シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

聖大金曜日

2006-04-21 23:27:08 | 正教会及び宗教全般
画像は「眠りの聖像」
ふつーアレンジメントはオアシスに花をさしていくけど、これは眠りの聖像(下に説明あり)を濡らしたりしないようにそれ用の枠にしばりつけるので、結構難しい。
今年は何となくシンプルにしてみたら「あれ?お花足りなかった?」って言われた(爆
もっとセンス磨かんといかんな。

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この日、ハリストスの苦難が記憶される。
すなわち、人々の嘲笑、いばらの冠、むち、釘、渇き、膽と酢〔酢いぶどう酒〕、狐独の叫び、救世主が十字架上で忍んだすべてのこと、また、善なる盗賊の痛悔であるる。
それと同時にその受難は、復活と分離されない。
すなわち、主の最も深いへりくだりの日においてさえ、我々は主の永遠なる光栄の啓示を待ち望むのである。

晩課の終わりに、聖大金曜日の出来事が言葉ばかりでなく劇的な行為を通して演じられる。
「眠りの聖像」(葬られたハリストスの死体の姿を描いた、または刺繍した長方形の堅い布)が、至聖所から行列を組んで聖堂の中央に運び出され、信者はそれに伏拝する。
教会の一年の中でこれほど感動的な時は少ない。
この場で列をなして眠りの聖像を運ぶという習慣は、比較的遅い起源を持ち、十五世紀か十六世紀頃のもののようである。

(そして、聖大スボタの)早課が通常金曜日の夕方に行われるが、この祈祷の大きな特徴は、嘆きというよりむしろ溢れる期待である。
神様が墓でスボタに安息されている時、我々は主が新しい生命とこの世の新生をもたらして、再び起き上がる時を待ち望んでいる。

 この祈祷の終わりに全員が、まさに埋葬式のように「聖なる神」を歌いながら、眠りの聖像と共に聖堂を回る。しかし、それでもこれは埋葬式の行列ではない。
神は十字架上で死んだが、それでもなお死んだのではない。
死んだ神・「神言葉」は、彼自身が聖なる永遠なる生命である。
つまり、その夜の中を行く我々の行列は、神が今、地獄の闇の中へつき進んでいることを意味している。
そして主は、アダムとすべての死者に、来るべき主の復活と彼等もまた復活に与かることを告知する。
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もうおなじみ「大斎の意味」より。
ハリストスの葬りをかたどるため、この日は黒っぽい服を着てくる人が多い。

今日誦んだイザヤ書の53章(ハリストスの受難が預言されているところ)にじーんときた。
何つーかここは割にポピュラーというか、正教会来るまえから何度も何度も読んできた箇所なんだけど、じーんと来たのは初めてだ。
祈祷書のテキスト配置の妙というか…