“新年だ。
読んだことのない人の作品を読んでみようと
綿矢りさ 「インストール」 2001
を読んだ。”
のように 今年は
河野多恵子 「蟹」 1963
を読んだ。
主人公は 転地療養で外房州の海辺の地に来ている。
夫の弟家族が見舞いかたがた遊びにやってきた。
幼い甥に「準急に乗ってきたんでしょう」と声をかけると
「房総第一!」と 今年小学一年生になる甥は答えた。…
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外房州の海辺と
“循環バスはその名の通り ちゃんとセンター近くにゆきついた。
遠回りと言っても 15分ほどのバス旅。
海辺の公園を左手に のんびりゆったりとバスは進んだ。”の海辺は 違う。
この海とあの海は違うんだな、ほんの時々に海に行くと そんな風に思ってしまう。
外房州の海辺と
“初めて泳いだ海は おだやかな けれどすぐに深くなる海だった。
私の海は あの海だ。”の海辺も違っていて、そして
“ざざ ざざざ。波が来て、波が去り。それだけでころころと面白かった。
太平洋を初めて見た日だった。”もまた、違うのです。
就職して、職場の人たちと海に泳ぎに出かけた事があった。
「真夜中に出発するよ。」
就職一年目の私たち同期は 3、4台の車に分乗して 白砂で有名だという海に向かった。
着いて泳いで帰り道、車の中は
心地よい疲れとスムーズな運転技術にまかせて 寝入る子ばかり。
運転していた男の子がそのうちにたまらず、
「ね。何かしゃべって。(そうしないと)こっちまで眠くなってしまう。」
あ悪い悪い。そうだね。ほんとにたのしかったねきょう。それにしても○○君、運転上手だね。上手だから眠くなってしまうんだよ。
その同期会は今も続いているとのことで
昨年、一番新し目の写真を見せてもらう機会があった。
あの時海に行ったメンバーは 同期の中の何人くらいだったのか
見せてもらった写真の中の面影に 当時の様子を思い出す人、分からない人
名前当てクイズのように 一人一人見ていった。