どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ダイアナと大きなサイ

2020年03月31日 | 絵本(外国)

    ダイアナと大きなサイ/エドワード・アーディゾーニ・作 あべ きみこ・訳/こぐま社/2001年

 

 日本では2001年に出版されていますが、原著の出版は1964年。そのせいかもしれませんが、数少ないカラーページは淡く、白黒の線画もとても落ち着いた感じです。

 ある冬の夕方、ジョーンズさんの家で、ジョーンズさんとおくさんと娘のダイアナが、居間でくつろいでいると、ドアがゆっくりあいて、角に、あかちゃんのうわぎを まいた大きなサイが、あたまをつきだしました。

 あわてた両親でしたが、ダイアナは、サイが風邪をひいているのに気がつき、暖炉のそばに ねかせると、風邪薬をひとびん、ねつさまし200粒を全部のませると、バターつきのトーストを何枚も食べさせます。ジョ-ンズさんのおくさんは、やたらと薬を買い集めていましたから薬はいっぱいあったのです。

 隣にはあかちゃん。このあかちゃんも、もののわかったあかちゃんで、おくさんが大騒ぎするのもふしぎにおもっていました。

 ジョーンズさんが、あちこち電話すると、サイは動物園から逃げてきたのがわかり、銃を持った3人の男があぶないからと射殺にやってきますが、なんとダイアナはサイと一緒に暮らすつもりと、説得しようとした男たちの前に立ちはだかります。

 それからサイは物置で夜ねむり、はれた夏の日は庭の花壇のあいだを散歩しました。

 ジョーンズさんは自慢の庭をあらされ、ダリアの花がサイに食べられてしまうので、はらがたちましたが、まだちょっとサイが怖くて、やめてくれとはいえませんでした。それでもお友達をお客に招いては、窓からサイを見物するのでした。

 ジョーンズ家のあかちゃんは、やがて立派な青年になり、結婚して自分の家庭を持ち、子どもとダイアナにあいにきては、サイと遊びます。大人は心配しましたが、子どもたちはサイと遊ぶのが大好き。サイもとてもおとなしく、子どもを こわがせることは まったくありませんでした。

 ダイアナとサイもおなじように年を取り、ジョーンズさん夫婦が海のそばの小さな家に引っ越しすると、古い家にはダイアナとサイだけ。

 そのあとも、サイの具合が悪いときは風邪薬をのませると、かならず元気になり、バター付きトーストを食べ、外がさむいときは、暖炉のそばでねむります。

 ダイアナもサイもおばあさんになりますが、ふたりのあいだには、ゆったりと時間がながれていきます。

 年をとり白い服を着たダイアナが、白いサイと一緒に歩いている最後の余韻がなんともいえません。

 サイとのくらしで大きな事件が起こるわけではないのですが、幸せの形も人それぞれ。最初の出会いが、その人の一生を左右するのかも。


えのないえほん

2020年03月30日 | 絵本(日本)

    えのないえほん/斉藤倫・作 植田真・絵/講談社/2018年

 

 「絵のない絵本」とありますが、黒いページに白い文字が続く中に、森や花が淡い色で最小限に描かれています。冒頭に

 「あるところに みにくい けものが いました

  どんなに みにくいか  その すがたは

  たとえ せかいいちの えかきを つれてきても

  えがけなかったことでしょう」

とあります。

 この世から 消えてしまいたいと思っていた みにくいけものですが、仕立屋で働いていた目の見えない少女に出会い、心を通い合わせます。

 ところが、けものが「あさやけや くもや もりや いずみや わたしの しらない たくさんの うつくしい ものを おしえてくれる あなたも きっと とても うつくしいのね」といわれ、はじめて 少女を 憎らしいと 思います。なんて ひどいことを いうんだろう それきり けものは 少女の前から 姿を 消してしまいました。

 そのあとも、少女は 毎日森の入り口に やってきますが、けものは でていきませんでした。

 いつか少女が、森にやってこなくなった冬の冷たい雨の日、ねむれない日が続き、けものは はじめて 村に出かけました。おそれた村の だれかが ついに 銃をうちました。玉は何発か けものを 打ち抜きますが けものは 構わず少女の家に向かって ただ、まっすぐに すすみました。

 少女は ひどい熱で ふせっていたのです。

 「ありがとう きみに あえなかったら ほんとうに ぼくは みにくい けものに なるところだったよ」という、けものの最後に ジーンときました。

 目が見えなくても予断なく、けものを ありのままに うけいれる少女の優しい心が けものとの会話を通じて伝わってきました。

 見えていると思っている自分が、じつは、本当のことに気がついていないのでは? とも思わされます。


おつきさまのやくそく

2020年03月28日 | 絵本(日本)

    おつきさまのやくそく/いとうひろし/講談社/2009年

 

 おひさまが しずんで あたりは すっかりくらくなりました。それでも、お父さんは、帰ってきません。今夜は僕一人、ひとりで ごはんをたべて ひとりで ベッドに はいります。

 きょうは満月。でもくもっていて 夕日も夕焼けもみえませんでした。そんな時、おつきさまがぼくの家にやってきました。

 「こんばんわ」お月さまが手をふっていました。ぼくは いそいで 窓をあけました。

 それから二人で、しんけいすいじゃくしたり。お月さまがハンバーグをつくってくれました。おとうさんがつくってくれていたのはカレー。ごはんのあとは、かくれんぼ、お風呂、そのあとはジュースを飲んで、テレビを ちょっぴりみたり。

 ベッドに入りながら、「お月さまは いつも こうして みんなと 遊んでいるの?」と、きくと、お月さまは、曇った日の満月だけとこたえてくれました。

 ひとりぼっちの 子どもと あそぶのは、曇った満月の日だけ。それも 一人の子に一回だけ。

 「ぼくがおとなになって おとうさんになって、ぼくのこどもが ひとりぼっちになる 夜が あったら ぜったいに あそびにきてね」というと、お月さまは「うん、くるよ」と約束してくれました。

 そして、寝る前にお月さまが かえるのおやこの お話をしてくれます。でも、ぼくは いつのまにか 眠ってしまい、あとは よく わかりませんでした。

 気がつくとおとうさんが あたまを なでてくれていました。だけど お月さまは、どこをさがしても いませんでした。おとうさんに お月さまと遊んだことを 話すと、お父さんは お話の続きを話してくれたのです。

 じつは お父さんも ひとりぼっちだった日に お月さまと 遊んだことがあったのです。

 ひとりぼっちの子を なぐさめようとやってきたお月さまですが 何でも知っているようで、子どもっぽいところがいっぱい。かくれんぼでは、ひかりが もれてすぐみつかってしまい、ほめられると、鼻の穴がひろがり、ぼくが わざと 神経衰弱でまけてあげると ぴかぴか ひかって おおよろこび。でも子ども目線であるのが一番です。

  この世の中、いつ病気、事故、災害などで単身家庭になってしまうかもしれません。小さい子にとって、ひとりぼっちですごす夜のこころぼそさは想像に難くありません。

 お月さまが「おかあさんが いなくて さびしい?」と、ぼくにきく場面があり「みんなと おなじことをきくんだね」と、ぼくは こたえるのですが・・。

 この物語では、お父さんが家で仕事をしていて、しょっちゅう家を留守にしていないので、素直に受け止められるのですが、いつも外にでているとしたら、別の物語になるのでしょうか。

 自分の子どもが小さいころ、シングルファーザーがいたことを思い出しました。


山んばあさんとむじな

2020年03月27日 | 絵本(日本)

    山んばあさんとむじな/いとうじゅんいち:作・絵/徳間書店/1996年

 

 村のいたずら坊主の4人組は「暗くなるまで遊んでいると、むじなが、化けて出るから、明るいうちに帰らんといかん。」と、いつも山んばあさんにおこられても、うら山をなわばりにして、わるさばかり。

 ある日、四人組が、暗くなるまで遊んでいると、かぞえてみると、どうも一人多い。

 山んばあさんから、むじながでたんじゃといわれても、四人組は、そんなこと、きいちゃいない。ところが、いつものように日がおちて、あたりがみえにくくなったころ、どこからともなく、くしししし・・という声。

 また一人多いと一本道を逃げ出していると、いきなり道が消えて、田んぼに落っこちると田んぼのドロが、もくもくっと、もりあがり大むじなに。

 竹藪に 逃げるとササボウズがとおせんぼ。沼に落っこちると 沼にすんでいる どんこが四人組を飲み込んでしまいます。

 はっときがつくと、あたりには、おばけがウヨウヨ。

 四人組の運命は?

 「とうぶんしずかになるわい」と、にたっとわらう山んばあさんの正体は?。

 いたずらっ子四人組が、かえるを火あぶりしたり、へびでひな鳥をいじめたりという冒頭は衝撃的ですが、いまこんないたずら坊主は、いるでしょうか。

 怖い思いをした四人組、おとなしくなったかな?


のんき男

2020年03月26日 | グリム

     グリムの昔話2/フェリックス・ホフマン:編・画 大塚勇三・訳/福音館文庫/2002年

 

 グリムの大塚訳では、語られているものとタイトルが微妙にちがいます。

 「りこうなグレーテル」は「かしこいグレーテル」、「熊かぶり」は「熊の皮を着た男」がおなじみのタイトルです。

 この「のんき男」は、イメージしにくいタイトルです。

 御用済みになった兵隊が、四クロイツアーの小銭と軍隊パン一個をもらい歩きだします。

 とちゅう、天国の門の鍵を預かっているペテロが、こじきに姿を変え、のんき男にめぐみをこいます。ずいぶん気前のいい男は、パンのかたまりを四つにわけ、そのうちの一つとクロイツアー銅貨も一枚ペテロにあげます。

 ペテロはそのごも、こじきに姿をかえ、二度もめぐみをこいます。

 そしてペテロはこんどは、お払い箱になった兵隊の姿をして、さらにめぐみをこいますが、この時点では、のんき男もすっからかん。

 ここまでくると、めぐんでくれた見返りに、なにかを与えたり、不思議な力をあたえてくれたりするのが相場ですが、このあと二人は一緒に旅をつづけます。

 途中、ペテロは今にも死んでしまいそうな家の亭主を助けます。ご亭主のおかみさんがおれいをしようとすると、ペテロは断ります。のんき男は、どうしてもとさしだされた子羊を自分がつれていくことで肩に担いで歩きだします。

 肩に担いでいくのは大変、それにおなかもぺこぺこ。子ヒツジを料理しますが、料理の最中、ペテロは、料理ができるまで散歩するから、自分がかえってくるまで食べないようにいいのこします。子ヒツジがすっかり煮えてもペテロはなかなかかえってきません。のんき男は心臓をみつけると、味だめしに食べているうち、全部食べてしまいます。

 ようやくかえってきたペテロが心臓を食べたいというと、のんき男は、子ヒツジには心臓がないと言い張ります。心臓がないなら子ヒツジはいらないというペテロにかわって、のんき男は残りのぶんを背嚢に入れて旅を続けます。

 川をわたることになって、ペテロはなんなくわたりますが、のんき男が渡ろうとすると、水がどんどん増えて首まであがってきます。「助けてくれ!」というのんき男に、「子ヒツジの心臓を食ったって白状するかい?」というペテロに、のんき男が「食うもんか!」というと水はどんどん増えます。けれどもペテロはのんき男をおぼれ死なせようとせず、水をあさくして川を渡らせます。

 こんどは王さまのお姫さま亡くなったいう話を聞いて、ペテロは、死人の手足をばらばらに切り離し、それを鍋にほおりこみ、ぐつぐつ煮て肉と骨が離れると、白い骨を鍋からテーブルの上にのせ、自然のままの順序通りならべると「いとも尊き三位一体の御名において告げる。死者よ、立て!」ととなえます。するとお姫さまは立ち上がります。

 喜んだ王さまから、望むほうびをあげるといわれてもペテロは断ります。王さまはのんき男が、しきりにほしがっているのをみて、のんき男の背嚢に金貨をぎっしりつめこませてやります。

 ほうびをことわったはずのペテロでしたが、森の中に来ると、金貨を分けようといいだします。そして金貨を三つの山に分けます。二人きりなのに三つに分けるというのは合点がいきません。するとペテロさまは「一つはおれの分、一つはおまえの分、もう一つは子ヒツジの心臓を食べた男の分だ!」といいだします。誘導にひっかかったのんき男は、二つの金貨の山をさらい、「子ヒツジにだけ、心臓がないなんてあるはずがない」といいます。ペテロさまは、のんき男に嘘をついたのを認めさせると、ひとりで立ち去っていきます。

 さてこののんき男、お金のあつかいかたをさっぱりしらず、むだづかいしたり、やたらと人にやったりしましたから、しばらくすると、またまた無一文になりました。

 お姫さまが亡くなったある国にやってきたのんき男は、ペテロの真似をして死人を生き返らせようとしますが、うまくいきません。窮地に立ったのんき男のまえに、ふいにペテロさまが除隊兵姿であらわれ、急場をたすけますが、ちょっとでもお礼をねだったり、もらったりしないように言い残して再び姿を消します。それでもしたたかなのんき男は、遠まわしにいったり、うまく駆け引きしたりしたあげく、自分の背嚢に金貨をつめさせることに成功します。

 城の外にまっていたペテロは、のんき男がまちがった道はいらないように背嚢にふしぎな力を与えます。のんき男が背嚢に入れたと願ったものは、なんでもなかにはいってしまうというものでした。

 このあとも金をなくしてしまったのんき男でしたが、宿屋で「あのガチョウの丸焼き二つが、暖炉の戸棚からでて、この背嚢にはいりますように!」というと、たしかにガチョウの丸焼きは背嚢の中にありました。

 ある村で宿屋の亭主から泊めるのをことわられたのんき男は、生きて戻った人はいないという城に泊まることにします。

 ここにいた九匹の悪魔を背嚢にいれて一晩をすごしたのんき男は、鍛冶屋に背嚢を大きいハンマーでぶったたかせます。八ひきは死んでいましたが、一ひきだけは地獄へかえっていきます。

 やがて死期が近いのを悟ったのんき男は、ひろくて気持ちのいい道をとおって地獄へいきますが、地獄の門番は、九ひきめのあの悪魔でした。ひどい目にあった悪魔は、絶対にいれたくありませんでした。

 次に、せまくてでこぼこした道を歩いて天国にやってきたのんき男をまっていたのはペテロさまでした。

 天国に入るのをこばまれたのんき男は、「おまえのものみたいな背嚢のほうも、そっちにひきとってくれ。これっぽちも、おまえの世話にはならないや。」と大見えをきります。

 そして、ペテロさまが、背嚢を格子のあいまから天国の中に入れ、椅子のわきにひっかけると・・・。

 

 ”のんき男”といいますが、神さまといい勝負。のんきどころか したたかさも持ち合わせていました。


こぎつねキッコ うんどうかいのまき

2020年03月25日 | 絵本(日本)

        こぎつねキッコ うんどうかいのまき/松野正子・文 梶山俊夫・絵/童心社/1989年

 

 子ども十人、先生一人、お部屋がひとつの山の幼稚園の運動会。旗がはりめぐらされ、花火のはじまりの音。

 おとうさん、おばあちゃん、おうちのひともあつまってきました。

 かけっこ、たまいれ、つなひき、だるまきょうそう、そしてお弁当のあとは、くまやおうさま、おひめさま、おうじさま、あかおに、あおおに、こぶじいさん・・と仮装行列。

 裏山に住んでいた、こぎつねのキッコは、楽しんで運動会のようすをみていましたが、仮装行列ならばれないだろうと、おかあさんがキッコをおんぶして行列の一番うしろにつきました。

 運動会が終わって、みんな何になったか、くちぐちに いいましたが きつねはだれもこたえません。

 みんなは首をかしげましたが、多分本物だった「また あそびに おいで」と、歌いながら山の幼稚園をおりていきました。

 一緒に楽しみたいと思っていたキッコに、おかあさんがとびっきりの贈り物をしました。

 コロナの影響で、今年の幼稚園・保育園運動会はどうなるでしょうか? 保護者の不参加も考えられるのでしょうか。


猫山

2020年03月24日 | 絵本(日本)

    猫山/齋藤隆介・作 滝平二郎・絵/岩崎書店/1983年

 

 イワナ釣りに夢中になっていた三平が道に迷い、森の中の家に、一晩とめてもらおうと しらがのばあさんに、おねがいすると そこには十四五人の子どもが。

 夜中に、じぶんをそっと呼ぶ声に、三平が目を覚ますと、そこには三年前に迷い猫になったニャンコが。

 ニャンコは、としよりばばは、猫ばばで、子どもたちは、みんなさらわれてきたまよい猫やすて猫だという。そして、早くしないと、猫ばばに食べられてしまうから逃げろという。

 ひとりでにげろというニャンコに「おまえのおっかあが、おまえをおもいだしちゃ ニャーニャーないているぞ! くるんだ!」と、一緒に逃げだした三平は、ビクのなかからイワナをつかみだし一匹づつなげ時間をかせごうとしますが、猫ばばは「コーラ子猫ども。そのイワナは オラのものだ。そいつをくったら 猫ナベだぞ。」と、みんな食べてしまいます。

 それをみた三平は、ビクをさかさまにしてイワナを全部まき散らし、子猫たちが、はらいっぱい食べられるようにしますが、猫ばばは、みんおれのものだと、子猫をおいはらいます。

 すると三平は大声で、「みなで力をあわせれば、たった一ぴきの猫ばばは、やっつけられる。おれも手伝うから やっちまえ!」と、猫ばばにとびつき、子猫たちも、ひっかかれたり、まりのように けとばされたりしたけれども 猫ばばに とびつき、川にすててしまいます。

 滝平二郎さんの切り絵も、猫ばばが、包丁をゴッシゴッシと 砥石でといでは、左手の親指で 切れ味を試す影絵や、でっかい白い猫ばばがイワナを独り占めする場面といい、迫力満点です。

 一人ではなく、みんなの力を合わせれば 怖い猫ばばもやっつけられるのだと、斎藤隆介さんのメッセージも明快です。 


上のおばあちゃん下のおばあちゃん

2020年03月23日 | 絵本(外国)

    上のおばあちゃん下のおばあちゃん/トミー・デ・パオラ:作・絵 たかぎゆきこ・訳/絵本の家/1988年

 

 四歳のトミーには、おばあちゃんと九十四歳のひいおばあちゃんがいます。おばあちゃんは、一階の台所でいつもいそがしそう。ひいおばあちゃんは、二階のベッドでねたきりです。

 トミーは<下のおばあちゃん><上のおばあちゃん>とよびわけていました。

 トミーは日曜日によくちかくのおばあちゃんの家に遊びに行くのをとても楽しみにしていましたが、上のおばあちゃんはトミーのためにミントキャンデイを用意したり、ひそひそごえでお話をしてくれたり。トミーもミルクやクラッカーを運ぶお手伝いをしたり。

 ところが、ある日ひいおばあちゃんは、なくなってしまいます。はじめは、そのことが理解できないトミーでしたが、ママは とても しずかな声で「でも、あなたが 上のおばあちゃんのことを おもいだせば、いつでも おもいでのなかで あえるわ」と話してくれます。

 そして、その夜見た流れ星が、ひいおばあちゃんからのおわかれのキスだと、ママがやさしくいいました。

 それから年月日が流れ、トミーが 若者になるころ 下のおばあちゃんもなくなります。

 トミーとひいおばあちゃんの 日常の触れ合いをとおして、人はいつかはなくなる、そんなことを静かに語りかけています。

 ひいおばあちゃんも、家族に見守られ、自宅で生涯を終えたのは、幸せだったのでしょう。

 昭和63年度中央児童福祉審議会推薦図書<幼児向>とあるのですが、読者の対象を限定してしまうのは、どうにも疑問です。


森の中の三人の小人

2020年03月22日 | グリム

  グリムの昔話2/フェリックス・ホフマン:編・画 大塚勇三・訳/福音館文庫/2002年

 

 出だしは、12月頃の定番の昔話「十二のつきのおくりもの」のシチュエーション。 

 「十二のつきのおくりもの」は、ままむすめが、冬の日にスミレをつんでくるようにいわれ、森のなかで、十二のつきの精にあい、三月の精に助けられスミレを手に入れます。

 次にはイチゴ、リンゴが欲しいといわれ、六月、九月の精に助けられ、おのおのを手に入れるという物語。

 この話では十二の月の精のかわりに、三人の小人がままむすめを助けます。冬のある日、継母からイチゴをとってくるようにいわれ、森の中で三人の小人に会い、イチゴを手に入れます。それだけでなく、日ごとに美しく、一言いうたびに口から金貨がこぼれ、さらに王さまの妃になるという贈り物まで。

 継母の娘は、日ごとにいやらしく、一言いうたびに口からヒキガエルがとびだし、不幸せな死に方をするという贈り物。

 二人の娘が森にでかけるとき、ままむすめは紙の服、もう一方は毛皮の暖かそうな服。

 ままむすめは、王さまの妃になりますが、継母と娘に川に放り込まれ、娘はお妃のベッドに入り込みます。母親は娘と王さまが会話しないように策略しますが、王さまが話しかけ、偽のお妃が返事するたびにヒキガエルがとびだすので、疑問をもちます。

 その晩、料理番のところへカモが一羽やってきます。カモはお妃の姿になって、生まれていた男の子に二晩お乳をのませます。三晩めにカモは、お妃の姿で王さまの前にあらわれます。

 「ほかのものをベッドからひきずりだし、水に放り込むような人間は、どうしてやったらよいものかな?」と王さまが聞くと、継母は「そんな悪党は、くぎをどっさりうちこんだ樽につめ、山の上からころがして、川にころがりこんでやるにかぎります。」とこたえます。

 すると継母と娘は自分の裁いた通りに!

 ほかの昔話にもあるシチェエーションが組み合わされていますが、出だしで親の再婚にいたる経緯が詳しいのが特徴でしょうか。


猫は生きている

2020年03月21日 | 田島征三

    猫は生きている/早乙女勝元・作 田島征三・絵/理論社

 

 75年前、10万人がなくなった3.10の東京大空襲。

 降り注ぐ焼夷弾のなかで、炎から必死で逃げ延びる人々。

 焼け野原の川にすきまもなくうかぶ死体。

 丸焼けになった消防自動車、鉄かぶとの男が運転台のハンドルにかがみこんで死んでいれば共同便所のなかにも立ったままの死体、馬や牛や犬の死骸も。

 子どもと離れ離れになり、せめて背中におぶった子だけでも助けようと、地面をほり、その上にわが子をすくおうと覆いかぶさり焼け死ぬ母親。

 

 小学生のころ先生が読んでくれて強烈な記憶がのこっている方も多いようです。

 東京大空襲を体験した方も高齢になって語りつぐ機会も少なくなっています。

 もしかすると若い世代にとっては、こんな事実があったことに、ほとんど興味を持たないかもしれません。しかし十万人が、どんな状況でなくなったか忘れることはできません。

 気楽に読めるという絵本ではありませんが、事実の一端に触れ過去のことだからと忘れず 後世に伝えていく責任があるように思いました。

 絵本にしては数少ない絵ですが、田島さんの炎の色が、悲しみや怒りを表現しているようでした。


杜子春

2020年03月19日 | 絵本(日本)

    杜子春/芥川龍之介・作 藤川秀之・絵/新世研/2003年

 

 昔つかっていた国語の教科書には、芥川龍之介の作品がのっていたように記憶していますが、今の小中学校の教科書には、どうでしょうか。

 この絵の描写は原作のイメージを大きく膨らませてくれます。とりわけ後半部分は、妖しげな世界です。

 ある春の日の日暮れ、唐の洛陽の西門の下に杜子春という若者がぼんやり空をあおいでいました。彼は金持ちの息子でしたが、親の遺産をつかいつくして、その日の暮らしにも困るくらい、あわれな身分になっていました。

 「いっそ川へでも身を投げて、死んでしまったほうがましかもしれない」と、とりとめもないことを思いめぐらしている杜子春の前に、片目すがめの不思議な老人あらわれ、「この場所をほってみるがいい。きっと車いっぱいの黄金が埋まっているはずだから」といいます。

 杜子春がその場所を掘り起こすと、老人が言ったように大きな車にもあまるぐらいの黄金がでてきました。たちまち大富豪になった杜子春は皇帝にも負けないくらい、贅沢な暮らしをはじめます。しかし財産を浪費するうちに、三年目の春には一文無しになってしまいます。

 杜子春は、また西門の下で老人に出会い、黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らしますが、三年後にはその財産も無くなってしまいます。

 そして、またもや西門の下で、また老人から黄金のあり場所を教えてやろうといわれますが、「人間はみな薄情です。金持ちになったときには、世辞も追従もしますが、いったん貧乏になれば、やさしい顔さえもみせはしません。もういちど大金持ちになってもなんにもならないような気がするのです。お金はもういらないです。」と、杜子春はことわります。

 杜子春が老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願すると、老人は自分が鉄冠子という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行きます。

 峨眉山の頂上で、鉄冠子は杜子春にむかって「たといどんなことがおころうと声をだしてはいけない。もし一言でも口をきいたら、お前はとうてい仙人にはなれないものだと覚悟をしろ」といいのこし、天上にいきます。

 虎や大蛇に襲われても、身の丈三丈もあろうという神将がほこの切先を胸元につきつけても黙然と口をつぐんでいた杜子春の魂は地獄へ。

 剣の山、血の池、炎の谷、極寒地獄の責め苦にあわされても、声をださなかった杜子春の前に、閻魔大王の命令で畜生道に落ちてやせ馬になっていた両親があらわれます。

 閻魔大王は杜子春の前で両親をめった打ちにさせます。両親の肉はさけ骨がくだけても無言を貫いていた杜子春に、「心配をおしでない。わたしたちはどうなっても、おまえさえ幸せになれるのなら、それよりけっこうなことはないのだからね。大王がなんとおっしゃっても 言いたくないことはだまっておいで。」という母親のかすかな声が伝わってきます。

 半死の状態にもかかわらず、息子を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった杜子春。

 気がつくと杜子春は洛陽の門の下にいました。すべては仙人の幻でした。

 「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」という杜子春に、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を残します。

 

 親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちを表現するのに、地獄の恐ろしい描写がかかせなかったのですが、杜子春のその後はどうだったのでしょう。

 金は使えばなくなるもの。両親が畜生道に落ちた理由は描かれていませんが、親の残した財産を浪費し、二度も同じことを繰り返す杜子春は、まわりからちやほやされるのが、心地よかったのかも。

 金持ちになればすりより、貧乏になれば手のひらを返して見向きもしない人々、まあ金持ちになったことがないので、わかりませんが・・。


しろいうさぎとくろいうさぎ

2020年03月18日 | 絵本(外国)

   しろいうさぎとくろいうさぎ/ガース・ウイリアムズ:文・絵 松岡享子・訳/福音館書店/1965年

 

 50年以上前の絵本で、色がついているのはたんぽぽの黄色だけ。累計出版部数が250万といいます。

 しろいうさぎとくろいうさぎ、二ひきのちいさなうさぎが、ひろいもりのなかに、住んでいました。
 二ひきは、うまとび、かくれんぼ、かけっこ、ひなぎくとびなどして楽しく遊んでいましたが、くろいうさぎはなんども、とても悲しそうな顔をします。
 しろうさぎが、くろうさぎにきくと、いつも「うーん、ぼく、ちょっと かんがえていたんだ。」というこたえ。

 なんどもくりかえしてから「ぼく、ねがいごとをしているんだよ。いつも いつも、いつまでも、きみといっしょにいられますようにってさ。」と、くろいうさぎがこたえます。

 すると しろいうさぎが「じゃ、わたし、これからさき、いつも あなたと いっしょにいるわ」と、こたえます。

 この2ひきのしあわせそうなようすをみて、ほかのちいさなうさぎが、おおぜいやってきて、2ひきを囲んで結婚式のダンスをおどりました。

 たんぽぽの花を耳にさした2ひきのまわりをうさぎがおどるのは月のひかりのなかでした。

 仲良しだけでは、物足りない 気持ちをストレートに伝え 結婚できれば一番いいのかも。人間は厄介な生きもので、いろいろ考えすぎて結婚にいたらないのもおおそうです。

 派手さはありませんが、じわっとくるものがあります。ただ、子どもにはわかりにくいかも。


ひとりぼっちのつる

2020年03月17日 | 絵本(日本)

    ひとりぼっちのつる/椋鳩十・作 黒井健・絵/理論社/2018年

 

 鶴たちは、餌を食べるときも、夜眠るときも、空を飛ぶときも、いつも家族みんなそろっています。

 鶴の群れに ひとりぼっちの子どもの鶴がいました。子どもの鶴は、この沼地に来た時から、ひとりぼっちでした。

 子どもの鶴がゆっくり眠れるのは、親鳥がいつも見張りをしているからですが、ひとりぼっちの子どもの鶴は、自分ひとりで、きつねやイヌから身をまもらなければならなかったのです。

 鶴の家族は、みんなきまった餌場をもっています。ひとりぼっちの子どもの鶴は、みんなから離れたところを餌場にするしかありませんでした。ところが餌場には葦がはえていて、ザワザワと音をたてていて、イヌやきつねがちかづいてきても足音もきこえてきません。

 近くに、早く走れず、高く飛ぶこともできないので、獲物をつかまえることができない、年とったきつねがすんでいました。

 年とったきつねは、ひとりぼっちの子鶴にねらいをつけ、とびかかります。間一髪危機をのがれた子鶴でしたが、きつねに追いかけられ必死に逃げ出します。鶴たちは用心深く空に舞い上がりますが、子鶴を助けてくれません。きつねと子鶴の距離は、どんどん狭まっていきます。このままでは、きつねに食べられてしまいます。

 このとき勇気のあるおとうさん鶴が、年とったきつねと対峙します。黒井健さんの 鶴がきつねに立ち向かう緊迫した場面は感動的です。

 ひとりぼっちの子鶴は、優しい家族の仲間に入れてもらい、この一家といっしょに、ゆっくり羽をうごかして、ねぐらに、むかってとんでいきます。

 子鶴には、手をさしのべてくれた鶴がいたのですが、その一方で、年とったきつねのその後はどうだったのでしょうか。


お化け屋敷へ ようこそ

2020年03月16日 | 絵本(日本)

    お化け屋敷へ ようこそ/川端誠:作・絵/BL出版/2008年

 

 将棋が得意なつよし、お化けにくわしいしんのすけ、すこしこわがりのこうへい、なんにでも興味を示すたくやの四人組が、お化け屋敷とうわさのたかいお屋敷を探検しようと、なかへはいっていきました。

 お化けたちと四人組が交互に出てきます。

 四人組にはお化けが見えていないのですが、お化けから四人組はよくみえています。

 がらんとした部屋を見て、空き家だったと屋敷をでようとすると、池で何か動いています。

 なにかいそうですが 四人組にはみえません。つめたい風がふいてきて、うしろに だれかいそうです。一斉に振り向いてみると・・・。

 小学校低学年で読み聞かせされていますが、時期はおばけですから夏頃。

 裏表紙の見返しにはお化けがぞろり。

 カッパ、ろくろっ首。のっぺら坊、一つ目小僧、ちょうちん。

 ちいちいこばかま、しろべったり、むっつりなど、なじみのないものも。

 「俺たちをこわがるとは、なかなかできのいい人間じゃあないか」というお化けのセリフがいい。たしかに怖がられないとお化けの沽券にかかわります。


「ニャオ」とウシがなきました

2020年03月15日 | 絵本(外国)

   「ニャオ」とウシがなきました/エマ・ドッド・作 青山南・訳/光村教育図書/2013年

 

 動物たちの当たり前の鳴き声がかわってしまうと?

 ネコが寝ていると、おんどりの大きな声で叩き起こされ、「こいつはなんとかしなくちゃ」と、しばらく考えてネコは得意の魔法をかけることを思いつきました。

 次の日、おんどりが息をいっぱい吸い込んで声を出すと、「チュー、チュー、チュー」

 次に目を覚ましたブタが口を開くと、「コッコ、コッコ、コッコ!」

 まわりでは、めんどりたちが「ブウ! ブウ!」

 ヒツジたちが「ワン、ワン」
 ヒツジのみはりをしていたイヌが「メーメー!」

 ウシは「ニャオ」、ウマは「ガー」、アヒルは「ヒーン」

 これは大変と、みんなで「ぼくの声をかえせ! あたしの声をかえせ!」とネコを追いかけ、なんとかもとのとおりになりますが、おやおやネコが鳴くと?

 動物たちの表情、とりわけ目が生き生きして、躍動感があふれています。それになによりも動物たちのにぎやかな鳴き声。

 子どもたちは、都会でも地方でも、イヌやネコはともかく、ニワトリやヒツジ、ウシなどにふれることができなくなっているのが残念です。