今日のどーじょー主

2017年4月16日に引っ越しました。
コメントなどは、引越し先(右側「ブックマーク」参照)にお願いします。

コラム 6月号

2007年06月12日 | 啓学院通信のコラム
『稼ぐが勝ち』っていう本があります。
あの、ホリエモンって人の書いた有名な本だから、読んだ人も多いかも。
ボクは読んでないので、中身は知らないし、だから本の批評はできません。
ただ、今回の「コムスン事件」を見ていると、どうもこの題名が思い浮かんできちゃう。

「法の網をかいくぐってでも、稼いだヤツの勝ちだ。」
そういう信念の経営者は、意外に多いのかもしれません。
折口という人も、会見では神妙でも、会社の会議などでは「稼ぐが勝ち」方式だったのだとか。
たぶん、それが偽らざる本当の姿なのでしょう。
子どものときも、「勉強なんて、成績のいいヤツが勝ち」って育てられたのかな。

「法の網をかいくぐるのは、悪いことではない。」
「法律に反しなければ、何をしてもいい。」
こういう意見、キミはどう思うかな。
たぶん、「そういう考えは、間違っている」って言うんじゃないかな。
ボクもそう思うし、この質問はワリと答えやすい。

じゃあ、ちょっと形式を変えて、こう質問にしたらどうだろう。
「法律は、きちんと守らなければならない。」
キミは、この質問に「イエス」と答えるか、「そうとも言い切れない」と答えるか。

「法律に反しなければ、何をしてもいい」という主張と、「法律は、きちんと守らなければならない。」という主張。
一見、正反対のようだけど、どちらも「法律を絶対視している」という点で、じつは似ている主張なんだ。

人間は怠け者だから、いちいち理由なんか考えずに、ルールや法律を守っちゃうほうがラク。
だから、思考停止して、ルールや法律を守ろうとしちゃいがちです。
そして、もともとは「生きやすい社会にするため」に作られたルールや法律が、「生きにくい社会」の原因に変わっていったりする。

たとえば、ボクが中学生のとき、校則でこと細かなことまで決まっていた。
髪型から、靴下やパンツの柄まで。
中学生のときは、そういうのに反発して、前髪を顎まで伸ばしたりしてました。
いま思うとかなり幼稚ですが(汗)、その校則が、ホントに子どもの健全な育成に必要なことなのか、どうしても疑問で。

ルールや法律ってのは、ただ守ったり破ったりするんじゃなく、その成り立ちや存在理由を考えてみるとおもしろいです。
存在理由を考えるとき、「私は」という視点ばかり振り回してはいけない。
「車で、踏み切りの前で一時停止する必要なんてない」と主張する人もいますが、それは「私は」という視点だけで考えている典型的な誤りです。

そうやって考えていって、やがて「このルール(法律)は、このケースでは破るべきではないか」と思うときがきます。
そのときは、みずからの名の下に破る。
守らなかった結果について、責任を負う覚悟で破る。
かなり思い切った暴言かもしれないけど・・・・・・、ボクは、それがルールや法律に対する姿勢であるべきではないかなぁ、と思うんです。

キミの学校では、校則でどんなことが決まっていますか?
中には、うっとうしいものもあるでしょ?
それを、愚痴りながら守るのか、ただ幼稚に反発して破るのか、それともみずからの名の下に破るのか。
考えてみると、なかなか奥が深いものですよ。

「『法律に反しなければ、何をしてもいい』という主張は、間違っている。」
たしかに、そのとおりだと思う。
でも、ルールや法律について考えもせずに、そう主張するだけではいけないんではないかな。


コラム 5月号

2007年05月14日 | 啓学院通信のコラム
なぜか目が覚めて、眠れなかった夜。
退屈しのぎにテレビをつけたら、「スピリチュアル」なるものを特集していました。
最近かなり流行ってて、とくにエハラとかいうオジサンが有名だそうな。
「霊能者養成講座」や「すぴこん(スピリチュアル・コンベンション)」なんてのもあるのだとか。

その夜中の番組では、「すぴこん」の様子を映していました。
ボクのイメージしている「占い師」や「祈祷師」とはまったく違ってる。
20代・30代の若い女性がいっぱい参加してて、華やかな世界です。
それにしても、ただでさえ摩訶不思議なジャンルなのに、「指導者を養成」したり「合同見本市」をやったりするんですねぇ。
なんか、思いっきり胡散臭いぞ(^^;

ボクは別に、「科学は万能だ」などと途方もないことを信じてるワケではないです。
科学の基になっている論理学では、「自分について語ると、パラドックスに陥る」というのがあります。
簡単なのは、「『私はウソつきです。』という命題は真か偽か」とか。
だから、人間が自分たちの心について考察する場合、「科学で割り切れない部分がある」というのは、説得力があると思います。
「霊」だとか「前世」だとかを、断固として否定するつもりもないです。

しかし一方で、「超常なるもの」を安易に提示するのは避けるべきだ、という信念も持っています。
人間は怠け性を本質的に持っていて、「超常なるもの」に頼った時点で、精神的探求は放棄され、安直な結論に満足するものだからです。

ただ、精神的に不安定な状態のときは、「超常なるもの」にすがりたくなるのも、世の常。
ボク自身を振り返っても、反省させられることが多い。
40歳を過ぎて、健康診断結果がちょっと悪かっただけなのに、医者に脅されてかなり落ち込んで。
不安でたまらなくなって、いろんな健康法や健康食品を試したり、健康管理士なる資格を取ってみたり。
時間やお金をかけて、細かいことなら学んだこともたくさんあると思います。
でもなんだかんだ言っても、結論とするところは、当たり前なものだったような。
要は、「健康を望むなら、健康的な生活をすること」に尽きます。

キミは、成績や受験で不安になったりしていますか?
そういうときは、上のようなことに留意したほうがいいです。
「このテープを枕にセットして眠れば、寝ながら自然と学力がつきます。」
「このCDを毎日10分聞いていると、大脳が活性化されて、自然と頭の回転も2倍速になります。」
「東側の窓にこの紙を貼ると、受験に成功します。」
などなど。
「そんなアホなものに引っかかるヤツなんていないよ」と笑っちゃうようなものに、不安なときは引っかかっちゃうんですねぇ。

困ったときには、裏技や必殺技で一発逆転を狙いたくなっちゃう。
しかし、それは自滅行為に等しい結果しか生まない。
負けそうな沢村が真空飛びヒザを出したって、相手に格好のチャンスを与えちゃうだけ。
相手が落ち目のときこそ、ダメ押しに出す必殺技だから、意味があるんです。

勉強でも健康でも、困ったときほど、基本に立ち還りましょう。


コラム 4月号

2007年04月16日 | 啓学院通信のコラム
「うちの子どもたちの良いところ、ってなに?」
夕食のとき、奥さんから聞かれて、答えられなかった(汗)
新学年になって、学校に提出する書類に、そういう欄があるのだとか。
「悪いところ」なら、あれこれ思いつくのに、なんで「良いところ」はすぐに見つからないんでしょう。
親として、なさけない。

べつに、自分の子どもを「悪い」なんて思ってないんですが。
たとえば、学校に出かけるその後ろ姿を見て、「あぁ、いい子たちに育ってくれたなぁ」と感じ入ったりするんです。
思いっきり親バカです、ハイ。
そんな親ですから、トータルで「いい子」だとは断言できちゃう。
けど、「じゃあ、どこが良いところなの?」とあらためて聞かれると、ハタと困ってしまう。

履歴書って、かならず「長所」という欄がありますよね。
仕事の採用面接で、履歴書を出してもらうと、ほぼ100%記入されています。
具体例をあげて、「積極的」「集中力」「協調性」「明るさ」などを、すばらしく強調してあります。
みんなちゃんと、「自分の長所」を分析できてる。
自分をつかんでいて、エライです。
そう、こんなふうに素直に書けばいいんですよね。

でも、いざ自分の子どものことになると、「見方を変えたり場面を変えたりすれば、その長所も短所になるよね」などとややこしく考えてしまう。
「その子の好きなところ、ほめてあげたいところ」と、気軽に考えればいいのかもしれません。

これって、自分自身についても同じです。
「自分の悪いところ」というと---
「あれこれ首を突っ込んで、興味がなくなるとすぐに放り出しちゃう」
「イヤな仕事はいつまでもグズグズとやらない、怠け者」
「お人好しで、騙されやすい」
「おしゃべりのクセに、人前でちゃんと話すのはまったくダメ」
「いい歳して寂しがり屋の甘えん坊さん、そのクセ勝手気ままのマイペース」
「ふと気を許すと、過去の失敗ばかり数えている、マイナス思考」
---いやぁ、困ったヤツだ。

一方で、「良いところ」といわれると、何ひとつすぐには思いつかない。
「自分の長所はこれこれです、と断言したがらない、奥ゆかしいところ」とでもなるんでしょうか(笑)

そんなに深刻になる問題じゃないんでしょうが・・・・・・、自分についても子どもについても、もっと自信を持って「この点はずっと持ち続けてほしいし、そうなってくれてありがたいと思うところ」を言えないものかなぁ。
「自分をだいじに思っている。そして、人を愛したり信頼したりできる気持ちを、ちゃんと持っている。」
そんなところかな。
「長所を語る」というのは、なかなかむずかしいものです。


コラム 2月号

2007年02月09日 | 啓学院通信のコラム
キッザニアって知ってますか?
「子どもが仕事をして、キッゾというお金を稼いで、そのキッゾで何か買ったりできる」というテーマパークです。
なかなかの人気で、土日などは7月まで予約が入ってるんだとか。
なんだか、おもしろそうですよね。

「子どもが、楽しみながら社会の仕組みを学べる、エデュテイメント」なのだとか。
ふ~ん、ただの「新手のテーマパーク」じゃなくて、教育的意味のあるものなんだ。
ふ~ん、そうなんだ。
こんな大義名分を立てられたら、お母さんたちは堪らんだろうな。
でも、そこまで言うと、なんだかウサン臭いぞ(^^;

「子どもが就業体験することの、教育的意味」って、大きいと思います。
なら、たかだか半日の仮想空間での経験じゃなくって、もっと継続的でリアルなもののほうがおもしろいんじゃないかな。

子どものころ、ボクの周りにはワリと貧しい家庭の子がたくさんいました。
クラスメートには、給食費を払えなかったり、生活保護を受けていたりする子も、ちらほらいたようです。
そのせいか、小学校低学年でも、新聞や牛乳の配達をするのが、そう珍しいことじゃなかった。

子どもって、大人が思っている以上に、能力があるんですね。
子ども扱いするからできないんであって、要求すればできるんです。
だったら、仮想空間でキッゾを稼ぐんじゃなくて、現実に「円」を稼いでもらうってのは、どうでしょう。
自分のお小遣いや、できたら学費も、自分で稼いでもらっちゃう。

といっても、いまの社会で、個々の家庭でやろうとしても、なかなかむずかしい。
雇うほうだって、児童福祉法がなんたらかんたら、となるだろうし。
そこを、うまく工夫して、なんとか実現できないものかなぁ。
たとえば、「NPOが仕事を集めてきて、親との間で業務委託契約をする。そして、親が自分の子どもを雇用する」とか。
仕事内容も、新聞配達やポスティングだけじゃなく、特技も生かせるものを用意する。
マンガが得意な子はイラスト作成、パソコンが得意な子はホームページ管理、という感じ。

子どもって、「あれが欲しい」「これが欲しい」ってうるさい。
というボク自身も、いい大人のクセに、キミたちと大差ないです。
さすがに「モノが欲しい」というのは少ないですが、「こういう環境を作りたい」「こういう仕組みを作りたい」という欲求は、いっぱいあります。
そして、失敗ばっかりです。
あぁ、失敗ばっかり。
でも、そういう欲求を、だれかが簡単に解決してくれちゃったら・・・・・・。
最初は嬉しいかもしれないけど、なんだか物足りないしつまらないんじゃないかな。
「生きている実感」みたいなのが、なくなっちゃうかも。

子どもの欲しがるモノを何でも買い与えて、子どもから「生きている実感」を奪ってはいけません。
モノを与えるんではなくて、自分の力で手に入れる方法を与えるべきです。
魚ではなく、釣竿を与えるべきです!
・・・・・・などと言いつつ、現在の優しい大人たちは、子どもの欲求不満を、すぐに解決してあげたくてしょうがないんです。
先日も、家族に「DVDレコーダーが欲しい」なんて言われて、ついついヤマダ電器に走ろうとしてしまいました(^^ゞ
魚を与えないのは、気概がいります。


コラム 1月号

2007年01月14日 | 啓学院通信のコラム
あけまして、おめでとうございます。
年末年始に、去年1年を振り返ったり、新しい1年の目標を思い描いたりしたんじゃないかな。
ボクも、年始に「今年の抱負」とやらを考えてみました。

いやぁ、去年はひどかった。
なんでこう、失敗ばかりなんだろうと思うくらい、ダメな年だった。
信頼や期待というものに、みごとに見放された1年でした。

中には、天才的なセンスがあって、失敗をうま~く避けていける人もいます。
しかし凡人は、アホみたいに何度も同じようなワナにはまって、失敗と反省をくり返しちゃう。
挑戦する前には、バラ色の像を描いて、手前味噌なビジョンを見てしまう。
そして、失敗してから振り返ると、「あちこちに、ワナが丸見えじゃないか」と後悔したり。

失敗を避けるために、事前の念入りな調査や、冷静な判断が必要だなぁ、ってつくづく思います。
それでも、残念ながら、失敗しなければわからないことも多いもんです。
そして、そうやって気づくことは、「あたり前のこと」だったりするんだけど・・・・・・
凡人には、その「あたり前のこと」にも、経験の裏付けが必要なんでしょう。

このオジサン、何をいつまでもグチってるんでしょうねぇ。
何が言いたいかというと、「受験の季節ですねぇ、受験も同じだよ」ってことでして。
受験なんて、長い人生から見たら、ちっぽけなものだけど・・・・・・
小学生・中学生にとっては、これまでの人生の中で、最大の挑戦。
「失敗したら、どうしよう」「できたら、やらずに済ませたい」って思いますよね。
でも、キミたちの人生にとって、すごくいい経験になるハズです。

4畳半の古アパートで教室をやってたころ、絶対にムリな高校を受験するってきかない子がいました。
Nさんという女の子で、実力はあるんだけど、科目による偏りがひどくて。
ちょっと生意気で素直じゃないから、学校の先生のウケもよくなくて、内申点が悪い。
それなのに、近所の上位校を受けるといってきかない。

学校の先生には、とうぜん反対されます。
でもボクは、Nさんと話してるうちに、無責任にも賛成しちゃったんですね。
「ま、間違いなく落ちるよ。でも、落ちなきゃ納得しないんだろうから、落ちといで」って。
いやぁ、とんでもない教師です。

もちろん、「落ちた後」の話は、ちゃんとしました。
キミは、精神的に強い。
だから、ズルズルと不満を抱えるより、決着をつけちゃったほうがいい。
高校受験に失敗してすべり止めの高校に通って、大学受験に明確な問題意識を持った高校生活を送りなさい。
・・・・・・というような話です。

この時期に、こんな話を書くのはヒンシュクかも知れないけど・・・・・・
よく、「結果ではなく、過程がたいせつ」みたいなことを言いますよね。
「キレイごとだ」と批判する人もいるけど、ボクは、そう信じている。
1回のチャレンジの結果で人生が決まるなら、結果がすべてかもしれない。
でも、先を見たら、過程のほうがもっとだいじだって思う。
「全力を出せるように自己をコントロールしていく」過程や、「失敗の後で学習していく」過程が、その人を作っていくんだと思う。
たんに成功するより、学習する失敗のほうが、ずっと尊い。

失敗と敗北は、ちがいます。
受験生諸君、どうか失敗を恐れず、目標の成就をめざして、全力を尽くしてください。
そして、「納得のできる挑戦」をしてくださいね。

コラム 12月号

2006年12月03日 | 啓学院通信のコラム
「サンタクロースは、ホントにいるのか?」
そう不思議に思ってる子が、たくさんいるのだとか。
夢があって、いいですねぇ。
ボクが小さかったころは、「クリスマス」なんてブルジョアのイベントで……。
ボク自身は、ほとんど縁がなかったです。
「サンタはいるのか?」なんて疑問さえ、持たなかった。

いるのかいないのか、よくわからないサンタさんですが……、彼に聞いてみたいことがあります。
「サンタさん、おたくの使命は、いったい何なんですか?」と。

サンタの由来は、セント・ニコラスという司教さんだそうで。
貧しい人々に、夢や生きる希望を与えた人だとか。
さてさて、いまの日本の子どもに、サンタは必要なんだろうか、とっても不思議です。

いまの日本の一般家庭は、モノにあふれている。
一軒の家に、なぜか、子どもの数と同じだけ、同じゲーム機があったり。
それなのに、「新しいゲーム機がほしい」とねだり、手に入れば古いゲーム機はガラクタになる。
そんな、物欲の権化みたいな連中を育てるのが、サンタの役割なんでしょうか。

もう、充分じゃないのか?
キミたちは、もう充分に受け取っているんじゃないのか?
何かが足りなくて苦しんでいるのは、キミ以外の「だれか」じゃないのか?

世界のどこかにいる、苦しんでいる人たちのことに思いを寄せることも大切だと思う。
でもそれだけじゃなく、キミのもっと身近に、「夢」を失って苦しんでいる人がいないか、見回してもいいんじゃないかな。

たとえば、お父さんやお母さん。
「家族のため」「子どものため」って願うあまり、いつの間にか「自分の夢」を見失っちゃってる大人が、じつはいっぱいいる。
たとえば、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん。
「余生」という言葉に支配されて、夢を熱く願うことをあきらめているかもしれない。

そんな人たちの枕元に、キミからのクリスマスカードを置いておくだけでもいい。
ふだんは照れくさくて言えない感謝の気持ちとか、心の支えになっている思い出とか、そんなことを綴ってみたらどうだろう。
そんなちょっとした「プレゼント」が、キミを愛しく思ってくれる大人たちの、生きる力になったりする。

言葉にするとなんだか陳腐になっちゃうけど―――サンタは、じつはキミの中にいるんじゃないかな。
もしキミが、充分な愛情に包まれて育ったなら、心の中に「サンタの心」があふれているはず。
いまは、それをだれかにプレゼントする番ではないのかな。

すてきな夢は、物欲を満たすことでは得られません。
むしろ、何かを与えることで見られるものかもしれません。
メリー・クリスマス。
キミに、すてきな夢が届きますように。


コラム 11月号

2006年11月01日 | 啓学院通信のコラム
先月のコラムで、「イジメ問題の解決には、断固としたリーダーシップが必要」と書きましたが、学校社会でリーダーシップを期待するのは、なかなかむずかしい。
この1ヶ月、いじめ自殺という悲惨な事件があったにもかかわらず、当のリーダーはリーダーシップどころか問題の所在まで否定する始末。
・・・・・・なんて書き出すと、「安田は学校教師が嫌いなのだろう」と思われちゃうかも。
ボクは、学校教師が嫌いなのではなくて、学校教師の置かれている環境が嫌いなんです。

もともとボクは、学校教師か研究者になろうと思ってました。
でも、物理学の研究に自分はどうものめり込めないような気がして、大学4年の時には志望が教員に傾いてた。
ところが、父にその話をすると、「学校の先生は、世間知らずでつぶしがきかない」などと批判。
当時のボクは、父と反りが合わなかったこともあって、そうやって紋切り型で批判する父に腹立たしい思いをしたものです。

でも、社会人になって考えると、その批判は当たってるし、多くの社会人もまたそう感じていることです。
教育実習に行ったときに感じた、あのまったり感。
あの環境の中で、長い年月、意欲を失わないで高みを目指し続けるのは、ものすごく難しい。
もちろん、それを実現している立派な先生もいるでしょう。
しかし、ボクを含めた大半の凡人たちは、そんなスーパーマンにはなれない。
怠け者のボクなど、簡単に大勢に飲み込まれちゃうだろう。
そう直感して、もっとシビアな、怠けたら社会から切り捨てられちゃうような環境に向かうことにしました。

学校組織のいちばん大きな問題点は、「入口社会になってしまっている」ということです。
いまの日本では、学校の先生に、とても優秀な人材が集まります。
大学時代は優等生だったり、何年も教員採用試験にチャレンジしてようやく教員の座を勝ち得たり。
でも、多くの先生は、その後はあのまったり社会にどっぷり漬かっちゃう。
そして何年かたつと、一般社会から見たら化石みたいな人が主導権を握るようになる。
「教師ってのは、けっこう忙しいんだ」「部活動なんて、ボランティア精神でやってるんだぞ」そんなアホな言い分を本気でのたまったりする連中になっちゃう。
「頭腐ってるんじゃないの?」って思うけど・・・・・・、でもたぶん、ボクだってその世界に入ってたら、そうなってたんだろうなぁって思います。

さて、「モノを腐らなくする、いちばん簡単な方法」って、何だと思いますか?

---それは、「風通しをよくすること」。

ボクはそんな思いから、27歳のとき、教室すべてにCCDカメラを設置しました。
今から17年ぐらい前で、当時は「画像も音声も収録できるCCDカメラ」はかなりの高級品。
それでも、教師たちの猛烈な反対を押し切って、授業の録画を始めました。

教師はかならず、「子供の人権がどうの」「休み時間に休めない」などと御託を並べます。
たとえば、インターネットで放映するにしても、今の技術をもってすれば、子供の人権を守る配慮は可能です。
また、一般の会社では、職場に上司や同僚の目があるのが当たり前です。
こういう御託は、言い訳にすぎない。
ホンネでは、「閉じた空間で、自分の好きにやりたい」だけなんですね。

閉じた空間の中でも、崇高な精神を維持し続ける立派な人もいる。
しかし、組織全体にそれを期待してはいけない。
閉鎖された空間は、かならず腐る。
「隠そう」とする精神構造が、腐れの始まりなんです。


コラム 10月号

2006年10月04日 | 啓学院通信のコラム

最近、「ニート」という人種が増えているそうです。
仕事も勉強もしていない人たちのことだそうで。
テレビや新聞などでも、社会問題みたいに取り上げられています。
先月も、偶然そういう番組を見て、ニート氏の言い分を拝聴していました。

ブログなどで検索すると、ニート氏たちの言い分も見つかります。
「これだけ立派に意見表明できるなら、働けよ」なんてツッコミ入れたくなっちゃう(^^;
「多様化した価値観がどうたらこうたら」とか、「社会の二極分化がなんたらかんたら」とか。

・・・・・・なんか、詭弁に聞こえるんですよねぇ。

そもそも、「ニート」なんてカッコいい名前を付けるからいけない。
「自分はニートだ」って定義すれば、市民権を得たかのような、社会の犠牲者かのような、そんなイメージで、無気力野郎でも存在を認めてもらえちゃう。
だから、付和雷同の怠け者が、わんさか集まってきちゃうワケです。

簡単に言ってしまえば、「社会の寄生虫」でしょう。
「サナダムシ」とか「カイチュウ」って呼んであげればいい。
そうすれば、少なくとも便乗怠け者組は消えてくれるんじゃないかなぁ。

日本は、物質的・経済的にとても豊かになった。
だから、こういう寄生虫を養うだけの社会的な力がある。
でも、寄生虫がはびこったら、その社会はかならず衰えていきます。
道理で考えれば、当然の帰結ですよね。
それを避けたければ、社会側は断固としてレッドカードを突きつけるべきです。

学校社会だったら、たとえばイジメがいい例かな。
リーダー(校長)が、「イジメた側の言い分もあるワケだし、子どもの人権を考えると、一概にいけないと言っていいものか。。。」などとフニャフニャしたことを言ってるようだったら、その学校からイジメは決してなくならない。
逆に、リーダーを筆頭に、「断固としてNo!」という姿勢を示せば、イジメはなくなるものです。

最近の大人社会だったら、駐車禁止や飲酒運転。
飲酒運転する連中には、それなりに言い分があったりする。
「酔っていることと事故を起こすことには、じつは直接の因果関係があるワケじゃないんだ」とか、「あまり強く規制すると、街の飲み屋さんがやっていけなくなるじゃないか」とか。
でも今は、悲惨な事故がキッカケとなって、「断固としてNo!」となっています。

以前、街中にはびこる「ヘロインの自動販売機」のことを書きました。
http://219.121.16.200/~noryyasuda/column/column200409.htm
最近になってようやく、「金利のグレーゾーン」の問題や、「勝手に生命保険に入れる」問題などで叩かれてます。
もっと単純に、「あんなふうに弱者を喰い物にする連中は、断固としてNo!」という姿勢でいいんじゃないかな。
「業界の保護がどうたら」とか、「大手金融機関もカトちゃんペッ」とか、そんな理屈で、何となくウヤムヤに持っていかれそうな雰囲気ですが・・・・・・。

なんか、脱線してるうちに、「寄生虫をどうやって社会から駆除するか」について書けなくなってしまいました(^^;ゞ
また、そのうちということで。

 


コラム 9月号

2006年09月09日 | 啓学院通信のコラム
長女がいま、ニキビで悩んでます。
顔じゅう花ざかりで、背中の上の方まで広がっちゃってる。
そういえばボクも、中学生のころはひどかった。
自分では「何とかしたい」と思ってたんですが、当時はまだ「男がニキビ対策するなんて」という空気もあって、親に相談するのも恥ずかしくて、放置してしまいました。

だから当然、痕が残る。若いころは、けっこう後悔したりしました。
「自分みたいに苦しんじゃ、かわいそうだ」と、親バカを発揮して、一緒に解決法を考えてあげちゃうことに。

で、これまで、インターネットで調べたり人に聞いたりしながら、いろんな石鹸を買って試してきたのですが、なかなか良くならない。
ちょっと良くなったと思っても、すぐに元に戻っちゃいます。どうも、対策がズレてるかな?

そもそも、背中にもできてるのだから、いくら洗顔をガンバったって、根本的な対策になってないだろう。
そう、「原因は体内にあり」だ。
ということで、漢方薬のお店に行ってアドバイスを受けたり、サプリメントを試させてみたり。
まぁ、なんて親バカなんでしょう(^^;

やはり読みどおり、サプリメントを試せば、効果のある対策を見つけられそうな気配。
ところが、当の本人は、マズイだの何だの言って、飲まないんです。
も~、こっちがこんなに考えてやってるのに、ちょっとマズイぐらい何だって言うんだ!
ちゃんと言うこと聞いて、飲みなさいっ!
・・・・・・と、腹が立ってしまいます。

これって、宿題のことで言い争ってる図に、よく似てますね。
「夏休みの宿題は、ちゃんとやってるの?」
「やってるよ。」
「ウソ、やってないでしょ。」
「だって、部活の大会があって忙しいんだもん。」
「そんなこと言ってるから、毎年、最後にあわてて後悔するんでしょ。」
今年の夏、こんな会話をした人、いるんじゃないかな(^^)

もともと、親のほうだって、言い争いたいワケじゃあないんです。
ただ親というのはみんな親バカで、先のことを意識して、子どもが困らないようにしてあげたくなっちゃうから、どうしてもお説教調になっちゃう。
こうして、親と子は、不毛な(?)対立を続けることになるのでしょう。
何か、うまい方法は、ないものでしょうか?

たとえば、「のび太になって時間旅行」みたいなゲームがあったらおもしろいかなぁ。
---のび太が自分の将来を見に行ったら、スネ夫の部下になっててコキ使われてる自分がいた。
「こりゃ、タイヘンだぁ。ドラえもん、なんとかして~」と泣きついて、何か現状を変えてみる。
そして将来を確認に行くと、しずかちゃんと結婚して、幸せな家庭を作っている。
めでたし、めでたし。
---みたいな話があったような。
こういうことが、とってもリアルに体験できるようなゲームがあると、おもしろいですよね。

現状のまま放置したら、1年後はどうなっているのか?
10年後の自分は、どうなっているのか?
それを、タイムマシンに乗って、見に行ってみる。
いや、できたら、将来の自分に乗り移って体験してみる。
そして、現状が問題であると強く意識し、解決を強く望むようにできたら。

問題解決については、「問題を明確に意識できれば、9割方は解決したようなものだ」とよく言われます。
イマジネーションを使った「タイムマシン・ゲーム」に、たっぷり時間をかけてみるとか。
そんなふうに、長女とニキビ対策について、話してみようかなぁ。


コラム 7月号

2006年07月15日 | 啓学院通信のコラム
村上ファンドの、村上っておじさんが捕まっちゃいましたね。
とっても頭のいい人のようだが、お金に対するモラルがなってない。
ああいう人間が出てこないように、もっとお金に対するモラルを、子どもたちに教育していく必要があるんじゃないか。
---そう主張している教育評論家の人もいるようです。

そういえば、バブル景気のころは、男の価値を年収ではかるような風潮があったんですよ。
信じられないかもしれませんが、当時はホントに、社会全体がそんな空気だった。
「稼ぐが勝ち」みたいな社会は、どこか狂ってる。
まともな社会を作るためにも、子どもに「お金モラル」を教育すべきかもしれません。

「お金モラル」は、稼ぐことだけじゃなく、遣い方にも必要。
何年前だったか、「稼ぎ方より、遣い方のほうが難しい」と書いてある本を読みました。
なんか、お金持ちの世迷言みたいですよね。
「お金の遣い方の、どこが難しいっていうの?」って思っちゃう。
でも、バブルのころ、お金をいっぱい持てた日本人が何をしたか思い出すと、この人の言いたいこともわかる気がします。

社長さんが、仕事がうまくいって10億円ぐらい儲かっちゃった。
金ピカの腕時計したり、大きいベンツに乗ってみたり、周りの人たちにいろんなもの買い与えてみたり。
女の人だと、ドレスや装飾品で着飾って、「上から下まで1億円です」なんて自慢してみたり。

テレビとかで祭り上げられてるのを見ると、なんとなくうらやましいような気がするけど・・・・・・、実際に自分がそうなることを想像すると、うら悲しくなっちゃう。
仕事は、お金を稼ぐためにする面もあるし、それは重要な側面。
でも、その結果が、そんな情けない垂れ流し人間になることだとしたら、何のために仕事をガンバってきたのかわからなくなっちゃう。

ま、稼げない人間の遠吠えって感じですが(^^;
でもボクらは、お金を、虚栄とか垂れ流しに遣うことがとても多いものです。
いまのボクの経済状態でも、ついそうなりがち。

これは個人的な信念なんですが、「お金は、社会から与えられた信託財産」と考えたらいいんじゃないか、と思うんです。
信託を多く与えられることは、とても名誉なことである一方、責任もいっぱい負うことになる。
どのように、その信託に答えるべく遣うことができるか。
その力量が、社会から問われてる。
そう思うと、おいそれとアホな遣い方もできないような気がしてくる。

自分の子どもには、この信念を伝えたいなぁ。
そう思って、お小遣いをやたらと遣い込んでも、「ムダ使いするな」などと叱ったりしません。
「お金が生きるように遣ってるか?」と聞くようにしてます。
当の子どもたちはというと、「またワケのわからんことを言ってるなぁ」という顔してますが。