祖父母が孫2名を連れてきて、いい景色につい1枚撮らせてもらった
きょうから8月。午前7時、気温17度、薄曇り。権兵衛山に絡むこの霧はもうすぐ消えて、そうなれば鋭い朝の日の光が雲を一掃し、青い空に変えるだろう。
昨年は、この独り言の題名を8月をもって「秋」に変えた。批判もあったが、今年もその誘惑を感じながら、どうしたものかと迷っている。記憶では7月30日が一度だけ「限りなく29度に近付いた」だけで、それが唯一の例外だったような気がする。昨日は12時から14時の一番気温が上がる時間帯でも、25度以上にはならなかった。
炎暑に苦労をしている人たちに、こういうことを呟くことの罪深さを感じないわけではない。あの過酷な夏の日に散々痛めつけられ、長くて貧しい夏を呪った時代が自分にもあった。
そしていつしか、子供のころに感じていた夏に対する風景から、明るさも輝きも失われ、四季の中では最も関心の薄れた季節となっている。あの苛烈な夏が入道雲の湧く山も、きらめく海もあっさりと消してしまったのだ。
今年の夏は各地で40度などという、想像もできないような怖ろしい気温さえ報じられている。一体地球はどうなっていくのだろう。
昨日も、作業道の整備に少しばかり鶴嘴(つるはし)を振るい、石を掘り、道を整備し、汗を流した。小入笠にも登った。
こんなことをしても、誰も気付きはしないし、喜びもしない。この春、北門から始めた牧場内の林道の枝打ちがいい例で、やった本人が呆れるほどにその成果は消えてしまい、徒長したコナシの枝が跋扈している。
それでもこんな恵まれた環境の中にいれば、牛の尻を追い、鹿やネズミに憤慨してばかりもいられずに動き、働く。
これも、言ってみれば自己満足のためである。短い一日の終わりに、わずかでも清々とした気持ちを味わいたい、ということだ。疲労も、酒のつまみになってくれる。
乳牛たちの行動範囲が広まった。今朝は明るくなると早々と囲いから姿を消して、どこに行ったか分からない。第1牧区の和牛たちは、軽トラのクラクションの音を聞くと待っていたようにしてやって来る。
それぞれの群れに女親分がいて、一番先に餌にありつこうとするし、他の牛たちを威嚇する。その横柄、利己的な振る舞いを見て他の牛たちに同情し、追いやることもある。
牛と人間の短い縁が、こんな山の上の牧で続く。
お盆休み、まだ余裕があります。題名はもうしばらく「夏」に。
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本日はこの辺で。