どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ガンは何羽?・・ラトビア

2024年07月31日 | いろいろ

     五分間で語れるお話/もっときかせて!短いお話48編/マーガレット・リード・マクドナルド・著 佐藤涼子・訳/編書房/2009年

 

 眠れない夜に、時間をつぶすことができるというなぞなぞ話。

 最後にやってきたガンが、池を見て百羽もいるようにみえるとさけびました。

「われわれが百羽もいるはずがない!

 だが、我々の数を二倍にし

 それに、我々の数の半分を足し

 それに、我々の数の四分の一を足し

 それにお前さんの数を足すと

 百羽のガンになる

 さて・・我々は何羽いることになるかな?」

 

 小学生では難しい。中学生で方程式を習いはじめの文章題でしょうか。

 ラトビアは北ヨーロッパの国。リトアニア、ロシア、ベラルーシと接しています。人口は200万未満で、公用語はラトビア語。国民の約27%がロシア系住民で、映画・テレビ・新聞・雑誌などではロシア語も広く利用される。また、世代によっては英語またはドイツ語も話すことができるといいます。


コボレジャー化け物・・青森

2024年07月30日 | 昔話(北海道・東北)

     青森のむかし話/青森県小学校国語研究会・青森児童文学研究会/日本標準/1975年

 

 しとしと雨が降ると、「コボレジャーテバ、ヒコポカラ、コボレジャーテバ、ヒコポカラ」って歩くのがいて、村では雨が降ったら、だれも外をあるくものはいなかったんだと。

 みの吉という若者が、「雨降れば用事があっても、外にいかれねえなんて、こっだらおかしいことない」と、よめっこが とめても、かさもって、くわもってでかけた。すると、村のはずれにいくと、「コボレジャーテバ、ヒコポカラ、コボレジャーテバ、ヒコポカラ」という声が、だんだん ちかずいてきた。

 みの吉は。声がすぐそばまできたとき、「化け物、死んでしまれ。」って、声のあたりをするあたりさ、もっていたくわを ぶんぶん ふりまわした。そうしたら、みの吉のからだに、ふっわーとしたものが、かかってきたら、まるでしばられたように、からだっこ うごかなくなってしまたんだと。そしてそのまま、縄でひっぱられるように、ずっすら ずっしらと ひっぱられていくんだと。まけねえどって、がんばっても ひっぱられていったら、村の畑の真ん中にある一本杉のところまでいくと、からだっこ すーっとらくになったど。

 杉の上から、「おめえ、ずいぶん度胸がいいな。おまえの度胸さ、ほめてやる。そこの石、おごしてみろ」って声がしたので、足元の大きな石を おこしてみると、大きなかめがうめてあったんだと。あけてみると、大判やら小判だのが ザクザクとはいっていた。みの吉は、つぎの朝、庄屋さまのところへ、宝物をもっていって、「これは、村の宝物だから、村のためにつかったらどうです。」って いったと。したら、そこの村、暮らし向きがよくなって、みの吉は、つぎの庄屋さまになって、村のために つくしたんだと。

 

 昔話では、長者になるというのが定番ですが、宝物を村の人のために使おうとするみの吉は、よほど欲がなかったのかも?。
 化け物は、クモみたいな存在のようですが、それにしても、「コボレジャーテバ、ヒコポカラ、コボレジャーテバ、ヒコポカラ」という掛け声とは 結びつかない。


ぼくは くまのままで いたかったのに・・・

2024年07月29日 | 絵本(外国)


ころころ こーろころ

2024年07月28日 | 絵本(日本)

    ころころ こーろころ/みなみ じゅんこ/のら書店/2024年

 「ころころ こーろころ」は、北海道のわらべうたといいます。

 お話し会のはじまりは、手遊びやわらべ歌ではいることもおおいのですが、そのひとつになりそうです。

 ひよこが、ころころ ぴよ ぴよ ぴよ ぴよ

 おかあさんのあとを ついて こつ こつ こつ

 えさをたべながら ぴよ ぴよ こつ こつ

 おかあさんの せなかで ころ ころ こーろ ころ

 

 あかちゃんの ごきげんが わるいときの まじない 言葉にも なりそう。

 YouTubeでも見ることができます。


東京おすすめ紙芝居マラソン

2024年07月28日 | いろいろ

 昨日、第二回という東京おすすめ紙芝居マラソンの五作品を見ました。

 午前中二時間で八作品、午後は三時間で十二作品、出入り自由でした。紙芝居サークルの発表の場としての試みなのでしょうか。
 観客は五十人以上でしょうか。午後は子どもより大人の方が圧倒的でした。

 いくつかの紙芝居サークルが、たすきをつないでいっていました。ゆったりと間があってすごく聞きやすいのですが、おおぜいの人数だと、紙芝居までの距離が遠く、画はちょっとみにくい感じ。お話し会の進行で、語りや、絵本、紙芝居の組み合わせはかくことができないのですが、どんな紙芝居を選択するかの情報が少ない気がしてます。グループであれば、個々の情報交換ができますが、それも数多くの紙芝居から見れば、きわめて限定的です。

 「紙芝居文化の会」の「おすすめ紙芝居」リストを、資料としていただきましたが、まだまだ知らないものだらけ。ただその反面、自分が読んで面白いと思ったものがはいっていないのは、なんでだろうと思いました。

 こうした催しの内容は、当日会場に足を運んでわかるものがほとんど。上演作品があらかじめわかっていると参加しやすいと思っています。今回はロングランの催しなので難しいのでしょう。

 また、タイトル、作者(脚本、画)が、誰かははじめに話されるのですが、どこの国の昔話(民話)であるかが省略されるのは、必要ないという判断なのでしょうか。


おまつりを たのしんだ おつきさま

2024年07月27日 | 絵本(昔話・外国)

   おまつりを たのしんだ おつきさま/マシュー・ゴラブ・文 レオビヒルド・マルティネス・絵 さくまゆみこ・訳/のら書店/2019年

 

 メキシコのオアハカ地方に伝わる、お月さまのお話で、これまでみたことのない独特な絵でした。

 むかしむかし、おひさまとおつきさまは別々のお空にすんでいました。
 ある晩、お月さまの耳に、星たちが おひさまの空に、引っ越ししたいなという声が聞こえてきました。昼間にはきれいな色や楽しい色がたくさんあって、おひさまの もとでしか見られないと聞いて、おひさまの世界が羨ましくなります。
 そこで、夜にお祭りをすることを思い付いたおつきさまお月さまは、おひさまのせかいをちょっとのぞいてみようとおもいたちましたが、お月さまは いつも夜が終わるとねむくなります。

 ある日、にぎやかな音で目を覚ましたお月さまが、下を見ると、まるい はなびをつけた とりや、どうぶつの かざりがくるくる まわっています。モヒガンガというおおきな人形も おどりだしました。おひさまは 空を すすみながら たのしそうに にこにこ わらっていいます。これが 「おまつりというものなんだな」と おもった お月さまは、夜に おまつりを しようと おもいつきました。おひさまはバランスがくずれてしまうといいましたが、お月さまは、夜の村を守る番人たちに 話をもちかけました。番人も昼は寝ていていて、おまつりにでられませんでしたから、よろこびました。
 お月さまは 前に見た おまつりを思い出し、ごちそうと飲み物、音楽も用意することにしました。おんなのモヒガンガが、あかりをもってあつまろうと提案すると、おとこのモヒガンガは、ランタンをもってあつまれば いいのさと いいました。

 お月さまが、おまつりを取り仕切るパドリーノを 任命すると、パドリーノたちは、食べ物を、動物たちに 頼みました。みんなは、のんだり、うたったり、たべたり、おどったりしました。お月さまは、テーブルのご馳走を食べすぎて、空をすすんでいくことができなくなりました。すると、ひとびとは、時間がわからなくなり、パーティは いつまでもいつまでも つづきました。おひさまが 顔をだしても そこには まだお月さまがいたのです。

 夜のおまつりのせいで みんなは よどおし おきていて、その朝はトウモロコシの粉をひく人も、畑を たがやすひともいません。作物も植えたり、たねをまいたりするひとも いません。これで、みんなは ちゃんと くらしていけるでしょうか?

 後悔したお月さまは、夜の空に とどまることにしました。でも、たのしかった おまつりのことは わすれられません。それで、お月さまは、いまでも ときどき ちょっと はめを はずすのです。

 オアハカのひとたちは、あさおきて、おひさまと お月さまの 両方が 空にうかんでいると、「ゆうべは お月さまが おまつりを していたんだね」と いいます。

 

 モヒガンガ、ファローレス、パペルピカド、パドリーノなど、なじみのない言葉がでてきますが、この意味は、最後の解説で知ることができました。

 パペルピカドは、薄紙を切ってつくるかざりで、日本でいえば万国旗、パドリーノは、音楽やごちそう、イベントを用意し、お祭りや儀式をとりまとめる人をいいます。


とっしんたと おさるのキッキ

2024年07月26日 | 紙芝居

   とっしんたと おさるのキッキ/脚本・新沢としひこ 絵・あべ弘士/童心社/2017年(12場面)

 

 イノシシのシンタは、突進が大好き。小山に突進してアナネズミをおどろかしたり、木に突進して、木の上のサルたちをおどろかしたり。でも、優しいところもあって、サルの子キッキが仲間とはぐれたとき、背中に乗せて サルたちを探しに行きます。
 
 みんながいるのをみつけ、ちかづいてみると、くまおやぶんが、トゲリンゴの木の前で とおせんぼ。
 シンタは、「ひとりじめなんて、よくないよ」といいますが、くまおやぶんは、「あっちに いってろ」と、独り占めしようとします。
 すると、キッキが 「とっしん とっしん とっしんた~、だよ!」と、シンタを応援。
 
 シンタが、どっかーん!と くまおやぶんを 追い払った 方法は?
 
 
 最終場面の シンタとサルたちの 幸せそうな感じがいい。

へんしん!

2024年07月25日 | 絵本(日本)

    へんしん!/北村直子/こぐま社/2013年

 

表紙がカエルで、へんしん!とくれば、オタマジャクシから。

ホタルは、こんばんわ~

青虫が くね、くねして ルンルン へんしんするのは チョウ。

カ、クワガタも。

「もりもり もりもり」食べて、「へんしん!」。

生きものに関心を持ちはじめた子の入門にぴったり。

カが、「え? なにか?とあるのは」 ご愛敬。人間の子どもだが、へんしんするのは?

 

心配なのは、子どもたちが観察する機会があるのかどうか。川や畑があって、オタマジャクシや青虫がいる環境が身近にあるかどうか。


どうがのおはなし会

2024年07月24日 | いろいろ

 


暑い!!

2024年07月24日 | 日記

 暑いというと 暑さがぶりかえすようで あまり使いたくないが・・・

 それにしても暑い。

 このところの猛暑日、二三日前にはゲリラ豪雨もあって、びっくり。突然音がして、ヒョウもふってきた。昨年も、ひどい猛暑に 唖然としたが、今年もまだまだ続きそう。

 あまり外に出かける気もしないが、それでも木陰では まったくちがう。いつの間にか、ヒートアイランドという言葉も聞かれなくなった。

 部屋の中でも熱中症が多いというから、油断のならない暑さ。

 涼しさを求めて、水遊びする機会も多くなるが、水の事故にも注意したい。

 

 お昼ごろ、突然の雷。いつもは遠くなのが、今回は頭の上で走り、すぐ大雨が降ってきて瞬間停電も。


びんぼう神と小判・・茨城

2024年07月23日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 ある貧乏な夫婦が、夜なべでわらじをつくっていると、急に地震みたいに家が揺れ、バリッとばかり天井をぶち抜いて、骨と皮ばかりにやせた、ちっちゃなじいさんがあらわれたと。

 おじいさんは貧乏神で、「おまえのところは土地が少なく、家も小さいという貧乏暮らしだから、ここにながく住みつくつもりだったが、お前たちが働き者で、まじめにせっせとかせぐので、どうもすみにくい。よそにいくことにした。」といい、つづけて、「今夜の四つどき(午後十時ごろ)むこうの山をすずをつけた馬が通るから、おまえたちはこれからいって、その馬の横腹を竹やりでつきだせ。」というと、ふうっと消えてしまった。

 へんな話だとおもったが、神さまのいいつけならと、貧乏神のいうとおりにすることにしたんだと。ありあわせの竹の棒で竹やりをつくり、一本の木の下でしゃがんで、その馬をまっていると、たしかにひづめの音がして、木の方に近づいてくる。馬が目の前にきたので、男が夢中で飛び出して馬の横腹めがけて竹やりをつきだした。するとたまげたことに、馬の腹から、なにか、きらりときらりとひかりながら、チンカラリン、チンカラリンと、あとからあとからこぼれおちるものがあったんだと。よくよくみれば、それは小判だったと。きがつくといつのまにか馬はいなくなっていたそうだ。

 ふたりは、小判を拾って帰って、いっぺんに大金持ちになっちゃったつうだがな。

 

 竹やりでつきさせと、びっくりさせて、落としどころは昔話らしい。貧乏神だって、えらぶ権利があると主張するのが、ほほえましい。


願いの指輪

2024年07月22日 | 創作(外国)

   話はめぐる/聞き手から語り手へ/ナショナル・ストーリーテリング保存育成協会・編 佐藤涼子・訳/リブリオ出版/1999年

 

 ある百姓が手に入れた指輪。この指輪は願いをかなえてくれる魔法の指輪。ただかなえてくれるのはたった一つ。ところが家に帰る途中、宝石商に取り換えられてしまう。そうとは知らない百姓は、たった一つの願いに慎重になって、妻と努力を続け、何年かすると結構な金持ちになる。そのあとも何度か指輪に願いをしようとするが、そのたびに時間はたっぷりあるし最も良い考えは最後にやってくると願うことなく、そのまま二人とも死を迎える。

 

 あとがきで、訳者は、昔話をアレンジしたものとしてこの話を紹介している。ただどこかで読んだ記憶があったので調べてみると、岩波少年文庫「ふしぎなオルガン」の「魔法の指輪」の内容そのもの。この話は、作者のルヒャルト・レアンダ-が、独仏戦争中(1870~71)に、ふるさとに残してきた子どもたちのために書き送ったもののひとつ。
 文庫に収録されている「ふしぎなオルガン」も、よく語られる話なので、間違えられることはなさそうだが・・。もっとも百年以上前の著作なので、いずれ昔話とされてもおかしくはなさそうだが、作った人がはっきりしているからには昔話にはならない。

 以前テレビドラマで「校閲」という言葉があった。校閲はただたんに字の間違いなどをチエックするだけでなく、書かれた事実関係のチエックを行うことも意味していた。とすると出版社の校閲・校正はどのようになされているのかも気になるところ。

 グリムの「死神の名付け親」は、死神が赤ん坊の名付け親になる話なので、まったく内容とはことなるタイトル。これはたんなる校正ミスなのか。もっともウイキペディアでも、このタイトルで項目になっている。


糸くり川のカッパ・・茨城

2024年07月21日 | 昔話(関東)

      茨城のむかし話/茨城民俗学会編/日本標準/1975年

 

 親孝行の若者が、ある夕方橋のたもとでみかけた娘を、親の反対をおしきって、よめにした。

 顔も姿もきれいで、大変な働き者。反対していた親も、近所にいって自分の家のよめの自慢をするようになった。しあわせな毎日をおくっていたが、だれにもまねのできないおかしなくせがあった。いつもみんなが寝静まった夜になると、こっそり家を抜け出し、夜明け近くになるとかえってはくるが、いつもからだはなんとなくひやっとつめたかった。

 ある日、若者が寝たふりをして、外に出かけたよめのあとをつけていったが、橋の上までくると、すうっと姿が見えなくなってしまった。その夜は、そのままかえってきた若者は、こんどは気がつかれないように、着物の裾にぬい糸をゆわえつけておいた。つぎの晩も、若者はよめのあとをついていったが、やはり橋の上で見失ってしまった。だがこんどは、縫い糸をたよりに、あとをついていくと、よめは洞穴にはいっていった。なかをみると、思わず腰を抜かしてしまった。そこには、子どもたちにちちをのませているカッパが、しずかにすわっていた。

 働き者のよめというのは、じつは川に長い間すんでいるカッパで、人間の姿にばけて、若者のところに やってきていたんだという。このことがあってから、この川のことを糸くり川と呼ぶようになったということだ。

 

 カッパは人間に悪さをする存在とおもっていると、そうでもない。このあとどうなったか気になるが、話はそこで終わっている。


まじょのむすめワンナ・ビー

2024年07月20日 | 絵本(日本)

   まじょのむすめワンナ・ビー/竹下文子・作 種村有希子・絵/偕成社/2019年

 文章が長く物語に近い。

 まじょのワンナ・ビー(ネーミングの意味が気になる!)のこどものころと、まじょがっこうから向いていないといわれ、そしてふつうの人間の学校へ。

 ワンナ・ビーは かしこいから六年分の勉強を三年くらいでできてしまうんじゃないかしらと考えたお母さん。ところがどうしてもうまくいきません。手を使わない折り紙はうまくいかず、箒にのっても地面から三センチしかうかびません。おぼえなきゃいけない呪文は、ひとつも覚えられません。お父さん、お母さんも心配して、まほうをおしえますが、うまくいきません。でも本当のところワンナ・ビーは、できなくてもあまりきにしていませんでした。飛べない箒は、落ち葉を掃くのに役立ったし、花壇にまいた種は、呪文なんかとなえなくても、ひとりでに芽を出し、大きくなって、きれいな花を咲かせました。一年生のさいごのテストもうまくいかず、先生から、まじょのがっこうには、むいていないといわれてしまいます。

 たしかにワンナ・ビーは、まじょにはむいていないかもしれない。でも父さん、母さんのだいじなかわいい子どもだということは、すこしもかわらない。これまでも、これからもずっと。

 人間の学校でも、ワンナ・ビーは、ひとりで小石を拾ったり、授業中に窓の外を見ていたりマイペース。ところがキャンプ中に嵐になり、雷で全部の明かりが消え、子どもたちが、暗闇の中で、なきはじめたとき・・・。

 

 まじょのがっこうは制服があって、にんげんのがっこうは、制服なし。すぐに、まじょにむいていないとレッテルを張って、長い目で子どもを見守れない魔女の学校も管理が厳しくなっているのでしょう。

 暗闇の中で、みんなからは懐中電灯に見えるひかりを光らせたワンナ・ビーは、「かあさん、あたし、まじょになれるかな」と、つぶやきました。

 種村さんが描くワンナ・ビーや子どもたちのかわいらしさが目立ちました。ワンナ・ビーによりそう理想的な両親ですが、親ばかなところがでてくるのも、ご愛敬です。


ニュースなんかなあんにもないよ

2024年07月19日 | 創作(外国)

   話はめぐる/聞き手から語り手へ/ナショナル・ストーリーテリング保存育成協会・編 佐藤涼子・訳/リブリオ出版/1999年

 読むというより、聞くか語るかするほうがよさそうな話。

 ある婦人が、山で三か月静養して家に帰る途中、駅のホームで、友だちのジョージアンにであい、なにかニュースになるようなことがなかった尋ねました。

 ジョージアンは、「ニュースになるようなことなんか、なあんにも なかったよ」といいますが、どんな小さなことでも教えてくれと言われ、「あんたの犬が死んじまったよ」といいます。それから、なんで?ときかれ、つぎつぎにニュース?を語ります。

 犬が死んだのは焼けた馬の肉を食べたから
 馬が死んだのは納屋が焼けたから
 納屋が焼けたののは、家から火の粉が飛んできたから
 家が焼けたのは、ろうそくの火の粉が、カーテンをペロッとなめたから
 ろうそくは棺桶にたててあったから
 棺桶は、あんたの旦那のおっかさんが死んだから
 おっかさんが死んだのは、あんたの旦那が聖歌隊のソプラノ歌手と 駆け落ちしたから

 とんでもないニュースばかりですが、ジョージアンにとっては、みーんな他人事。ニュースは受け取り方。自分にかかわることでなければどうでもいいことなのかも。