今日のどーじょー主

2017年4月16日に引っ越しました。
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「責任追及」と「問題解決」

2006年11月15日 | その他
最近、大きな社会問題になっている「いじめ」ですが・・・
武田鉄矢という人が、「いじめる奴を説教しても変わらない。問題はいじめられる奴で、大事なのはいじめられる奴を鍛えること」と言ったとか言わないとか。
そのことに、人それぞれ賛否両論があるようで。
武田鉄矢の意図とはズレた議論になってるようにも見えますが。

まぁ、この話だけでなく、いじめ問題をみんなが考えるのはいいことだと思うんですけど・・・
どうも、問題点というか、テーマを混同してる人が多いように思ってしまいます。

「いじめられる側にも問題がある。」
「それは、いじめを最初から肯定している意見じゃないのか。そんな前提で考えるのはおかしいぞ。」
・・・みたいな。



いじめだけでなく、いろいろな問題を考えるとき、「2つの違うテーマ」があります。

1.だれに責任があるのか(カンタンに言えば、だれが悪いのか)。

2.どうしたら、問題を未然に防げるか、あるいは解決できるか。

この2つを混同して、感情論になってしまうケースが多い。
混同しなければ、もっと生産的な議論ができるんじゃないかなぁ、なんて思います。



ちょっと別の問題を例に、そうたとえば、交通事故のことを書きますね。

ボクの知り合いで、車同士の交通事故を起こした人がいました。
事故後、彼女は興奮して、ボクにこう聞いてきたんです。
「対抗の直進車がパッシングしてきたから、当然、道を譲られたと思いますよね。で、右折しようと動いたら、そのまま直進してきて、ぶつかっちゃった。安田さんは、どう思いますか? 相手が悪いに決まってますよね?」

「質問」というより、「主張」ですね(~_~;)
この話を聞いたあとで、ボクは家族にこう注意しました。
「彼女は優秀な人だし、運転もおそらく自信があるんだろう。でも、いずれまた、事故を起こすよ。「車に乗せてあげる」と言われても、絶対に乗ってはいけない。」と。
案の定、1年程度の後にまた事故を起こしました。
そして次は、うちの長女の自転車と接触事故を起こした。
さいわい、長女はまったくケガがなく、自転車が犠牲になってくれましたが。


ちなみに、彼女が最初に起こした事故は、典型的な「右直事故」のひとつ。
判例もあって、裁判になれば、間違いなく彼女が負けるハズです。
が、ボクが問題にしているのは、「彼女が正しいかどうか」ではありません。

交通事故を起こしたとき、あるいはドキッとする場面に出くわしたとき・・・
すぐに「責任の所在」を主張する人と、「未然に防ぐために、どうすればよかったか」を反省する人と、大きく2通りに分かれます。
そして前者は、「責任追及」と「問題解決」を混同しているタイプ。
事故を繰り返すリスクが、とても大きい。
このタイプが、交通事故の元凶ともいえます。

自動車学校でさんざん講習を受けたハズでしょうに、たぶん忘れちゃってるんですね。
道路交通の精神は、「ルールを守る」だけでなく、「事故を未然に防ぐための知恵」が大きなテーマになっています。
「だれが悪いのか」という問題も重要ですが、それ以上に「どうしたら事故にならないか」の方が重要ともいえます。




ちょっと脱線しちゃいましたが(^^; いじめの問題に戻ります。

「だれが悪いのか?」

そんなのは、カンタンです。
「いじめ行為」が認定された場合、「いじめた側が悪い」に決まってる。
たとえ意図的でなかろうと、それが社会的に「いじめ行為」と認識されるものなら、「いじめた側が悪い」。

いじめた側が有罪で、いじめられた側は無罪。
いくら戸締りが悪いからといって、泥棒が有罪で、被害者は無罪。
そんなのは当たり前、どんなに言葉巧みに言い訳しても、「泥棒が有罪」で「被害者は無罪」です。


一方、「いじめをなくすには、あるいはいじめが発生した場合にうまく解決するには、どうしたらいいか」。

このテーマは、関係する人たちすべてが、「どう行動し、どう改めたらいいか」と考える余地があります。
いじめる側もいじめられる側も、親も、その舞台となっている学校側や社会も、「どうしたらいいのか」と当事者意識を持って考える。
それは、問題解決する際に、当然必要とされる意識です。

だから、「いじめられる側が、いじめを未然に防ぐには、あるいは、いじめられたときにどうしたらいいか」と考えることは、まったく悪いことではありません。
いやむしろ、こういうテーマも、「いじめる側にどういう教訓や懲罰を与えるべきか」とあわせて考えるべきです。


嫁姑問題でも、職場でのいじめ問題でも、人間関係の中に発生する問題というのは、相互作用の中に生まれます。
だから、いじめられる側にも、解決をテーマに考える問題点が多数あるに決まっている。
そんなことは、言うまでもないこと。
でも、そのことを、「いじめ問題の責任は、いじめられる側にもある」という意見にすり替えちゃう人がいます。
いわゆる「詭弁を弄する」というヤツ。
まず、詭弁に惑わされない議論が、必要なんじゃないかなぁ。


コラム 11月号

2006年11月01日 | 啓学院通信のコラム
先月のコラムで、「イジメ問題の解決には、断固としたリーダーシップが必要」と書きましたが、学校社会でリーダーシップを期待するのは、なかなかむずかしい。
この1ヶ月、いじめ自殺という悲惨な事件があったにもかかわらず、当のリーダーはリーダーシップどころか問題の所在まで否定する始末。
・・・・・・なんて書き出すと、「安田は学校教師が嫌いなのだろう」と思われちゃうかも。
ボクは、学校教師が嫌いなのではなくて、学校教師の置かれている環境が嫌いなんです。

もともとボクは、学校教師か研究者になろうと思ってました。
でも、物理学の研究に自分はどうものめり込めないような気がして、大学4年の時には志望が教員に傾いてた。
ところが、父にその話をすると、「学校の先生は、世間知らずでつぶしがきかない」などと批判。
当時のボクは、父と反りが合わなかったこともあって、そうやって紋切り型で批判する父に腹立たしい思いをしたものです。

でも、社会人になって考えると、その批判は当たってるし、多くの社会人もまたそう感じていることです。
教育実習に行ったときに感じた、あのまったり感。
あの環境の中で、長い年月、意欲を失わないで高みを目指し続けるのは、ものすごく難しい。
もちろん、それを実現している立派な先生もいるでしょう。
しかし、ボクを含めた大半の凡人たちは、そんなスーパーマンにはなれない。
怠け者のボクなど、簡単に大勢に飲み込まれちゃうだろう。
そう直感して、もっとシビアな、怠けたら社会から切り捨てられちゃうような環境に向かうことにしました。

学校組織のいちばん大きな問題点は、「入口社会になってしまっている」ということです。
いまの日本では、学校の先生に、とても優秀な人材が集まります。
大学時代は優等生だったり、何年も教員採用試験にチャレンジしてようやく教員の座を勝ち得たり。
でも、多くの先生は、その後はあのまったり社会にどっぷり漬かっちゃう。
そして何年かたつと、一般社会から見たら化石みたいな人が主導権を握るようになる。
「教師ってのは、けっこう忙しいんだ」「部活動なんて、ボランティア精神でやってるんだぞ」そんなアホな言い分を本気でのたまったりする連中になっちゃう。
「頭腐ってるんじゃないの?」って思うけど・・・・・・、でもたぶん、ボクだってその世界に入ってたら、そうなってたんだろうなぁって思います。

さて、「モノを腐らなくする、いちばん簡単な方法」って、何だと思いますか?

---それは、「風通しをよくすること」。

ボクはそんな思いから、27歳のとき、教室すべてにCCDカメラを設置しました。
今から17年ぐらい前で、当時は「画像も音声も収録できるCCDカメラ」はかなりの高級品。
それでも、教師たちの猛烈な反対を押し切って、授業の録画を始めました。

教師はかならず、「子供の人権がどうの」「休み時間に休めない」などと御託を並べます。
たとえば、インターネットで放映するにしても、今の技術をもってすれば、子供の人権を守る配慮は可能です。
また、一般の会社では、職場に上司や同僚の目があるのが当たり前です。
こういう御託は、言い訳にすぎない。
ホンネでは、「閉じた空間で、自分の好きにやりたい」だけなんですね。

閉じた空間の中でも、崇高な精神を維持し続ける立派な人もいる。
しかし、組織全体にそれを期待してはいけない。
閉鎖された空間は、かならず腐る。
「隠そう」とする精神構造が、腐れの始まりなんです。