Photo by Ume氏
朝から雪が降っていた。予報通りだ。少し前から小降りになり、どうもきょうは一日降ったり止んだりを繰り返すようだ。10時現在の室温5度、窓を開けっぱなしにしているからで、炬燵や石油と電気ストーブはいつものようにそれぞれの役を果たしてくれている。
雪の降るのを眺めながら快い冷気を顔に感じていたら、窓を閉める気になれず、もう1時間以上もそうしている。実は上から持ってきた高所用の羽毛服を着ているから、それでも寒くはない。薄日が射してきて、どこかから椋鳥らしき野鳥の声もしてきた。もう少しこうしていればそのうちに風呂が沸く。そうしたらまだ何をするか決めてないが、動き出すつもりだ。
目下の冬ごもりを、昨日は「人生の日向ぼこ」、きょうは悪天ながら「人生の小春日和」と呼んで、安気な日々を、この無為なる時季を、受け入れて過ごしている。いつにかもう、実際の旅などどうでもよくなって、本を列車にして漫遊を続けていければそれだけでも充分で、布団に入ってから、翌日に陋屋の日当たりの部屋の中で本に連れられどこへ行くかを楽しみにして寝る、それが日課になった。
温泉は好きだし、人も嫌いではない。それでも、これまでの人生が今の牧守のように比較的一人でいることが多かったから、こういう状況には慣れている。ある職場では、1週間誰とも言葉を交わすことなく小部屋で過ごすこともあったし、1年以上失職していた時は自ら閉門蟄居を課してもいた。
そういえば、その失職が1年半に及ばんとしたとき、「3月になっても仕事が見付からなかったら『腹を切る』と言ってたけど、いつそうするの」と亡妻にからかわれ、すっかり亭主の面目をなくしたこともあった。その女房が先に逝き、腹を切る約束をした者がケロッとして生きている。「人生の日向ぼこ」とか「小春日和」とか、その上寂しさもない、と言って。
その点、あの名僧の誉高い良寛は粗末な庵での晩年の日々、寂しさが退屈を紛らせてくれるのだと言ってみたり、かと思えば篠突く雨の深夜に寂しさを嘆き、貞心尼の訪れをひたすら待ってもいたようだ。だからか、70歳を過ぎた「悟了の人」でも、後世の小説家の格好の餌食にされてしまうのだ。
いけない、それにしても、とんでもない人を独り言の巻き添えにしてしまった。また白い物が降って来た。本日はこの辺で。