今日のどーじょー主

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コラム 5月号

2006年05月09日 | 啓学院通信のコラム

朝日新聞に「最近の若者は、「苦労体験がない」ということがコンプレックスになっている」という記事がありました。
http://www.asahi.com/job/special/TKY200512210278.html
去年の12月19日だから、もうだいぶ前の話。
なぜか、とても気になってしまって。

何がそんなに気になってるんだか、うまく説明できないけど---
大人たちは、「子どもによりよい教育環境を与えよう」とする。
苦労しないように、挫折しないように、いろいろ配慮してあげちゃう。
それはとてもいいことなんだけど、一方で、もっと大胆に「苦しませちゃう」面もあっていいのかもしれない。
---というようなことです。

そう、たとえば、小さな子どもに「初めてのおつかい」をさせるというテレビ番組がありますよね。
迷ったり、決断したり、失敗したり、フォローしたり。
そんな、紆余曲折をさせてあげる。
そんな場を、親や教師がもっと提供していくことはできないかなぁ、ということなんです。

苦労すりゃいいってモンじゃないけど、苦労はその人の「生きる自信」を作る面もあります。

ボクは1961年生まれですから、戦争や飢餓みたいな苦労をまったく知らない世代です。
文字通りの「命がけ」みたいな苦労は、まったくせずに済んだ、とてもありがたい世代。
でも、自分なりに「苦労したなぁ」ということを思い出すことがあります。
とくに、「困ったなぁ」「ツライなぁ」というときに思い出すことが多い。

最初に出した塾がすぐにつぶれて、ぼろアパートで何年も教えてたこと。
高校教師を辞めた弟と二人で1年間ガンバってみたものの、まったく評価されず、「もうやめようか」と話したこと。
親元で生活しながらですから、危機的でも何でもない、甘っちょろい「困難」です。
でも、自分にとって「困難だった」と思える体験が、自信や気力を生んでる面があるようにも思うんです。

ボクら大人は、子どもから「苦労するチャンス」を、必要以上に奪ってしまってるんじゃないか。
子どもに「もっと、生きる意欲を持ってもらいたい」と思いながら、親がどんどん先回りして問題を解決しちゃったり。
何というか、アクセルとブレーキを一緒に踏んでるみたいな。
現代なら現代なりに、ちょっとしたことでいい。
「若いときの苦労は、買ってでもしろ」って言うなら、そういう機会を与えていく気持ちが必要なんじゃないか。

たとえば、記事にあるように、酪農支援のボラバイトに行ってくるでもいいし。
1,000円渡して「北海道へ行って来い」でもいい。
もっと身近なところでいえば、学校で、効率的な勉強法を教えちゃうんじゃなくて、「苦労して、自分の勉強法を作れ。できなきゃ、落第」みたいに放り投げちゃうとか。

他にも考えれば、現代社会でも、小さいものから大きなものまで、いろんな「苦労体験」を提供できるんじゃないかな。
そして、子どもに、そういう環境を提供できる「余裕」みたいなものがほしいなぁ。