ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

北原糸子「江戸時代の大災害と時代の転換」&野口武彦『安政江戸地震』

2018-04-16 11:34:31 | 日記 安政地震関連・本・古文書など
北原糸子「江戸時代の大災害と時代の転換」
(文化庁編『遺跡に刻まれた復興の歴史』より)

「江戸幕府の災害対策は近代のような財政構造をもっておらず,
 経常費の中に災害のためのお金は蓄えられていません。
 ・・・災害時の臨時入用は,大名手伝普請によるインフラ復旧,
 あるいは富裕町人からの御用金,
 一般領民からの国役課金というかたちで徴収します。」(155~156ページ)

元禄地震(1703年)の場合
 江戸城の復旧は大名に命じて:大名の石高に応じて
 例:毛利家(『御普請御手伝』
    ・・遠い萩から人足を連れてくるのは消耗するので,(270人)
      江戸で人足を雇う。(いい賃金で人を集める。)(9万3000人)

宝永地震(1707年10月4日(旧暦))の場合
 幕府領のみの復旧。
「当時は公儀としての災害に対する政治的義務を履行していなかった
 とも考えられます。」(173ページ)
「(東海道筋修復では,)すでに幕府が契約した請負商人がいるから
 商人の要求する金額を払えばよいと,
 幕府の勘定奉行だった荻原重秀が命令します。」(174ページ)

そして,富士山宝永噴火(1707年11月23日(旧暦))の時には,
 例:小田原藩・・作物の被害で農民が小田原藩に訴えるも救済するとの反応がない。
    農民は幕府に直接訴えようとする。
     →小田原藩11万3000石の半分を上地させ幕領にして,
      お救い米を出して復旧させる。
      全国一斉に100石につき2両の高役金(たかやくきん)を収めさせる。
       (2つとも前例がない)
*「単に大名手伝普請の形態変化に限らず,
  幕府の政治的経済的転換期でもあったといえます。」(181ページ)

天明の浅間山大噴火(1783年7月(旧暦))の場合
 商人の請負は認めず,村普請でやったものだけを認めるという方法で,
 手伝普請の細川藩が村から計算書を出させ,それらをまとめて計算書を作成し,幕府に提出。

善光寺地震(1847年)の場合
 大名手伝普請という方式は採用されなくなった。
 例:松代藩(真田氏)・・幕府役人への贈り物攻勢
             →普請担当の役人に現地に来てもらい,被害を検分してもらう。
             →いち早く幕府から救済金や修復金が出た。



もう1冊
これはまだ,第一章だけしか読んでいませんが・・・

野口武彦『安政江戸地震 災害と政治権力』
第一章 歴史は繰り返す より

「もしかしたら地震ユートピアは,PTSD性ユートピアだったのかもしれない。」(31ページ)
PTSDの段階
 第一の「衝撃」人々は高い覚醒状態でふるまう。
 第二の「衝撃後」高度の適合状態が出現。
 第三 その災害の報道が新聞のフロントページから消えるころ,
    幻滅的な現実直視の局面が現れる。

つまり,
北原糸子が『安政大地震と民衆』の中で,
鯰絵の画面から
「地震による世直りを歓迎し,また期待・歓迎するばかりでなく,
 既にそれを体験した場合出て来るであろうある種の至福感」
を読み取っているが・・・。


難しくなってきました。

北原糸子が『安政大地震と民衆』,チェックです。






コメント (2)
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