後に人影。
「すいませ~ん、現金書留なんですけど」
え?ハンコ?え?ペン?
とっさのことにアワアワしていたら代わりに誦む声が聞こえてきた。
おお、なんちゅうか絶妙の連携プレー、と思いながらサインして書留受け取って、区切りのよさそうなところで流れるように引き継いだ。
なんたって皆さん年期入ってるからな~。さすがである。

これまでだって宅配便とか来たことあるけど、自分が誦経してる時ってのはなかったからなあ。
いや、何を言っても言い訳だ、やっぱり心の修養が出来とらんorz

さて、アンドレイの大カノンについて。
先に「大斎の意味」を引用した中に、
『<略>同時にそれは、この世の創造からハリストスの到来までのすべての罪人、すべての義人を含んだ聖書の登場人物全体の瞑想でもある。』
とあったが、本当にこのカノンを聞いていると、聖書の中の様々なシーン、様々なエピソードがまるで走馬灯のように、ちょと違うか、オムニバス映画のようにあざやかに思い起こされる。
例えば、
「太祖がマムブリイの樫の木の下に天使らを饗応して…」
と聞けばイコンの図柄としても有名な「アブラハムと三天使」を思い出すし、
「主宰よ、我頑ななるによりて頑ななるファラオンのごとくなれり」
と聞けば、エジプトのファラオがモーセをはじめとするイスラエルの民に対してどんだけ頑なだったかを思い出すというふうに。

そして重要なのは、
『この大カノンでは「歴史」と「個人」という二つのレベルが巧みに織り合わせられている。』
とあるように、これらの出来事が「私」のこととして語られていること。
「我は我が思いをもって盗賊に遭いし者なり、今全身彼らに打たれて、傷に蔽われたり<略>司祭は我を見て過ぎ、レヴィトも我が禍の中において裸体なるを見て棄てたり」
なんてところではあの、親切なサマリヤ人に助けられる前のボロボロの、盗賊にあった人が「私」の姿として語られている。
かと思えば、
「我カインの殺害に越えたり」
なんて。人殺しよりひどい罪ってどんなんだよorz

歴史をたて糸、個人をよこ糸として、まあ逆でもいいんだけど、そうして織り上げられたタペストリーのようなこの大カノン。
明日でおしまいなのが残念なような、寂しいような。

大斎第一週間火曜日

2007-02-20 22:15:04 | 正教会及び宗教全般
買い物に行ったら小銭入れのチャックが開いていて、レジで豪勢に小銭をブチまけて騒動を起こしてしまった。
心の修養が出来ておらんではないかorz

今日はエフレムの祝文について少し。
シリアの聖エフレムについてはnikoyuri姉のブログに詳しい説明があるのでそちらをご覧いただくとして(手抜き!)大斎と言えば「エフレムの祝文」。

★ ★ ★

主、我が生命(いのち)の主宰よ、
怠惰(おこたり)と煩悶(もだえ)と
しのぎと空言(むだごと)の心を
我に与うるなかれ。(伏拝一次)

貞淑(みさお)と謙遜(へりくだり)と
忍耐(こらえ)と愛の心を
我、なんじの僕に与えたまえ。(伏拝一次)

ああ、主、王よ、
我にわが罪を見、我が兄弟(けいてい)を議せざるを賜え、
けだしなんじは世々にあがめほめらる。(伏拝一次)

神よ我罪人を浄めたまえ。(六次、弓拝)

主、我が生命(いのち)の主宰よ、
怠惰(おこたり)と煩悶(もだえ)と
しのぎと空言(むだごと)の心を
我に与うるなかれ。
貞淑(みさお)と謙遜(へりくだり)と
忍耐(こらえ)と愛の心を
我、なんじの僕に与えたまえ。
ああ、主、王よ、
我にわが罪を見、我が兄弟(けいてい)を議せざるを賜え、
けだしなんじは世々にあがめほめらる。(伏拝一次)

★ ★ ★

弓拝は右手を地面につけるようにして腰をかがめる。
上半身を90度に折ったお辞儀を想像していただければよい。
神への屈服、謙遜を表す。

伏拝は全身を折り曲げてひれ伏す。
つまり土下座。
へりくだり、痛悔、礼拝、服従の心、「我」を折ることを表す。

それぞれ十字を描いてから行うのだけど、必ず課のしめくくりにある(例えば昨日今日あたりの午前中のお祈りを全部やるとすると、早課・一時課・三時課・六時課・九時課・晩課で大体2時間半~3時間かかる。で、各時課ごとに一回はエフレムの祝文がある)から、何というか祈祷の句読点て感じで、ちょうど体を動かしたくなるのよねというか(マテ

ちなみにこれは土日祝日は行わない。大斎の平日のみ。

伏拝もそうだし、十字を描いたりロウソクあげたり祭日によって祭服や覆いの色が変わったりと、正教会ってカタチや所作から入るところがある。
あてくしはそういう形式や伝統のマッタクない(というかバカにしてた)バイブルカルトあがりなので、それがとっても新鮮だった。
田原町の仏具屋さん(爆)のポスターじゃないけど「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」ってなかなか言えてるじゃんと。
先日NHKで、茶道をやってる外国人が「所作を習得することで、精神が開放されるのです」って言ってた。アーメン。
心が伴わなければ単なる形式主義だけど、伴えばこれはすごく深い。
まあねえ、小銭バラまいて大焦りしているヤシが言うようなことじゃないけどw