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55.Djibouti

2009-01-10 21:09:40 | 『万国巡覧記』

ジブチ共和国
(Republic of Djibouti)


1.面 積  23,200平方キロメートル
2.人 口  80万人(2006年、世銀)
3.首 都  ジブチ
4.言 語  アラビア語、仏語
5.宗 教  イスラム教(94%)
6.主要産業 (運輸)ジブチ鉄道、ジブチ港湾サービス
7.GNI 8億5,660万米ドル(2006年:世銀)
8.一人当たりGNI 1,060米ドル(2006年:世銀)
9.通貨・為替レート ジブチ・フラン(F.D)、1米ドル=177.7ジブチ・フラン(固定レート)
10.3文字コード DJI
(外務省HP)

ジブチと聞いてぴんと来る人は、かなりの地理マニアでしょう。
アフリカの北東、日本でいう鬼門の方角に当たる小さな国です。
もとはフランスの植民地。19世紀末に、スエズ運河の建設に伴って、その地の部族から借り受けたと言います。
ところが、この土地には二つの部族が住んでいました。
すなわち、ソマリア系のイッサ族とエチオピア系のアファル族です。で、まぁ仲が悪いわけですよ。この二つの部族が。
ずーっと戦い合ってきたわけです。20世紀に入って、第二次大戦後も引き続き争いが続き、植民地を養う余裕がなかったフランスとしては、とっとと独立して欲しかったのですが、この争いのためにそうはいかなかったのです。
独立したのは、1977年。イッサ族のグレド(1916~2006)が大統領に就任し、民族融和を訴えましたがうまく行かずに、とうとう1991年に内戦が勃発。1999年に現大統領のゲレ(1947~)が大統領に就任。2001年にようやく内戦の終結が宣言されました。
内戦の終結が宣言されたからといって、それで部族間の争いが収まったかといいますと、そうではないというのが本当のところです。
今のところ、イッサ族の政党の独裁状態にあり、アファル族が政治に介入する余地がないといえます。
スエズ運河に近いジブチ港と鉄道による収入が主だそうです。

ジブチが建設される要因となった、スエズ運河について書きましょう。
スエズ運河が造られるまで、ヨーロッパからアジア方面に抜ける海路は、スペインやポルトガルから南アフリカの喜望峰を周回するのが一般的でした。
植民地政策のおいて他の欧州諸国から出遅れていたフランスは、一計を案じます。
すなわち、最短距離でアジアを結ぶ航路を開発できれば、この遅れを取り戻すことができる。
アフリカの先進国であり、ナポレオンの遠征以来緊密な関係にあったエジプトとともに、スエズ運河の建設に取り組みます。
指揮を執ったのは、フランスの外交官であるフェルナン・ド・レセップス()。工期は1859年から1869年。実に10年の歳月をかけて、完成させました。
動員された人員は150万ともいわれ、コレラの流行などにより多大な犠牲を払いました。しかも、その多くがエジプト人だったといいます。
しかもエジプトの被害はそれだけにとどまらず、莫大な借金さえも背負ってしまうことになります。
結局、エジプトはイギリスにそのスエズ運河株を売却し、スエズ運河は英仏という奇妙な二国の所有となります。
フランスは後手後手に回って、その主権をイギリスに取られてしまいますが、それに脅威を覚えた欧州列強が「スエズ運河の自由航行に関する条約」(1888)を認めさせ、これ以上のイギリスの権力拡大を食い止めます。
第二次大戦後、アスワン・ハイダムの建設のため、経済に窮したエジプトはナセル大統領の時、スエズ運河の国有化を宣言。莫大な利益を稼ぎ出したのでした。
イギリスやフランスなどの西側諸国は、エジプトにさまざまな圧力を加えますが、その独自性を保ち今日に至ります。
1960~70年代には、イスラエルとのアラブ戦争のため運河が閉鎖されるという事態となりましたが、今では通行が可能なようです。

社会の授業で覚えねばならぬ運河は、わずかに二つ。
スエズ運河とパナマ運河です。忘れないように、覚えておきましょう。