あまり聞きなれないタイトルであるが、シンデレラ物語。シンデレラ物語は世界で何百という似た話があるという。ペローよりグリムの「灰かぶり」のほうが有名か。
しかしペローはグリムに先立つこと百年前に昔話を出版している。またペローはフランスで、グリムはドイツという違いもある。
三人姉妹や兄弟、似たようなことが三回繰り返しおこなわれることなどが昔話の一つの特長かと思っていたら、三百年まえのペローの「サンドリヨン」の場合はそうでもない。
主人公が舞踏会にでかけるシーンでは、二度目に靴を置き忘れる設定になっている。グリムの「灰かぶり」では、舞踏会にでかけた三度目に靴を置き忘れるというおなじみの設定。
昔話の文体が早くから固まっていたと考えるのはやや早急か。
ゆうれい屋敷/川崎大治民話選 日本のおばけ話/童心社
素話にふれて2年が経過しようとしています。
はじめの1年間は聞くだけでしたが、このところ少し覚えてみようと取り組んでいます。まわりは何年も継続し、実際に語る活動を行っている人が多いので腰がひけてくるのですが、徒然草の一節が後押してくれたようです。
はじめはとても覚えられそうにもなかったのが、やってみると、すこしづつ覚えられるようになってきたところ。
単に読んでいるだけでは頭にはいってこなくても、覚えるつもりで読むと何とかなってきました。
短いもので、どちらかといえばマイナーなもの?に取り組んでいる。
声に出して、場面場面を絵にかくようにおぼえなさいと何かにかかれていましたが、なかなかうまくいかず、何十回とくりかえし読むことで、なんとか頭にはいってきます。そして一つだけでは飽きがくるので、最近は複数のものを同時進行で覚えている。
しかし、作品によって覚えやすいものとそうでないものがあるのは、語りに適した文章になっているかも影響しているようである。
「ゆうれい屋敷」というのは比較的すーっと入ってきた数少ない例。幽霊がでるという屋敷に引っ越した侍とそこにでてきた幽霊の話。幽霊にお茶を持ってきてもらったり、黙ってでてきた幽霊にお説教をしたり、さらに目がない幽霊に墨で目をかいてあげる侍。どういうわけか鏡が好きな幽霊が鏡を見て、そこに映った自分に目があることに驚いて屋敷から逃げ出すという落ち。
こわそうで笑える話。
2月14日に、大阪府大東市の市立小5年の男児が、JR野崎駅ホームから飛び降り、快速電車にはねられ死亡したといいます。
「どうか一つのちいさな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください」などと書いたメモが現場に残され、直前には、男児から母親の携帯電話に「家族み→んな大・大・だあい好き」とメールがあったという。
メモとメールの内容に涙が流れます。
詳しい状況はわかりませんが、ニュースが洪水のように流れる中で、いずれは忘れられていくことなのかも知れませんが、決して忘れてはいけないことの一つだと思う。
少子高齢化で、経済的合理性のみを追求すると学校の統廃合は避けられないと思ってしまうように方向づけられてしまいがちであるが、どうして学校がこれまでの形を維持していかなくてはならないのか。
規則でがんじがらめに縛るのではなく柔軟な発想で教育を考えられないのか。多様性を排除する国になってしまっているのではないかという思いが強い。
しあわせなふくろう/チェレスチーノ・ピヤッチ え・おおつか ゆうぞう やく/福音館書店/1999年8刷
ふくろうの絵が、なんともいえない味がある絵本です。
にわとりやがちょう、くじゃく、あひるたちは食べたり、飲んだりすると、こんどは喧嘩をしたりと、ねんがらねんじゅう同じことを繰り返しています。
ある日、動物たちは古くてくずれかかった石の壁に暮らすふくろうの夫婦がどうしてしずかになかよく暮らしているのか聞きにいきます。
ふくろうは四季の移り変わりの素晴らしさを話します。
春にはあらゆるものが、冬のねむりから目をさまし、蕾がふくらみ葉があおあおとしげり、ちいさな花が何万も開く。
夏にはみつばちがとびまわり、ちょうちょが花から花へまいあるき、きんいろのひまわりからみつを集める。ひのひかりと雨とで、森の木々や草が青々と茂る。
秋になると、くもが木の葉のかげからそとにでてあみをひろげる。そうして落ちかけている木の葉をしばらくの間、つなぎとめておく。
木の葉がみんな落ちて地面が雪におおわれると、ふくろうは石の壁にもどってしずかに暮らすという。
しかし動物たちは、ふくろうの気持ちがわからず、これまでと同じように、食べて飲んで喧嘩する暮らしを続けます。
冒険があるわけでも、しあわせな結末がまっているわけでもありません。
名誉も富ももとめず、自然の変化を素直な気持ちでうけとめるふくろうの夫婦の思いと、目の前のことしか見えない動物たちが登場し、何が幸せなのかじっくり問いかけます。
理想的にもみえる夫婦像ですが、この域にたどり着くには、難しそうです。
作者の思いが子どもにどう伝わっているか知りたいところ。原文には、オランダの民話とあります。
かじ屋/子どもに語るアイルランドの昔話/渡辺洋子・茨木啓子編訳/こぐま社/1999年
アイルランドの昔話で奇想天外なストーリ。
かじ屋のところに男がやってきて、馬の蹄鉄を打ってくれないかと頼みます。
かじ屋が鋤しか作れないとことわると、男は馬の足を四本ポンと切り取ると炉の火の上にならべ、ふいごで火をおこし、火の中から新しい蹄鉄をつけた馬の足をとりだし、それを外で待っていた馬にくっつけると、礼をいって去ります。
かじ屋がおなじことをすると、馬の脚はこげてばらばらになります。
次にかじ屋は、二人の年よりから若い女を一人つくってくれないかと頼まれます。
かじ屋がことわると、男は二人の年よりを炉のなかにいれて、一人の若い女をとりだします。
かじ屋もそれをまねて、母親と義理の母親から若い女を作り出そうとするが、二人の母親は死んで灰になってしまいます。
恐ろしくなって家を飛び出したかじ屋のところに、はだしの小僧がやってきて腕だめしをしないかと誘い小僧のいうとおりに、領主との腕くらべに勝利し、賞金を手にします。
次に王さまの病気をなおすために城にでかけ、王さまの頭を切り取って火にかけた鍋の中にいれ、小僧がスプーンで湯をかきまぜて鍋から頭をとりだし、王さまのかたの上にのせると、王さまがすっかり元気になり、たくさんの褒美をもらいます。
はだしの小僧が靴を買ってくれないかとかじ屋に頼むが、けちんぼになったかじ屋は、これを断ります。すると小僧も褒美としてもらった金貨も消えてしまいます。
足を切り取ったり、頭を切り取ったりと唖然とするが、マジックと考えると少しも残酷な感じがしない。日本の昔話には見られない展開であるが、国や民族の発想の違いを楽しむのも昔話の特権か。
アイルランドは20世紀になって、イギリスの自治領となり独立。「ガリバー旅行記」や「ユリシーズ」などはアイルランド出身の小説家の手によるという。また3人のノーベル文学賞受賞者がでている。
グスコーナドリが11歳の時に、父親や母親が、冷害による飢饉の際に家族に食料を残すため、家を出ていってしまいます。
残された妹(8歳)は、ひとさらいの男に連れられていきます。
一人になったグスコーナドリは、てぐす工場で働くが、火山の爆発で工場が全滅する。
続いて、広大な沼ばたけを所有する赤ひげのところで働くが、たびたびの寒さと旱魃で、農業をあきらめた赤ひげのところを去ることになります。
グスコーブドリは、てぐす工場でボール紙のなかの本や、赤ひげの息子が残した本で一生懸命勉強し、そのなかでクーボー博士を知ります。
グスコーブドリは、クーボー博士に紹介されて、イーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させ、妹との再会もはたします。
5年ほどは楽しい時間が過ぎていくが、グスコーブドリが27歳のとき、イーハトーブはまた深刻な冷害の兆候に見舞われます。
農民を飢饉から救うため、火山を人工的に爆発させ、大量の炭酸ガスの温室効果によって冷害を回避しようとしますが、そのためには火山に誰かが残る必要がありました。
グスコーブドリは自からを犠牲にして火山を爆発させ、イーハトーブは飢饉から救われます。
この作品は、1931年に凶作・冷害におそわれ、昭和恐慌とよばれる未曾有の経済危機状況にあった翌年に発表されています。
この時期、東北地方では農村の少女の身売りも多かったといいます。
1934年にも凶作・冷害があり、飢饉にたいする恐れがこの作品の背景になっていそうである。
時代の流れをいち早く取り入れているのも、この作品の特徴です。
クーボー博士が乗る自家用飛行船は、20世紀前半から大西洋航路に使われています。1911年には、日本で開発された山田式飛行船が東京上空飛行に成功し、1929年には、ツエペリン伯爵号が世界一周旅行に成功していました。
また潮汐発電所のアイデアは、1920年始めにあったが、実際に送電を開始するのは1967年のフランス。この作品では、イーハトーヴの海岸に沿って200も配置されています。
賢治さんの発想のすばらしさは、てぐす工場にもあります。森全体を利用して繭を作るというのは、不思議な感じがします。
賢治さんの作品は、童話(児童文学)と言いながら、子どもを対象したものか疑問も残る。
稲、米を「オリザ」とし、水田は「沼ばたけ」と表されている。どんな思いでこんな表現になったのか知りたいところ。
石になった狩人/子どもに語るモンゴルの昔話/蓮見治雄訳・再話 平田美恵子・再話/こぐま社/2004年初版
終わり方が印象にのこるモンゴルの話。
狩りの途中で、トンビに食べられそうになった白ヘビを助けたことから、鳥やけものの言葉がわかる宝の石を手に入れた狩人が、山が爆発し、大洪水になるという鳥やけものの話を聞きます。
鳥やけものの話がわかるということを、人に話すと自分自身が石になってしまうが、村人を救うため、狩人は、石になることを選択します。
主人公は優れた狩人で、いつも獲物をもちかえり、村人に分け合って食べるやさしい若者として描かれています。
自分を犠牲にして人を救うというのは、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を連想します。
グスコーブドリの伝記では、冷害から農民を救うため、火山を爆発させることになりますが、グスコーブドリは、そのために自らを犠牲にします。
「石になった狩人」では、鳥やけものの言葉がわかる宝の石を手に入れる前に、金銀の財宝、死んだものを生きかえらせるもの、見えない人の目をみえるようにするもの、いくら食べてもつきることのない食料、日の光も風もとおさない着物などが入った百八の蔵がでてきますが、この百八は、除夜の鐘を思い出させます。
この数、仏教では煩悩の数ですが、中国の小説「水滸伝」では英雄の数として出てきます。モンゴルでは、別の意味の数字としてでてくるのも興味深い。
この「石になった狩人」は絵本にもなっています。絵本は1970年初版で40年以上前に出版されていますが、ここには百八の蔵の部分はありません。
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地産地消というのは必ずしも農作物やエネルギーだけでのものではない。昔話にも地元の話を聞く機会が多くあって、地域を再発見するという試みがあってもいいのではないか。
お話し会で話を聞く機会が増えてきたが、残念なことに地元の話がすくないように思う。
それでは、おまえが話せばいいのではないかといわれそうであるが、覚え始めのなかには、地元のものを意識的に入れているが、もともと数が少なくて難しい。
地域の話ということで、調べてみると、これまで紹介してきたものが目についたが、まだ知らないところ多くの話があるかも知れない。
昔話は、図書館や保育園、小学校などで語られる例が多いようであるが、語られる場所も地域の特色を生かし、例えば蔵や古民家などを利用したり、さらにほかのジャンルとのコラボでの語りなどが生まれると親しみが増すようにも思う。