どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

昔話の視点

2015年05月31日 | いろいろ
      日本の昔話5 ねずみのもちつき/おざわとしお・再話 赤羽末吉・画/福音館書店/1995年初版


 あとがきのなかで、小澤さんが、この本に選ばなかった話にふれている箇所。
 これまで、なじめない話もあったのですが・・・・。

 冷たく人を嘲笑するだけの話です。とくにおろか者やなんらかの障害のある人をあざ笑うことだけを目的とした話です。平気でそんなことをしていた時代が、どこの国にもありました。

 第2次世界大戦後、だいぶたってから、人種差別への人類的反省とともに、そういう差別への反省が生まれてきました。これは人類としての進歩だと思います。いまだに差別思想を克服できないで、日本をはじめ地球上のあちこちで、差別や戦争がおこなわれているのですが。

 昔話という古い社会を語る話には、このような思想が残っていることがよくあります。私は、そのような話は、伝承されてきた話であっても、次の世代に残すべきではないと考えています。

 大分前に翻訳されたものが新装版として出版されるとき、今の時代を考慮して話を削除したというのもあります。

 人を嘲笑するのが目的といえないまでも、結果としてそういうものになるおそれのあるものも目につきます。

三本足の大熊・・複数の語り手による昔話

2015年05月30日 | いろいろ
       日本の昔話5 ねずみのもちつき/おざわとしお・再話 赤羽末吉・画/福音館書店/1995年初版


 「三本足の大熊」という昔話を読んでいたら、(ここで、話し手がかわります)とあって、また少し先に(ここで、話し手がかわります)とありました。
 ここでは複数の語り手が想定されているようです。

 これまで、こんな例はなく、お話し会でももちろん聞いたことがありません。

 しかしこんな語りがあっても面白そうだと感じました。

 事前の練習をどうするかなど、息が合わないと難しそうですが・・・・。


 ところでお話し会というとその場で一話一話が完結する。

 もう一つあっていいと思うのが、長い話を何回かにわけていくということ。

 図書館などでは、一週間に一回程度で間があくとことと、不特定の人を対象にしているので、こうしたことが難しいが、学校や保育園、さらに今の時期でいうと学童クラブなどでもこうしたことができそうに思う。実際、読み聞かせでは何回か続けている場合もあるようだ。

 話をする人にとっては大変だがこんな試みがあってもよさそうだと感じている。

 学校の先生などは、忙しすぎてなかなかできないと思うが、読み聞かせなどは、覚えることと比較すると入りやすそうなので(実践している先生もあるのかも?)、こんな取り組みが増えていってほしい。

 語り手が一人というのが当たり前のようだが、もっと違った発想があってもよさそうだ。 

いなかのネズミとまちのネズミ・・イソップ、山のねずみと里のねずみ・・岡山

2015年05月29日 | 昔話(日本・外国)
イソップえほん2 いなかのネズミとまちのネズミ  

        イソップえほん2 いなかのネズミとまちのネズミ/作:蜂飼 耳 絵:今井彩乃/岩崎書店/2009年初版

 

 イソップらしい絵本。

 いなかのネズミが、おいしいものがいっぱいあるよと、まちのネズミのところにいきますが、チーズを食べようとすると、人の足音がきこえてきます。

 じっとかくれてもう一度食べようとしますが、また足音が。

 いなかのネズミは、人間がこわくて、チーズのあじもよくわかりません。
 つかれてしまったネズミが、のんびりしたいなかのほうがいいと、帰ります。

 かくいう自分も、都会の喧騒をのがれて、いなか?に引っ越しをしたのでが、いなかはいなかでまた別の大変さも・・・。       

山のねずみと里のねずみ(日本の昔話5 ねずみのもちつき/おざわとしお・再話 赤羽末吉・画/福音館書店/1995年初版)

 御津郡昔話集(岡山)(今村勝臣/三省堂/1943年)がもとになっています。

 山のねずみが里のねずみのところによばれます。里のねずみのうちは倉の中。米も麦もごぼうもにんじんがあって、それはそれはうまいものがどっさり。

 うまいものを食べて、山に帰るのがいやになっていついていると、山のねずみの子どもが、猫に食べられてしまい、こんな危ないところにいられないと山へ帰っていくというもの。


ぼくはきみで きみはぼく

2015年05月28日 | 絵本(外国)
ぼくはきみで きみはぼく  

   ぼくはきみで きみはぼく/文:ルース・クラウス 絵:モーリス・センダック 訳:江國 香織/偕成社/2014年初版

 

 こんな構成の絵本もありかなと思わせる。
 絵のなかの文字、絵と文字が見開きの左右といった絵本とはちがって、細かいカット割りのイラストと文字、いくつもの詩がつなぎ合わされています。
 どこから開いてもよい。

 にわとりとおひめさまというむかしばなしは、こんな風です。

 あるひ にわとりが
 まちに でかけて
 まいごになった
 でも おじめさまがみつけてくれた
 おひめさまは いいひとだった
 でも、びんぼうだった、そのおひめさまは。
 そこで にわとりは おひめさまを じぶんの うちに つれてかえった。
 (1ページにおさめられています)

 ふたごになりたい。

 ぼっちゃりと ほっそり
 みじかい かみと ながいかみ
 わたしが ふとって かのじょが やせて
 わたしの かみが みじかくなって かのじょの かみが ながくなると いいな
 そうしたら ふたごっぽいね             


昔話に出てくるお金

2015年05月27日 | 昔話あれこれ

 先日、ラジオで、紙幣を初めて発行したのは中国明の時代というのがありました。
 しかし、宋の時代にも紙幣とよべるものがあったようです。

 紙幣が出回るまでは、金貨、銀貨、銅貨が交換機能をもっていました。

 紙幣がでてくる昔話はありませんから、こうしたことが昔話の成立時期を示しているようです。

 若者がでてくると大抵旅するのが通例ですが、主人公はどのようにして食いつないでいたかはふれられていません。

 金貨や銀貨をもって長期間旅すると重くなって危険度もたかまりますが、紙幣が流通していたなら持ち運びも便利で、昔話の展開も別のものがありそうです。(紙幣は紙切れですからよほどの大帝国でなければ通用しませんし、為替機能もないので、紙幣はやっぱり無理か?)

 また、外国の話では、耳慣れない通貨の呼び方がでてきますが、聞く側にとってはそれほど重要ではなさそうです。

 (子どもに語る北欧の昔話/福井信子・湯沢朱美 編訳/こぐま社)
 「小さなおいぼれ馬」(デンマーク)にダーラーという単位がでてきます。ここでは馬の値段を表示しています。
 「銅のなべ」(デンマーク)でもダーラーがでてきますが、謝金の額。
 「正直な若者とねこ」(アイスランド)では、スキリングという単位。小銭のようです。


 (ねずの木/そのまわりにもグリムのお話いろいろ1/L・シーガル M・センダック・選 矢川澄子・訳/福音館書店/1986年初版)
 「うかれぼうず」クロイツエルというのは銅貨 


わたしのひみつ

2015年05月26日 | 絵本(日本)
わたしのひみつ  

    わたしのひみつ/作:石津 ちひろ 絵:きくち ちき/童心社/2014年初版

 

 「わたしのひみつ」といわれると、思わず何?と耳をすましたくなる。

 いろいろ苦手なこともあるが、こんなのは得意というのが、なんともやさしい。

 鉄棒は苦手、給食は半分しか食べられない、けんばんハーモニカはうまくひけない、ときどきなかまはずれにされる、さんすうの計算はすぐにまちがえてしまう、よるはこわくてひとりでといれにいけない。
 でもいいところもたくさん。
 
 子どもにむかいあうとき、欠点をあげつらうのではなく、いいところをほめてあげると、そのうち苦手なことも克服してくれそう。

 ある雑誌に、読む(Reed books)ではなく分かち合う(Share books)というのがありました。こどもの気持ちにそいながら時間を共有できるのも絵本の魅力です。              


天の鹿

2015年05月25日 | 安房直子


    天の鹿/作:安房 直子 絵:スズキ コージ/ブックキング/2006年復刊/1978年初出

 挿絵はスズキコージさんで、この話にぴったりの方を編集者の方が選ばれたようです。

 他の絵本をみても、独特の雰囲気をもっているスズキさんですが、やや難解なこの物語のイメージをふくらませてくれます。

 鹿撃ち名人の猟師、清十がものをいう不思議な牡鹿と出会います。

 牡鹿は、清十をずっとはなれた、はなれ山で開かれるという鹿の市に案内します。フクロウが鳴くまで開かれるという鹿の市では、珍しいもの、食べたいもの、金と銀の刺繍がある反物、宝石を売っている店などが並んでいますが、清十が買えるのは、一つだけ。

 清十のところには三人の娘がいましたが、牡鹿はこの三人を次々と鹿の市につれていきます。

 長女が市に行って買ったものは、紺地に、白と黄とうす桃色の小菊が一面にちりばめられた反物。
 しかし、市から帰る途中、菊の模様が次々に零れ落ちてしまいます。

 次女が市にいくのは、まっくろの闇夜。闇夜があぶないといわれ、次女が買ったのは、ランプ。このランプは、牡鹿の角から落ちて、ガラスが砕けてしまいます。ここで20頭あまりの鹿とあいますが、牡鹿は「生きた鹿がいく」とかすれた声でいいます。

 このあたりで、鹿の正体がみえてきます。鹿の市で品物を売っている鹿も、殺された鹿。

 末娘が牡鹿と天にのぼるという結末。

 清十と三人娘の物語のようですが、清十に殺された鹿の側から見ているようです。
 
 作者はどんな読者を想定していたのでしょうか。幻想的で難解ですが、命についてじっくり考えさせてくれます。     


アメリカワニです、こんにちは

2015年05月24日 | 絵本(外国)
アメリカワニです、こんにちは  

   アメリカワニです、こんにちは/作・絵:モーリス・センダック 訳:じんぐう てるお/冨山房/1986年初版

 

 副題にABCの本とあり、ワニの親子が登場して英単語を説明してくれます。
 ほんとに、さまざまの工夫がされている絵本。

 上段に単語、中段に絵、下段に日本語がありますが、原本での下段はやはり英語でしょうか。

 ふざける(fool)、かんしゃく(tantrum)、うぬぼれ(vain)といった単語もでてきます。

 これで単語を覚えるというより、文字に親しむ感じでしょうか。
 Xは、壁一面にXをかいていて、絵だけでも楽しめます。            


どっちもどっち・・・イラン

2015年05月23日 | 昔話(中近東)

        どっちもどっち/アジアの笑い話/松岡享子・監訳/東京書籍/1987年初版


 イラン版の「和尚と小僧」。地主と小僧さんがでてきます。

 鳥の丸焼きと果物のジュースを貰った地主が、小僧さんに屋敷に運ぶようにいいつけ、布のおおいのなかに、生きた小鳥と毒のびんがはいっているので、とちゅうでおおいを取ってはならないと言い聞かせます。


 小僧さんは鳥の丸焼きと、ジュースをのみほし、あとで地主から問い詰められます。

 小僧さんの弁明。
「屋敷にもどるとちゅう、強い風が吹いてきて、小鳥にかぶせてあった布をふきとばしました。おわびに びんの毒をのんで、いつ死ぬかいつ死ぬかと待っているところです」。

 欲張りをやんわりとたしなめるのは、どこの国にもあります。


たからさがし、うばすて山

2015年05月22日 | 紙芝居

 これまで、昔話、創作、絵本をフィールドにしていましたが、やはりそれだけでは足りなくて、どんな紙芝居があるのか、のぞいてみることに。

 図書館にはたくさんの紙芝居があっても、自分でみてみないことにははじまらない。

 「うばすて山」は、昔話にあるのですんなり入ってきました。

 「たからさがし」は創作。宝箱を開けると、山が出てきて、山という漢字に。
 木がでてくると、木という漢字に。
 月が出てくると、月という漢字に。

 楽しみながら漢字が覚えられるようです。

 紙芝居は字と絵の確認がやや難しい。

 図書館には英語版の紙芝居もあり、随分と借り出されていました。どんなふうに利用されているか興味がわくところ。


レダン山のお姫様・・マレーシア

2015年05月19日 | 昔話(東南アジア)

      レダン山のお姫様/マレーシアの昔話/藤村祐子 タイバ・スライマン編訳/大同生命国際文化基金/2003年初版


 レダン姫というのは魔法使いで、それはそれは美しい。

 これを聞いたマラッカ王が結婚を申し込む。

 レダン姫がだした条件というのは・・・。

 お姫さまと王さまの城を結ぶ金の橋をかけること。

 黄金の橋をかけることができると、今度は王子の右腕を切って、コップ1杯の血をもってきてほしいという。
 悩みながらも、心を鬼にして、眠っている王子に短刀を振り上げますが、なかなかできません。

 今度こそと短刀をふりあげたとき、レダン姫があらわれ、自分の欲望のため、大切な息子を殺そうとする人とは、とても結婚することはできないと、姿を消してしまいます。

 慣れ親しんでいる昔話とことなって、あれっという感じで終わります。
 
 イスラムでは複数の妻をもつことが認められているので、王子がでてくるというのは、すでに王さまは結婚していて、何番目かの妻をもとめたというのかもしれませんが、そのあたりのことはでてきません。
 イスラムというと中近東というイメージですが、東南アジアでもイスラム教が根付いているということを頭において読む必要がありそうです。


ぴょーん・・大型絵本

2015年05月18日 | 絵本(日本)
ぴょーん  

    ぴょーん/作・絵:まつおか たつひで/ポプラ社

 

 お話し会で先輩が読んだのが、「ぴょーん」。

 かえるが、にわとりが、さかななどがぴょーんと飛ぶだけなのですが、大型絵本で迫力があって楽しめました。
 
 図書館には、「すてきな三にんぐみ」「はらぺこあおむし」「モチモチの木」「ぐりとぐら」などの絵本もあって、これまで普通の絵本にしか目がいっていなかったのですが、大型絵本のよさを再発見でした。                     


みかん売り八兵衛・・屋久島版絵姿女房

2015年05月15日 | 昔話(九州・沖縄)

      みかん売り八兵衛/日本の民話25 屋久島編/下野敏見編/未来社/1977年初版


 「絵姿女房」も地域によっていろいろです。

(鳥取版)
 むかし、あるところに山の木こりがおって、とっても器量良しの娘をもらったそうな。
 好いて好いてこがれてもらったので、ちょっとの間も離れることが出来ん。仕事もせずに女房の顔ばかりながめておったと。
 女房は心配して、「おらの絵姿を描いたるけえ、それを持って山へ行かっしゃい」
と、紙を出して自分の顔をさらさら描いたと。
 絵は、いまにも口でもきくかと思えるほど生き写しだったと。
 木こりは喜んで、絵姿を山へ持って行き、木を伐るそばへ置いて、伐っちゃぁ見、伐っちゃぁ見しておったと。
 そしたら、そこへ、大風がぶぶわぁと吹いた。
「おい、待て待て」
 大風は絵姿を飛ばしも飛ばしたも京のお城のお殿さまのところまで飛ばしたと。
「こりゃあ大変じゃあ。あの絵姿を見て、こがなええ女房があるかと知ったら、誰が盗みに来るかわからん」
 木こりはあわてて家へ戻り驚く女房を背負て、どんどこどんどこ連れ逃げたと。
 何日めかに、ある林を通っていると足もとには栗がいっぱい落ちとったと。 「ちょっとここへ腰掛けとれ、栗ィ拾って来る」
 木こりは、女房を木株におろして、栗を拾って先へ先へと行ってしまったと。
 ところで、京の殿さまは飛んできた絵姿を見て、さっそく家来に言いつけた。
「こがなええ女があるなら、ぜひとも連れて来い。わしの女房にする」
 そこで、大勢の家来が絵姿を持ってあちこち捜しまわっとったと。
 ちょうど栗の落ちとる林まできたら、絵姿そのままの女が木株に腰掛けとった。
「おお、これだ、これだ」
 家来は、いやおうなしに女房を馬に乗せて連れて行ってしまった。
 そのころ、栗拾いに夢中になっていた木こりが「そうじゃ、大事な女房を一人で置いとった」
と気づいて、あわてて引き返してみたら、女房の姿が見えん。
「こりゃあ誰ぞにさらわれたにちがいねえ」
 あっちこっち捜し歩いたと。
 そのうち、京のお城にべっぴんの女房がいるらしいという噂を聞いた。
 木こりは、それこそ俺らの女房にちがいない、と思い、ほうろく茶釜を沢山買って、ほうろく売りになって京のお城へ行ったと。
 お城の門の前を何度も何度も行ったり来たりしながら、山できたえたノドで、
「ほうろくやぁ」
「山の木こりのほうろくやぁ」
「ええ―ほうろくやぁ」
と、呼ばったと。
 お城の中の女房は、その声を聞いてにっこり微笑んだと。
 それを見た殿さまは、笑顔ひとつ見せたことのない女房が初めて微笑ったから、嬉しくなって聞いた。
「ほう、ほうろく売りが面白いか」
「はい、ほうろく売りを見たい」
 殿さまは、これまた初めて口をきいてくれたのでいっそう嬉しくなった。「よし」と膝を叩いて、さっそくほうろく売りを呼び入れ着物を取り換えたと。
 ほうろく売りになった殿さまは、
「ほうろくや、ほうろくや」
と、呼んでまわった。
 女房はころころ笑ったと。
 調子に乗った殿さまは、門を出たり入ったりしとったと。
 その内、夜になって門番が門を閉めてしまった。殿さまはあわてて門番に、
「わしじゃ、わしじゃ、ほうろく売りじゃ、いやちがう、わしじゃ」
と言うたけれども、門番はとりあわんのだと。
 そうやって、殿さまはほうろく売りになってしまうし、木こりは殿さまになって、好いた女房と一生お城でええ暮らしをしたそうな。


 ただし、この鳥取版は再話。

 ここででてくる男は木こりであるが、ほかでは百姓だったりする。

 また鳥取版ではほうろく売りでお城にやってくるが、桃売りの話もある。屋久島版ではみかん売り。

 みかんの値段をいう口上にリズムがある。

 「ーつ、ひっとられた。二つ、ふと尋ねた。三つ、みつけてえ。四つ、喜んだ。五つ、いつのまにか。六つ、むぞさかわゆさ。七つ、何のこと。八つ、やじろう。九つ、ここでおうた。十、得心した。はい十文」

 屋久島版で面白いのは、おばあさんが孫娘に養子をとりたいと願かけし、それを聞いていた八兵衛という男が、婿に自分の名前をいう。

 いろいろあっても、屋久島版の冒頭の場面は、ほかにはみられないように思う。

 また、この未来社版は語り手のお名前まで記されていて、82歳とあります。           


牛蒡と人参と大根・・山形版

2015年05月15日 | 昔話(北海道・東北)

 地域によって同じタイトルでもさまざまなパターンがある昔話。
 今、昔話を語る人は、テキストをおぼえて話す人がほとんどで、大きな違いはないが、もともと口承が基本の昔話。

 ということは、聞く側の反応をみて臨機応変に話を短くしたり、いろいろ付け加えて長くしたりということもあったようだ。同じ話が微妙に異なるというのに目くじらたてないで、素直に聞きたいもの。

 語る側にまわったらできそうにもないが、臨機応変に語れるようになったら一人前か?

 今度、この話をしてみたいと思っているところ。
 山形版も楽しい。ブックマークにある山形弁の昔話から・・・・。
 お風呂の入り方もいろいろで、山形版では宿屋で入る。


 牛蒡と人参と大根で、ある日、旅に行ったんだと。んであるところに泊まって、宿のじいさんが、「風呂に入ってください。」っていうものだから、お前入って来い、そなた入って来いて、
「まず、人参、先入って来い。」
「わかった。」
 なんて、人参、先一番に行ったんだと。そして、風呂に行って、なかなか熱いんだけど、水をどこから汲んできて埋めるものなのか、水がさっぱり見当たらないし、大きい音立てて聞いてるのもと思って、人参は熱いのを我慢してじゃぶっと入ってから、 急いで上がってきた。
「いやいや、いいお湯だった、まず。次は牛蒡入って来い。」
牛蒡、
 「そうか、おれ先入って来る。大根、おれ先に入ってくるぞ。」
 そして牛蒡は風呂場に行って、風呂に入ったと思ったら、いや、熱くては入れない。
 「いや、人参、入らないで、ちょっとあちこち拭いてきて、赤くなってきたんだな、こりゃぁ」
 そして、牛蒡、入りもしないで、そのまま帰ってきて、
「いや、いいお湯だった、いいお湯だった。大根入って来い。」
「そうか、それじゃあ、おれ最後に入れてもらうかなぁ。」
 なんて大根入りに行った。
 そして、行ってみたら、煮立つみたいに熱いお湯だったもんだから、
「ははぁ、こりゃ人参も牛蒡も入ったふりして、さっぱり入らなかったんだな。はて、風呂釜の近くなんだから、探せば水があるだろう。」て、ちょうど戸開けてみたら、ちいさい川が流れてた。そこから水汲んできて、いい塩梅に埋めて、ゆっくり大根は入って、頭のてっぺんから足の先まで、きれいに洗ってきたんだと。
 だから、人参は熱いお湯にちょっと入っただけで赤くなって、牛蒡は、入ったふりして入らなくって、大根はゆっくり入ったからきれいになったんだと。

最初は牛蒡と同じような色だったのに、人参も大根も、それからそういうふうに色が変わってきたんだと。

 どーびんと。


白髪の滝・・中国

2015年05月13日 | 昔話(アジア)

      白髪の滝/中国民話 宝のかご/またの せいこ・訳 え・新堂圭子/けやき書房/1995年初版  
  

 人間の生活にどうしても欠かせないのが火と水。

 昔は、川の水や雨水が貴重な水資源でしょう。

 この話は、中国少数民族の侗族(トンぞく)の話で、水不足になやむドウガオ山のふもとの村が舞台です。

 水は、7里先(一里は、尺貫法における長さの単位であるが、現在の中国では500m、日本では約3.9km、朝鮮では約400mに相当するとある)の川からかついできます。

 ある日、母親と二人暮らしの髪の長い娘が、ドウガオ山の中腹の岩場に、赤い丸大根をみつけます。

 おいしそうと赤大根をぬくと、水がほとばしります。しかし、赤大根はすぐに娘の手をはなれて、もとの穴にすっぽりはまってしまいます。
 娘はもう一度赤大根をひきぬき、穴に口をつけて水を飲みます。穴から口をはなすと赤大根はまた元の穴にはまります。

 ところが突然大風がふいてきて、娘は山の洞穴にはこばれてしまいます。そこにいた山神が、この山の水の秘密を人に話したら、お前を殺すと脅かします。

 それからすっかり元気をなくした娘は、ほほには赤みがなくなり、ろうのように青ざめ、黒い髪はだんだんいろがあせてきます。

 しかし、遠い川から水をはこんできたおじいさんが、石につまずき倒れ、水桶はこわれ、足から血をながすのをみた娘は、村の人たちに水のありかを知らせます。

 村の人たちは赤大根を砕き、穴をひろげると、その穴からは、とうとうと水が流れ、山の下のほうにながれます。

 やがて娘は大風にはこばれて山神の前にすわらされますが・・・・・。


 モンゴルの「石になった狩人」とおなじように、村の人たちのために自分を犠牲にすることをいとわない話ですが、おわりのほうでは、山神から助かり、ほっとする結末です。

 娘を助けるおじいさんは、みどりの髪とみどりの着物をきていますから、もしかすると森の精なのかもしれません。


 蛇口から水がでるのが当たり前と考えている子どもたちには、どううけとめられるでしょうか?