どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

旅する蝶

2013年09月30日 | 絵本(自然)
旅する蝶  

    旅する蝶/新宮 晋/学校法人文化学園 文化出版局/2012年  

 

 カナダやアメリカの北部から南下を始め、4000キロを飛び、メキシコの森にたどりつき、そこで越冬し、春にはまた北上を始めるオオカバマダラの絵本。

 ただメキシコからカナダに北上するオオカバマダラは、3世代から4世代をかけて出発点に戻るという。

 普段目にしている蝶についてどれだけのことを知っているだろうか。

 世界には現在、約1万2千~2万種類の蝶がいるという。

 小さいイメージしかない蝶も、羽を広げると約30センチもの大きさがある蝶が、ニューギニア島東部の限られた地域に生息するという(アレキサンドラトリバネアゲハというらしい)。

 また日本にはハマヤマトシジミという、わずか5ミリほどと、世界でも小さな蝶の中に入る蝶がいるそうである。

 日本の蝶は、中国や東南アジアと昔陸続きだったころ、島となった日本に取り残されたという。

 ついでにいうと、蝶の正式な数え方は、一頭、二頭というのもはじめて知ることができた。

 絵本は、いろいろ調べてみるきっかけにもなる。

 ところで、NHKの子ども科学電話相談で蝶はどの程度飛ぶかという質問があって、この絵本のことを思い出しました(2014.8.4)。

 NHK日曜日の「ダーウインが来た」で、アサギマダラが取り上げられていました。マーキング調査で実態が少しづつわかってきたようですが、一日80Km、日本列島を縦断。世代交代しながら飛び続けるということ(2015.1.11)。


ひみつのとびら・・モロッコ

2013年09月29日 | 昔話(アフリカ)

    ひみつのとびら/大人と子どものための世界のむかし話11 モロッコのむかし話/クナッパート・編 さくまゆみこ・訳/偕成社/1990年初版


 モロッコというと映画「カサブランカ」が浮かぶ。これに出演した女優のイングリッドバーグマンは、私生活でも波乱にとんだ人生をおくっているが、ハリウッドが生んだ偉大なスターもスエーデンの出身と聞くと意外なきもする。

 ハリウッド女優というと、オードリーヘップバーンもイギリスの女優であるが、ブリュセル生まれで、第2次世界大戦中には、ナチス・ドイツが占領していたオランダにも住んでいて、バレリーナとなっていたヘプバーンがオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏に資金集めに協力していたようである。
 また当時の混乱した中で飢えに苦しむ生活をおくっていたようで、女優という華やかな存在の裏に、こんな歩みがあることを知ると、距離がずっと近くなったことを思い出す。(やはり古い かな・・・)

 ところでモロッコの昔話に「かしこいむすめと砂漠の王さま」というのがある。(大分長い話で、語るとすると1時間ほどかかりそうなお話)

 七人の娘が登場し、末娘のフルジャが姉たちと知恵をめぐらし、四十人の盗賊をこらしめる場面がでてきて、アランビアンナイトの「アリババと四十人の盗賊」と重なります。
 むくつけき盗賊を、フルジャやモルジアナのような賢い娘が盗賊をこらしめる対比を思い浮かべると楽しくなるが、ここで登場する盗賊が二つの話とも四十人というのは、やはりなにか意味がある数字なのか知りたくなります。

 おなじモロッコの昔話で「ひみつのとびら」は、開けてはならないと言われた部屋を開けてしまった若者の話。開けてはならないと言われると開けてみたいのが人間の常。

 しかし、この話のオチは他の話と一味ちがっている。

 貧しい若者が仕事を探していたとき、一人の老人にあう。この老人が若者を連れて行った家には、おおぜいの老人がすんでいた。若者は食事をつくったり、買い物をすることを条件に、この家にすむことになるが、この家にはたくさんの金貨があって気楽な生活をおくるようになる。 

 しかし、この家にすんでいた老人たちは、次々に亡くなっていく。そのたびに若者はたくさんの金貨をつかって立派な葬式をだしてあげる。最後の老人が、亡くなる前に家の鍵を全部若者にわたし、どの部屋を開けてもいいが、この小さな鍵だけはわざわいをもたらすと言い残す。
 どの部屋にも金貨や宝物がぎっしりつまっていたが、それにも飽きて、誘惑にかられて、開けてはならないといわれた部屋をあける。

 すると若者は、ある都にいき、お姫さまと結婚することになる。しかしこの<さいわいの国>では、女が国をおさめる仕事をうけもち、男たちは土地を耕し、種をまいて取り入れるだけ。
 王さまとなった若者は、どんな食べ物でも衣服でも手に入れられるし、馬を乗り回したり、王室の帆船で海をかけたりすることもできるなど、何不自由ない生活。
 
 ところがある日、他の国がせめてきたというので女兵士は戦にでかける。(この国ではいくさをするのも女たちの役割)。

 女たちは、王国の鍵束を若者にわたし、どの部屋に入ってもいいが、この小さな鍵があう扉だけは開けてはいけないと言い残して出発する。

 開けてはいけないと言われた部屋をあけると、そこは以前、若者が老人たちと暮らしていた家が。鏡をのぞくと白髪としわと、むねまでたれるながい白髭の自分の姿がうつっていた。

 この話は、何回、繰り返されてもおかしくない構造になっているが、若者が<さいわいの国>にいくことができた鍵は、<さいわいの国>においたままなので、もういくことはできない。
 
 女がすべてを取り仕切っているというあたりに、男性優位社会への皮肉がこめられているよう。


水は、

2013年09月28日 | 絵本(自然)
水は、  

    水は、/山下大明 写真・文/福音館書店/2012年初版

 

 写真は普段なにげなく見逃している風景や、事象を考えさせてくれるが、ついこの前に発行されたこの写真絵本も水のことを見直すきっかけになる。

 花々や生きものの水滴がかがやくさまは美しく、森にふる雨、海面から立ちのぼる虹、上空の雨雲、闇にながれる彗星にははっとさせられます。
 
 やっぱり、水は命の源なんですね。

水は、雨となって森にふる
水は土や苔や土にしみこんで
森に、たくわえられる
たくわえられた水は、花々に命をあたえ、
森のいきものたちを、はぐくむ。
水は、もりからわきだし流れだ出す。
水は、よどみ、ゆらめき、うずをまき、
しぶきをあげて。また流れ出す。
光をあびると、水は、虹をつくる。
寒さにこごえると、水は、こおる。
水は、蒸気になると、空にたちのぼり、
こまかい水滴となって、雨雲になる。
水とちりでできた彗星が、宇宙をめぐってやってくる。
水は、地球をめぐっている。
 


おんぶは こりごり

2013年09月27日 | 絵本(外国)
おんぶはこりごり  

    おんぶは こりごり/アンソニー・ブラウン 作 藤川 朝見巳 訳/平凡社/2005年初版

 

 ピゴットさん夫婦には、二人の子ども。
 
 パパも子どもも家事には無頓着。起きた時も、家に帰ってからもご飯が出てくるのを待つだけ。

 ママは朝ごはんのあとかたずけして、ベッドをなおし、どの部屋にも掃除機をかけ、それからやっと仕事に。夕ご飯をすませると、ママは、おさらをあらい、洗濯し、アイロンをかけて、朝ごはんの用意も。

 あるひこどもたちが家にかえってみると、「ぶたさんたちの おせわは もうこりごり」という置手紙を残してママはいなくなります。
 
 残されたパパと子どもたちは自分で料理しますが、ひどい味。次の朝も自分たちで朝ごはんをつ作りますが、用意するのが大変で、ひどい味。
 自分たちでお皿を洗い、初めて洗濯もしますが、まもなく家はぶたごやのように。
 ある日、料理の材料もなくなり、はいまわって、くいものをさがしていると、ちょうどそのときママがかえってきました。

 それからは、パパはお皿をあらい、アイロンがけまでし、子どもはベッドを直すようになります。三人は台所を手伝い、料理するのが楽しいと思うようになります。

 スト-リーだけではよくわからないが、家のことは何にもしない三人はぶたになってしまう。よく注意してみるとパパのかげやスーツのバッジ、花瓶、時計、月、蛇口のてすり、壁紙などなど、絵のすみずみにぶたがえがかれている。絵のすみずみまで目をこらさないと絵本のよさが伝わってきません。

 訳者がそのほかの絵のしかけについても解説していますが、これは読まないで自分で見つけ出す楽しみもありそうです。

 裏表紙に「You are pigs」の手紙が。 耳が痛い。


ひとつのねがいと三つのやくそく

2013年09月26日 | 昔話(日本)

   ひとつのねがいと三つのやくそく/子どもに聞かせる日本の民話/大川 悦生・著/実業乃日本社/1998年初版
   三本の金の毛のある悪魔/グリム童話集 上/佐々木田鶴子・訳 出久根 育・絵/岩波少年文庫/2007年初版


 子どもに聞かせる日本の民話とありますが、外国の翻案でしょうか?

 ひとり者の貧乏な若者が、ある晩、ひとりの坊さんをとめてあげますが、「本当のしあわせがつかみたければ、西へ西へ歩いて、陸地がなくなったら、島づたいにいけるところまでいけば、不思議な老人に会うだろう。老人はどんな質問にもこたえてくれるはず」と言い残していなくなります。

 住み慣れた村をでて旅する若者がある村につくと、村では水がなくて、毎年稲が穂をだすころになるとひでりが続き、お米がとれず悩んでいるという話をきいて、不思議な、おじいさんにあったらどうしたらいいか聞いてくることを約束し旅を続けます。

 つぎに、早く死んだ子どもの形見にうえたみかんの木が一度も花が咲かず、実もならないという相談をうけます。
 さらに、別の村では、三人娘の末娘がどうしたわけか、物をしゃべらないので心配しているということを聞きます。

 やがて、若者は不思議なおじいさんにあいますが、「自分の聞きたいことを、わしに聞いたら、他人からたのまれたことを聞いてはならない。他人からたのまれたことを聞いたら、そのあとで、自分の聞きたいことを聞いてはならない」と念をおされます。
 どうしたらしあわせになれるか知りたくて、旅を続けてきた若者は、旅の途中で三つの場所で約束してきたこととの間で、迷い考え込む。
 しかし、若者は「水にめぐまれずにこまっている村の人たちと、みかんの木に、みかんがならないでかなしんでいるお年寄りの夫婦と、物をいわない末娘があって心配している家の主人に約束しました。不思議なおじいさんにあったら、きっと聞いてきてあげましょうと」と話し、自分のしあわせより、三つの約束を優先します。

 もとの道をかえって、物をいわない末娘がいた家の近くまでくると、末娘が「おかえりなさいまし」とむかえてくれます。若者が「仙人のようなおじいさんは、その末娘は、花婿になる若者とめぐりあったとき、ふつうに話をするようになると、こたえてくれた」というと、家の人たちはよろこんで、さっそく結婚式をあげます。

 みかんがならない木のねもとを、鍬で掘ると金と銀のつぶが入ったかめがでてきて、みかんの木に白い花がさきだし、小さな青い実がついて、どんどん大きくなります。

 水不足でこまっていた村では、屏風岩という大きな岩を村の人々が総がかりで動かすと、そのすきまから水が音をたててあふれだします。
 若者夫婦は、かめにのこっていた金と銀を全部つかって、村中の田へ水をひく用水路をつくり、その村にすんで、人々と働いてくらします。

 若者が旅をし、いい伴侶にめぐまれ、金・銀まで手に入れるという昔話らしいところがすべて盛り込まれています。手に入れた金・銀を自分たちだけで使うのではなく、みんなのために用水路をつくるというあたりが、さわやかなところ。 

 どちらかを選べと問われて、自分のことより他の人との約束を考えた若者。
 現実にであったら、どちらを選ぶことになるか考えさせられます。

 グリムの「三本の金の毛のある悪魔」では、同じように若者が三つの質問の答えを悪魔に聞くところがある。ワインがあふれていた泉がどうしてかれたのか、リンゴの木に金のリンゴがつけなくなったのはどうしてか、船頭がいつも船をこいで人をわたしているのにだれもかわりにやってくれる者がいないのはなぜかというのが三つの質問。
 ただこの部分は、お話の後半で、前半部分もかなり長い。    


半日村

2013年09月25日 | 絵本(日本)
半日村  

     半日村/斎藤隆介・作 滝平二郎・絵/岩崎書店/1980年初版


 日が半日しかあたらないところから半日村と呼ばれている村。村のうしろに高い山があって、お日さまが顔をだせない。そしてお米もほかの村の半分しか取れなかった。

 「おらたちの村は、なんという村かのう。あの山さえなかったらのう」「だめさ、山は山さ。うごかせやしねえ。悪い村にうまれたと思って、あきらめるよし、しかたがねえさ。」というとうちゃんとかあちゃんが話をきいていた一平は、つぎの朝、ふくろをかついで、山にのぼっって、山のてっぺんの土をふくろにつめて おりてくる。そして、そいつをまえのみずうみにざっとあけた。
 あけおわると、また山へ。こどもたちは一平がへんなことをしているので、どうしたどうした、なにしてるかと聞いてみた。
 「おらは、あの山を、うめちまおうと、思ってるんだ 」一平がこたえると、こどもたちは、気が違ったんだじゃなかろうかと大笑い。しかし、毎日、毎日、一平がやすまずそうするもんだから、こどもたちも、なんだか、面白そうな気がしてひとり、ふたり、まねするやつがでてきた 三人四人とまねするやつも でてきた。

 そうなると、なかまはずれに なりたくないから村じゅうの、こどもたちが、一列になって、ふくろをかついで、山にのぼりはじめる。

 これをみて おとなたちははじめはわらっていたが、そのうち「ばっかだなあ、ふくろなんかじゃ、はかがいかねえ、そういう時は、もっこを つかうもんだ」というおとなもでてきた。

 山は、ちっとも、ひくくならなかったけれど、ひとり、ふたりが 手伝い出すと、三人四人。五人六人。やらないとなんだか、つきあいが、わるいような気がして、しごとのあいまに村中の おとなたちが もっこをかついで 山に登り始める

 こうして 何日も何日も、おとなとこどもが山をのぼったり、おりたりしているうちに、なんだか日のあたるのが はやくなったような気がしてきた。そうなると、みんな元気になって 歌を歌いながら、せっせせっせと、山をのぼったり、おりたりした。

 こうして 何年も何年もたつ。おとなたちは、死んじまい、一平やこどもたちは、おとなになっちまった。
 一平のこどもたちや、その仲間のこどもたちは、ひまだから 遊ぶ代わりに、もっこをかついで山にのぼった

 ある朝、とりがなくと、それといっしょに村のたんぼに、ぱっと朝日がさす。
 花はわらいだし、たんぼのイネは、葉をそよがせて元気に水をすいあげはじめる。
 山は はんぶんになって 山の土でうめられたみずうみも半分位なってそこにはたんぼができて、イネが風にそよいでいた。
 それから、半日村は 一日村とよばれるようになった。

 一平が山の土をふくろにつめて、なんどもなんども往復したのはとうちゃんとかあちゃんを楽にしてあげたというやむにやまれぬ行為だったんですね。その熱意が子どもをうごかし、大人もうごかすことになる。継続は力になるが、多分はじめから結果が見えていなかったはず。

 世代をこえ、たどりつくところが感動的である。

 普通に考えれば、お日さまをさえぎるほど高い山だから、往復するのもたいへんなはずであるが、そうした違和感を感じさせないのが絵本の世界。

 森が燃えていて、森の生きものたちは われ先にと逃げていくが、クリキンディという名のハチドリだけは口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは いったりきたり、火の上に落としていく。動物たちがそれを見て「そんなことをして いったい何になるんだ」といって笑うが、クリキンディはこう答える。
「私は、私にできることをしているだけ」という“ハチドリのひとしずく”を思いだす。

 また、一平は、宮沢賢治の「虔十公園林」の虔十と重なる。杉を植えても育たないというやせ地に杉苗を植える。手入れをしながら、杉の世話をする虔十。虔十はやがて亡くなるが、杉林は美しく育ち、「公園林」となずけられてながく人々から愛されるようになる。

 虔十もまた、はじめから結果はみえていなかったのでは。                 


花さき山

2013年09月21日 | 絵本(日本)
花さき山  

     花さき山/斎藤隆介・作 滝平二郎・絵/岩崎書店/1984年第63刷


 斎藤隆介、滝平二郎の二人の作品は、作者の意図がストレートに伝わってきて、何度読んでもやさしくせまるものがあります。
 
 全文を写してみると、文章や絵のすみずみにまでこまかい配慮がされていることもよくわかりました。

おどろくんでない。
おらは この山に ひとりで すんでいる
ばばだ。山ンばと いうものも おる。
山ンばは、わるさを すると いうものも
おるが、それは うそだ。
おらは なんにもしない。
おくびょうな やつが、山ンなかで
しらがの おらを みて かってに
あわてる。
そしては べんとうを わすれたり、
あわてて 谷さ おちたり、
それが みんな おらの せいになる。
あや。おまえは たった十の おなゴわらし
だども、しっかりもんだから、
おらなんど おっかなくはねえべ。
ああ、おらは、なんでも しってる。
おまえの なまえも、
おまえが なして こんな おくまで
のぼって きたかも。
もうじき 祭りで、祭りの ごっつぉうの
煮しめの 山菜を とりに きたんだべ。
ふき、わらび、みず、ぜんまい。
あいつを あぶらげと いっしょに 煮ると
うめえからなァ。
ところが おまえ、おくへ おくへと
きすぎて、みちに まよって
この山さ はいってしまった。
したらば、ここに こんなにいちめんの花。
いままで みたこともねぇ 花が さいているので、
ドデンしてるんだべ。
な、あたったべ。
この花が、なして こんなに きれいだか、
なして こうしてさくのだか、
そのわけを、あや、おめえは しらねえべ。
それは こうした わけだしゃ・・・。
この花は、ふもとの 村の
にんげんが、
やさしいことを ひとつすると
ひとつさく。
あや、おまえのあしもとに
さいている 赤い花、
それは おまえが
きのう さかせた 花だ。
きのう、いもうとの そよが、
「おらサも、みんなのように
祭りの 赤い ベベ かってけれ」
って、あしを ドデバタして
ないて おっかあを こまらせたとき、
おまえはいったべ、
「おっかあ おらは いらねえから、
そよさ、かってやれ」
そう いったとき、その花が さいた。
おまえは いえがびんぼうで、
ふたりに 祭り着を
かって もらえねぇことを
しってたから、
じぶんは しんぼうした。
おっかあは、どんなに たすかったか!
そよはどんなによろこんだか!
おまえは せつなかったべ。
だども、この 赤い花が さいた。
この 赤い花は、どんな 祭り着の 花もようよりも
きれいだべ。
ここの 花は みんな こうして さく。
ソレ そこに、つゆを のせて さきかけて きた
ちいさい 青い花が あるべ。
それは ちっぽけな、ふたごの あかンぼうの
うえの子のほうが、
いま さかせているものだ。
きょうだい といっても、おんなしときの
わずかな あとさきで うまれたものが、
じぶんは あんちゃんだと おもって
じっと しんぼう している。
おとうとは、おっかあの かたっぽうの
おっぱいを ウクンウクンと のみながら、
もう かたほうの おっぱいも
かたかっぽうの手で いじくっていて はなさない。
うえの子は それを じっと みて
あんちゃんだから しんぼう している。
目に いっぱい なみだを ためて・・・。
その なみだが そのつゆだ。
この 花さき山 いちめんの 花は、
みんな こうして さいたんだ。
つらいのを しんぼうして、
じぶんことより ひとのことを おもって
なみだを いっぱい ためて しんぼうすると、
その やさしさと、けなげさが、
こうして 花になって、さきだすのだ。
花ばかりではねえ。
この 山だって、
この むこうの みねつづきの 山だって、
ひとりずつの おとこが、
いのちを すてて やさしいことを
したときに うまれたんだ。
この 山は 八郎っていう 山おとこが、
八郎潟に しずんで 高波を ふせいで
村を まもったときに うまれた。
あっちの 山は、三コっていう 大おとこが、
山かじに なったオイダラ山サ かぶさって、
村や 林が もえるのを ふせいで
やけしんだときに できたのだ。
やさしいことを すれば 花がさく。
いのちを かけて すれば 山が うまれる。
うそでは ない、ほんとうの ことだ…。
あやは、山から かえって、
おとうや おっかあや、みんなに
山ンばから きいた この はなしを した。
しかし、だァれも わらって ほんとうには
しなかった。
「山サいって、ゆめでも みてきたんだべ」
「きつねに ばかされたんでねえか。
そんな 山や 花はみたこともねえ」
みんな そういった。
そこで あやは、また ひとりで
山へ いってみた。
しかし、こんどは 山ンばには
あわなかったし、
あの 花も みなかったし、
花さき山も みつからなかった。
けれども あやは、そのあと ときどき、
「あっ!いま花さき山で、
おらの 花が さいてるな」
って おもうことが あった。


 山ンばの方言をまじえた語り口が、なんともやさしくせまってきます。

 絵本ナビに、子育てセミナーの講師の保育士時代のエピソードが紹介されていました。
 すごく物静かで目立たないある園児・Kちゃん。でもKちゃんはお友達が脱ぎ散らかしたスリッパをさり気なくそろえてあげるような優しい子だということを先生はある日気付きます。
 そのまま褒めてあげてもいいけれど、この『花さき山』を読み聞かせした後に Kちゃんの優しさをみんなの前で発表しました。それからはKちゃんは、しきりに先生の元に読み聞かせとなれば『花さき山』を持ってきます。
 家でもボロボロになるほど読んでいるそうで、卒園の日、Kちゃんのお母さんにお礼を言われたそうです。「ステキな絵本との出会いをさせていただいてありがとうございます。娘は自分の花が花さき山に咲いてるよという先生の言葉がとても嬉しかったと言っています」。
 
 この子にとって、この保育士の一言はずっと生きていくでしょう。こんな積み重ねがあれば、いじめなどはなくなっていくのではないでしょうか。


目が十ある鬼の昔話・・ウガンダ アチョリ人の民話

2013年09月19日 | 昔話(アフリカ)

   のうさぎとさいちょう/ウガンダ アチョリ人の民話/オコト・ビテック 北村美杜都穂・訳/新評論/1998年初版
 

穴が七つあるものなーにというなぞなぞ。
 答えは頭で鼻や耳も数えて確かに七つ穴がある。

 目が十あると顔中、目だらけというイメージが浮かぶが、こんなキャラクターが出てくる昔話がウガンダ アチョリ人の昔話。

 目が十ある鬼がでてくるのが
 (ラギティンと鬼たち)
 (オチュガの実を摘みに行った十人の女の子)
 (のうさぎとラグート鳥と鬼)

 さらに、目が二十ある鬼
 (のうさぎとラグート鳥と鬼)

 読んでいる限り身長は人間なみのようなので、顔中が目だらけか。

 ところでこの本には33の話がのっているが、このうち12話は「のうさぎ」が主人公となっている。数多くの中から選択されたものがのっていると思うが、その結果3分の一に「のうさぎ」がからんでいる。

 アチョリ人にとってのトリックスターなのでしょうか。


みみずのオッサン

2013年09月18日 | 絵本(日本)
みみずのオッサン  

     みみずのオッサン/長 新太・作/童心社/2003年初版

 

 「オッサン」というみみずが散歩にでかけるとペンキ工場が爆発しヌルヌル、ベトベトしたものがおっこちてきて、おとうさん、おかあさんがつぶされてしまいます。おまけにえのぐとクレヨンの工場も爆発したからたまりません。

 町はベタベタになって動けなくなります。そこでみみずのオッサンはペンキやえのぐやクレヨンをどんどん食べます。モグモグ食べて排泄するときれいな泥になってでてきます。やがて地面はみどりの大地になり、ずーっとむかしになって恐竜のいる風景があらわれます。
 オッサンは恐竜になりたいと思う。

 爆発するのがペンキ、えのぐ、クレヨン工場というのが可愛らしい。
 
 みみずが土の働きを助けてくれることは知られていますが、環境破壊していると原始時代に戻りますよというメッセージになっています。
 
 それにしてもみみずの名前が「オッサン」というのがいい。


ぼくのしっぽは?

2013年09月16日 | 絵本(日本)
ぼくのしっぽは?  

      ぼくのしっぽは?/しもだともみ/教育画劇/2007年初版

 

 子どもが眠る前や膝の上にのせたり、テーブルに一緒に座って会話をしながら子どもに絵本を読んであげたら、ずっと長い間、心のどこかに残り、有形無形の力となって成長を育んでくれるものになると思うが、今、そんな時間をゆっくりとることのできる家庭がどのくらいあるでしょうか。

 集団での絵本の読み聞かせには、絵本のページごとに話し合うことは困難ですが、この絵本は子どもと会話しながら読んでみたいと思わせます。

 どうして尻尾がないんだろうと疑問をもった「ぼく」がいぬの尻尾や、うし、サカナ、りす、さる、クジャクから尻尾をかりるが、やっぱり尻尾がないと不便だからといわれて、かえすことになり、動物の尻尾にはそれぞれの役割があることにきがつきます。

 ぼくには、どうして尻尾がないのと聞かれたらどう答えますか?

 ネズミのしっぽは、体温の調節、だちょうのしっぽにはとくに役割がないなど、最後に動物の尻尾の役割がまとめられています。  


みえないって どんなこと

2013年09月13日 | 絵本(社会)
みえないって、どんなこと?  

    みえないって どんなこと/星川ひろ子 写真・文/岩崎書店/2002年初版

 

 目が不自由なことについて考える写真絵本です。

 実際に目が不自由な“めぐみ”さんと、アイマスクをして歩いてみたり、箱に入っているものを、においや味であててみたりする。

 めぐみさんは、電子カードには違う形の切込みがあってさわればわかるし、電話や携帯電話には5の数字にちいさなでっぱりがあって、それでほかの数字の場所も分かりやすくなっていること、牛乳パックの上にひこみがあり、また、シャンプーにはいれもののよこにちいさなでっぱりがあってわかるようになっていることをおしえてくれる。

 そして、なにかおてつだいすること、ありますか?って声をかけてもらえると、ほんとうに うれしくなることを話してくれる。

 この本を読んで、思わず、牛乳パックを改めて調べてみたり、固定電話機や携帯電話の5のちいさな突起を確認してみました。

 テレビのリモコンの電源ボタンや照明スイッチなど調べてみると突起が確認できました。しかし、家にあるパソコンの数字をみたら突起はありませんでした。
 
 子どもたちと一緒にさまざまなものを調べてみるきっかけになりそうです。              


蛙のお嫁さん・・ベトナムの昔話

2013年09月11日 | 昔話(東南アジア)

     蛙のお嫁さん/アジアの民話④ 語りおじさんのベトナム民話/坂入正生 編・語り 小島祥子・絵/星の環会/2001年初版


 子どもに恵まれない夫婦が神様にお願いして蛙の女の子が生まれます。蛙の女の子はすくすく育ち、やがてある青年と結婚します。青年がいっている学校の仲間がいたずらしてみようとして、蛙の嫁さんに料理をつくってくれるようたのんだり、着物を縫ってくれよう頼みますが、いずれも見事にこなします。

 仲間は、青年を困らせようと夫婦同伴で新年のあいさつのため先生の所に集まろうともちかけます。すると蛙の嫁さんは一人で森の中にいき、かぶっていた蛙の皮をペロリとぬぎます。

 青年はその皮をやぶって捨ててしまいます。皮が無くなった蛙は「もう蛙には戻れない。あなたが優しい人なので神様が人間に戻してくれた」と話します。

 青年と人間になった蛙をみて、仲間の学生は「似合いの夫婦だ」と二人を祝福します。

 昔話らしいベトナムのお話。

 今、読むことのできる日本の昔話は研究者の方が地域の語り部の方から採話したものや、地域の歴史を大事にする人々、さらには高校生が採録したものなども見られます。

 外国の昔話では、重訳も見られますが、現地語で採録されたものなど先人が苦労して集めたものを手軽にふれることはありがたいところ。

 ところで、この「蛙のお嫁さん」は、日本にいるベトナム難民の協力で「語りおこされた」ものといいます。

 小島さんの絵はベトナム現地での写生旅行をもとにかかれていて、お話(5話が収録)の雰囲気がとてもよく伝わってくるものとなっています。


鳥の巣みつけた

2013年09月09日 | 絵本(自然)


   鳥の巣みつけた/鈴木 まもる・文と絵/あすなろ書房/2002年初版


 つばめが何千キロも離れた東南アジアからわたってくるというのも絵本で知ることができましたが、子どものために大人が絵本を読んであげる以外に、自分のために見ることがないのはもったいないところ。楽しみながら絵本からえられるものも多い。

 ハシボソミズナギドリは日本から9000㎞もはなれたオーストリアの近くの島で巣をつくり、南アメリカのジャングルには2mものながさにあんだふくろ型の巣をつくるオオツリスドリがハチと共存しているといいます。

 楽しみながらしぜんに新しい発見ができるところが絵本の良いところ。
 
 大人が楽しいと子どもに読んであげるときの伝わり方もちがってくるのでは。

 この絵本では、鳥の巣のさまざまな姿を見つけることができます。

 最後のほうで、鳥がつくる巣がだんだん大きくなり、そこに4つの卵があるところで絵本はおわるが、裏表紙にはひながかえって口をあけて餌をもとめている姿が描かれています。

 絵本を読んであげるとき、裏表紙なども大事にしなさいというのが納得できました。


やきもち女の話・・アフリカ・ハウサの人びとの話

2013年09月08日 | 昔話(アフリカ)

     やきもち女の話/語りつぐ人びと*アフリカの民話/松下周二・訳/2004年初版


 国が違えば昔話もだいぶちがってくるが、この話は他の国にはみられないものがある。この話の背景には一夫多妻制がある。

 **ある亭主にしょっちゅうお客がたずねてきていたが、女房に向かってもうひとり女房をもらえばむかえお前の仕事がらくになるだろうともちかけるがが、女房はうんといわない。
 亭主は何回も同じ話をするが、女房はがんとして取り合わない。

 亭主があるお婆さんに相談して、ちょっと旅にでるというと、女房も一緒に行くとこたえ、二人で旅に出る。途中の荒れ野で、おおきな岩を見つけ、この岩を持って帰りたい。新しい嫁をとったら、お前とその嫁の二人で岩を持ち上げてこれを運んでくれといい、家に忘れ物をしたと理由をつけて一緒に家にもどってきてしまう。

 女房は岩のあるとこにいって、通りがかりの男4人に頼んで岩を頭の上にのせてもらう。
 ところが岩が重くて足がだんだん地面に沈んでいきます。そこを通った人が岩を下してあげようかと聞くが、うちの人が嫁をとったらわたしの手伝いをしてくれかしらと疑問をもちながら断ります。
 いく人かの人がそこを通りかかって岩をおろしてあげようかと尋ねるがそのままにしておいてくれとことわるうち、むねまで地中に沈んでしまい、とうとう岩だけが地面に残ります。

 それから亭主は何人も新しい嫁さんをもらいつづける。**

 一夫多妻制といっても奥さん了解が必要で、必ずしも男の思う通りいかないというあたりが面白いが、子どもには話せそうにもないのが残念である。

 ハウサの人びとは、主にナイジェリア北部とニジェールに住んでいるが、それだけでなく西アフリカのあらゆる町にも移り住んでいるという。


モチモチの木

2013年09月07日 | 絵本(日本)
モチモチの木  

     モチモチの木/斎藤隆介・作 滝平二郎・絵/岩崎書店/1971年初版

 

 両親をなくし、じさまと峠の猟師小屋に一緒に暮らす5歳の豆太は、夜には、おもてにあるセッチンにひとりでいけない臆病。

 真夜中にしょんべんにいきたくなった豆太が「ジサマ」と小さな声をかけると、どんな真夜中でも目をさましてくれるじさま。

 ある真夜中、まくらもとでうなっていたじさまにびっくりして、豆太は暗い夜道をおいしゃのところへはしります。
 おいしゃをつれて雪のふりはじめた峠道をのぼってきたとき、豆太がモチモチの木とよんでいる木に ひがついていました。

 次の日、はらイタがなおって元気になったじさまはいう。
 「おまえは山のかみさまの まつりを みたんだ。
 モチモチの木には ひがついたんだ。
 おまえは ひとりで よみちを いしゃさまよびに いけるほど
 ゆうきのある こどもだったんだからな。
 じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな
 にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、
 きっと やるもんだ」

 切り絵が、木に火がつく幻想的な情景をうかびあがせ感動的です。

 「やさしさ」という言葉には、たんなるやさしさをこえて、強さがしめされているようです。
 ここにはなぜか、なつかしさをおぼえる風景がひろがっています。